【タル蛍】腕が立つとはいえ、 目を開けるより先に鼻腔を掠めた香りは、どこか甘ったるい、少なくともタルタリヤが好む匂いでは無かった。それどころか最近嗅ぐのも辟易している類のもの。
ついにやってくれたかと目を開け、顔を上げる。軽く辺りを見渡せばそこは小さなテーブルと椅子が置いてあるだけの殺風景な部屋だった。当然見たこともない、知らぬ部屋にどうやら目の前の椅子と同じ椅子に座らされているらしい。ご丁寧に後ろ手に拘束をして。
気絶をしていたのはどれくらいか。酷く痛む後頭部の具合からしてそんなに経っていないのか。
ともかく背後から襲撃され、気を失っているうちに連行された先で拘束されている。犯人の目星はついていた。想像する通りなら少しすればその人物は現れるだろう。喚くでもなくじっとその時を待っていると、想像通りの人物が姿を現した。
「ご機嫌よう、タルタリヤ様」
シンプルだがこの場に似合わないドレスに身を包んだ女は、にこりと微笑んで挨拶をした。
「やぁ、随分と大胆な行動に出たじゃないか」
「あら、タルタリヤ様が悪いのですよ」
現れたのは女が一人と男が二人。態度からして男達は女のボディーガードだろう。そして女は最近タルタリヤにいやに懸想している人物だった。断っているにも関わらず何度も付き合って欲しいと付きまとってくるのだ。時には金を、時にはその美貌をちらつかせ、タルタリヤを自分のものにしようと動いている。恐らく欲しいと思ったものは手にしないと気が済まない性質なのだろう。
金は有り余っているし、可愛い恋人もいる。そんなタルタリヤに女が提示する物には何の魅力も感じなかった。だから何度も断っているのに少しも伝わっていないらしい。それどころか痺れを切らしたらしく、ついにはこうして強硬手段に出たようだ。
「こんなことしても、俺は君の物にはならないよ」
「そんなつれないことを仰らないで」
女は椅子に座ると背後に控えていた男達に指示を出す。その指示に男の一人が部屋を出ていき、少ししてメイドらしき女と共に戻ってきた。メイドはティーカップとポット、そして何故か時計を手に現れテーブルにセットする。セットが終わると当たり前のように女はカップを手にし口に運んだ。
「さて、お話に戻りましょうか」
「話? 俺には何も話す事なんて無いんだけど」
「まだそんなにつれないことを仰りますの? あまりつれないことばかり仰ると私、我慢が出来なくなってしまって」
軽く持ち上げられたカップがそのまま手放され足元で割れる。
「旅人さんに何かしてしまいそうですわ」
「へぇ……」
割られたカップにメイドがすぐに近付き片付けを始めると、女の視線はそちらへ向かった。そのためスゥと目を細めたタルタリヤの気配に気付いた様子はない。それから女はわざとらしく小さく頭を振って溜息を吐いた。
「でもそれは私の本意ではありません。貴方さえ色好い返事をしてくだされば、全て良い方に進みますわ」
ね? と笑んだ女にタルタリヤは一度虚を衝かれた表情を見せた。それから口を開きかけてそのまま俯く。今まで散々断ってきたのだ。すぐには答えを出せないだろう。そこまでは女の想像通りでもあった。しかしタルタリヤは小さく笑いだし、今度は女の方が虚を衝かれる。しばらく笑い続けたタルタリヤは顔を上げると、はぁと一度大きく息を吐き出し告げる。
「腕が立つとはいえ、所詮は女。まさかそんな風に彼女を評価してるわけじゃないよね?」
「何を仰り」
「だとしたら、例え彼女と付き合ってなくても君とは付き合わないよ」
手を拘束されていなければ両手を上げて肩を竦めていただろう。さらに大袈裟に溜息を吐いたタルタリヤに女はキッと目を吊り上げ声を荒げる。
「随分と彼女を評価なさっているのね」
「そりゃそうさ。じゃなきゃ俺が好きになるはずないだろ? あぁ、言っておくけど君が彼女くらい強かったとしてもさっきも言った通り君とは付き合わないだろうね」
「どうして……」
「どうして? それすら分からない君に付き合う価値なんてないよ」
少しも思い通りにならないタルタリヤにギリッと女は唇を噛み締める。しかしちらりと時計を見た後、一度深呼吸をすると落ち着いた様子で言った。
「なら、そんな彼女が今まさに襲われているとしたら貴方はどうするのかしら」
何を、とでも言いたげな表情をしたタルタリヤに女は嬉々として語る。
「きっと貴方はすぐにお返事をくださらないでしょうから、あらかじめそう命令しておきましたの。時間までに中止の合図が無ければ、と。ほら、早くしないと大事な方が酷い目に遭いましてよ。今ならまだ最悪な結末は回避できるかもしれませんわね」
ふふっと嬉しそうに女は笑った。選択肢は絶った。残ったのは自分の望む答えだけだと信じて疑わない。
黙ったままのタルタリヤに近付くと、細い指でその顎に触れ顔を上げさせる。女はタルタリヤの整った顔、そして青い瞳が気に入っていた。それらが今間近で自分だけに向いている。指を滑らせ頬に触れる。早く、答えろ、と知らず指に力が入った。
「まだ返事はいただけませんの?」
「もしかして、君の策はこれだけ?」
求めていたものとは違う言葉に女の動きが止まる。それで全て悟ったのか、タルタリヤはそれはつまらなそうに言った。
「なんだ、もう少し楽しめるかと思ったのに」
とても追い詰められている側の態度には見えない。そしてその態度は女にとって嫌な予感しかなかった。
「まだそんなことを……貴方の大事な方がどんな目に遭ってもいいのかしら」
「まずそれがあり得ないんだよ」
「っ……貴方、自分の立場が分かっていらっしゃらないの?」
頬に触れる指に力が入り爪が軽く食い込む。更に力を込めればぷつりと肌が裂け、うっすらと血が滲んだ。
「手を縛られ動くことも出来ず、力の無い私にさえ抵抗できない。旅人のことが無くても貴方に拒否権なんて無いのよ」
徐々に荒くなる言葉遣いに女に余裕が無くなっているのは明らかだった。
「あのさぁ……君、まだ気付かないの?」
「何を」
「いいよ、もう出てきても」
え? と思った時にはどさどさと音が響いた。何が起きたか分からず振り返った瞬間、脇を何かが通り過ぎた気配。女が目にしたのはその場に倒れ込んだ男達の姿。慌ててタルタリヤに視線を戻せばその何かはタルタリヤの側に居た。思わずタルタリヤから距離を取る。
姿を現したのはデットエージェントだった。素早くタルタリヤの手の拘束を解くと、自由になったタルタリヤは立ち上がり軽く肩や腕をほぐす動きをした。
「お怪我は」
「頭が少し痛むくらいだよ。わざと捕まるのはもうこれっきりにしたいね」
「……わざと?」
「そうだよ。まさかあんなお粗末な襲撃で俺が捕まると思った?」
「は? え?」
タルタリヤの言っていることが理解できずふらふらと後退った女はそのまま机にぶつかり、ガシャンと机の上の物が音を立てる。それらを用意したメイドは部屋の隅で震えていたが、タルタリヤはそちらには一瞥もくれず冷めた目で女を見ていた。ブツブツと呟きながら必死に頭を回転させる女にタルタリヤは続ける。
「拘束もさ、本当はいつだって抜け出せたんだよ。それに本当に俺を捕まえておきたいなら、足もしっかり縛っておかないと。いつでも逃げて下さい、なんて言ってるようなものだよ」
「な、ん……っ、どうしてわざと捕まる必要が!」
「それは」
「タルタリヤ!」
その問いに答えようとした瞬間、タルタリヤの名前を呼びながら部屋に飛び込んできた人物にタルタリヤはパッと表情を明るくさせる。
「相棒!」
「タルタリヤ、大丈夫? っ……顔、怪我してる」
「大丈夫、ただのかすり傷だよ」
一目散にタルタリヤに近付いた蛍は顔を確認した瞬間、頬に滲んだ血に気付いて手を伸ばす。血が付くのも構わず頬に触れるその手を握りつつ、タルタリヤは蛍の腰を抱き寄せた。
「相棒こそ大丈夫? 怪我は」
「私の方は大丈夫」
軽く全身に視線を寄越せば確かに怪我らしい怪我は一つもない。一方で女は蛍の登場が信じられないというような目で見ていた。それに気付いたタルタリヤはニヤリと笑うと蛍を更に抱き寄せる。
「言っただろ? あり得ないってさ」
血が滲むほど唇を噛み締めた女はキッと二人を睨みつけると黙ってその場を走り去った。その後を追おうとしたデットエージェントをタルタリヤは呼び止める。
「後を追うだけでいい」
「はっ」
その様子を見送って、先に口を開いたのは蛍だった。
「あとでここに来てっていうから来たけど……一体何があったの?」
「うーん、少し長くなるけど。あぁ、君も早く行くといいよ」
まだ部屋の隅で震えていたメイドに声をかけると、彼女も一目散にその場を去って行った。それも見送って二人きりになった後、璃月港へ向かって並んで歩きながら事の顛末を語り始めた。
始まりはとある商家の娘がタルタリヤに懸想したこと。しかし少しも靡かないタルタリヤに蛍さえいなければと蛍を消そうとした。所詮は女だ、と宝盗団を雇い蛍を襲うよう指示したものの、実力のある蛍がその辺の輩にやられるわけもなく。何度となく返り討ちにされ、今度は直接タルタリヤを手に入れる方法を考えた。それが今日の一連の出来事だったが、その作戦はお粗末なもので女の動向を窺っていたタルタリヤの元には全て筒抜けだった。
しかしそれを逆手に取りタルタリヤはわざと捕まって全てを終わらせることにしたのだ。また捕まっている間に蛍の元に更なる宝盗団が送り込まれることも分かっていたので、それを直接蛍に告げた。その処理が終わった後、ここに来て欲しいということも。
「つまり……最近宝盗団に襲われるのが多かったのも、今日の人たちも全部タルタリヤのせいってこと?」
「んー、まぁざっくり言えばそうかな」
「しかもわざと捕まってるし……」
むすっと不機嫌な顔を見せた蛍をチラリと見て少し先を歩いた後振り返りずいっと顔を覗き込む。
「俺と付き合うの、嫌になった?」
ぶつからないよう立ち止まった蛍は更に不機嫌そうな顔を見せる。
「そんなこと言う貴方も嫌だし、自分のこと大事にしない貴方も嫌」
「それは困るなぁ」
全く困ったようには見えない態度で再度横に並ぶと今度は蛍の手を取り指を絡める。
「機嫌、直してくれる?」
「機嫌が悪いのはタルタリヤの方でしょ」
蛍の返答に目をぱちくりとさせて空いた手で頭を軽く掻く。
「いつから気付いてた?」
「ずっと殺気が漏れてる」
「あー……」
自分もまだまだだと、ふーと息を吐いて天を仰ぐ。
「あの人、殺しちゃ駄目だよ」
見た目からは想像が出来ない物騒な発言に視線を戻すと、蛍は小さく首を傾げていた。
「君はあれを許すの?」
「少なくとも殺すほどのことじゃないから」
「……優しいね」
繋いだ手を引き寄せて腰を抱く。軽く口付けるとふふっと蛍は小さく笑った。
「そんな優しい君に免じて今日は見逃してあげよう」
「……何か含みのある言い方だね」
「彼女の家、今度仕事で邪魔することになっててね」
にこりと笑って見せれば、蛍はきょとんとした顔を見せた後呆れたようにほどほどにね、と答えた。