明日は君の隣で 廃屋の朽ちた扉に手をかけて中に入ると、左奥の物陰からゆらりと歪な動きの人影が飛び出し、こちらへ近づいてくる。――――――彷屍だ。
魏無羨は、手にした銃の照準を彷屍の頭蓋に合わせると、数回トリガーを引く。彷屍はあえなく崩れ落ちるが、その後ろからも、二体の彷屍が続いて姿を現した。魏無羨は慌てる様子もなく次の彷屍に銃口を向ける。
「お兄さん! 次、右手前から飛び出してくるからお願い!」
「うん、わかった」
呼びかけに応えた藍忘機は、自身の持つ銃を右手前に向け、彷屍が下部から頭を出した瞬間にその頭を撃ち抜くと、そのまま魏無羨に加勢して、襲い来る彷屍にとどめを刺した。
「お兄さんさすが! かっこいい!」
ここでゲーム画面が切り替わる関係で、少しのインターバルがあることを知っている魏無羨は、ここぞとばかりにはしゃいで、藍忘機を持ち上げつつ―――――その内心では、おかしな事になったな、と愉快に思う気持ちと、困惑する気持ちとがせめぎ合っていた。
この日、魏無羨が藍忘機を見つけたのは偶然のことだった。
聶懐桑との悪ノリで、ちょっとしたコスプレをした魏無羨は、せっかくだからとその姿のまま街に繰り出し、適当に入ったカフェの中で、凛と背筋を伸ばしてスツールに腰かける、藍忘機の姿を見つけたのだった。
魏無羨と藍忘機は、同じ大学の学部生同士だったが、ほとんど接点はない…………というよりも、魏無羨が一方的にちょっかいを出して、いつもすげなくあしらわれるという関係性だ。
(ふむ……)
自分の姿を見下ろして、声をかけようか一瞬悩んだ魏無羨は、思い切って話しかけてみて、彼の反応を見てみることにした。
「おにーさん、お隣、座ってもいい?」
いつもより少し上ずった声色で、藍忘機に声をかける。
振り返った藍忘機が、軽く目を見張ったのを見て、魏無羨はヒヤリとした。
(うーん、ばれたかな……? いやいや、そんなはずはない。今の俺は、どこからどう見ても美女だからな!)
この時の魏無羨は、腰まで届く長い髪を赤いリボンで結い上げてハーフアップのポニーテールにした、少しボーイッシュなお姉さんといった格好をしていた。服装は、シンプルなチャイナ服風のデザインの、赤地に黒い刺繍の入ったパーカーに、黒のプリーツスカート、それにハイカットスニーカーを合わせている。
女性としては背が高いが、ゆったりとした服装で男性らしい骨格は隠れているし、薄めに見えるメイクも、女性らしい柔らかな印象が与えられるよう、実はばっちりと厚塗りで整えられていた。
よく一緒に遊んでいる、江澄や聶懐桑あたりなら、話しかけられた時点で自分が魏無羨であるということに気づくだろう。だが、どんなに話しかけたり遊びに誘ったりしても、短い一言で断られるばかりで、ほとんど接点のない藍忘機が、自分に気づくとは思えなかった。
少し驚いていたように見えていた藍忘機だったが、その後何も言わないところを見ると、もしかしたら急に美女に話しかけられて、緊張したのかもしれない。
そう思うと、魏無羨は愉快な気持ちになって、藍忘機の返事を待たずに、隣のスツールに腰かけ、アイスティーを口にした後、続けて話しかけた。
「お兄さん、美人だね。よく言われない?」
「…………」
藍忘機は応えないが、いつものことなので魏無羨は気にしなかった。
「ねえねえ、もしこの後の予定がないんだったら、一緒に遊ぼうよ! さっき友達に振られちゃって、暇になっちゃったの」
どうせ断られるだろう、そうしたらそのタイミングで自分が魏無羨だとネタばらしをしよう、そんなつもりで誘ってみる。
興が乗ってきた魏無羨は、ぐぐっと藍忘機との距離を詰め、彼の色素の薄い玻璃の瞳を見つめた。
「ね、お願い」
そうして、彼のコットンシャツの袖を掴み、上目遣いを意識して訴えかけてみる。
藍忘機は一瞬固まって、それからゆっくりと瞬きをした。
「…………わかった、行こう」
「えっ、嘘! ホントに? やったー!」
とうとう頷いた藍忘機に魏無羨は両手を挙げて喝采した。
あの藍忘機が! 俺の誘いにのってくれた!
その快挙に、心の底から喜びが湧き上がってくるが、同時に胸を引っかかれるような嫌な感覚もあるのに、魏無羨は気付かないふりをした。
そして、藍忘機の気が変わらないうちに、と急いでアイスティーを飲み干すと、彼の袖を掴んで外へと連れ出したのだった。
(どうしよう、思った以上に満喫してしまった…………)
膝に抱えたうさぎのぬいぐるみの耳を、もぎゅもぎゅと握りしめながら、魏無羨は一人自省していた。
目の前には、片手にウーロンハイのグラスを持ったまま、テーブルに突っ伏した藍忘機の姿がある。
本当はこんな時間まで自分が魏無羨であるということを隠して付き合うつもりはなかった。途中で正体を明かすつもりだったのに、あまりに一緒に過ごす時間が楽しいものだから、打ち明けるタイミングを見失ったまま、今に至っている。
カフェでのナンパに成功した後、魏無羨はまず、
藍忘機が最も似合わなさそうなゲーセンに連れて行った。そして最初に、彷屍(ゾンビ)を倒すガンシューティングゲームの、二人プレイに挑んだ。藍忘機が、慣れないゲームに苦戦する様子を見て、からかってやろうと思ったのだ。
ところが藍忘機は、勉強一辺倒な見た目に反して運動神経も良く、すぐにコツを掴むと魏無羨と息の合った連携ができるようになり…………魏無羨は、自身の最高スコアを更新することに成功してしまった。
次に、せっかくだからとプリクラの筐体に藍忘機を押し込んで、二人で写真も撮ってみた。
魏無羨が写真を盛りに盛った後、何か書いてみてよ! とペンを押し付けると、藍忘機はそっと、日付のスタンプだけ押したのだが、その姿が妙に可愛くて、魏無羨は腹の底から笑った。
その後、藍忘機はクレーンゲームに興味を持ち、自分からプレイすると言って、早々にうさぎのぬいぐるみをゲットしてみせた。ゲームがしてみたかっただけなのか、捕獲したうさぎは、魏無羨に押し付けられた。見かけたときに、ちょっと可愛いなと思っていたから、ぬいぐるみはありがたくいただいて、今膝の上に鎮座している。
そのまま解散するのも名残惜しく、ダメ元で飲みに誘ったところ、意外なことに彼があっさりと頷いたため、今二人は居酒屋で卓を共にしているのだ。
(俺が何度誘っても振りつづけたクセに、一度会っただけの名前も知らない女相手なら乗り気になるなんてな……)
どちらも自分であることは変わりないのだが、どうにも悔しくて、魏無羨は一人で焼酎を煽った。
(とはいえ、こいつがこんなに酒に弱かったとは)
酒を飲んだことがないという藍忘機に、物は試しとウーロンハイを勧めてみたところ、彼は一口飲んですぐに突っ伏して眠ってしまい、今魏無羨の目の前で無防備な姿を見せている。
「ほんと、綺麗な男だよな」
藍忘機の方に手を伸ばした魏無羨は藍忘機の前髪を掬って、その整った顔面をまじまじと見つめた。
いつも友人たちと騒いでいるような大衆居酒屋ではなくて、落ち着いた雰囲気の、半個室の飲み屋にしてよかった、と魏無羨は安堵する。こんなに美しい男の無防備な姿など、目の毒だ。おちおち人目に晒せない。
「仕方ない、そろそろ起こしてやるか……」
いつまでも眺めていたい気持ちもあったが、藍忘機の終電の時間もわからないし、場合によっては介抱も必要になるだろうからと、魏無羨は重い腰を上げて、藍忘機の向かいから隣へと移動した。
「おにーさん、そろそろ起きてよ」
声をかけながら、ぽんぽんと肩を叩く。様子をうかがうために顔をのぞき込むと、急に藍忘機の瞼が開いて目が合った。透き通った双眸に吸い込まれそうになる。
「わっ!」
魏無羨が驚いて少しのけぞると、身を起こした藍忘機は、魏無羨の手首を掴んで自らの方へ再び引き寄せた。
「だ、大丈夫? お兄さん……まだ酔ってる、よね?」
「酔ってない」
「嘘だよ、絶対酔ってるって」
顔にかかる呼気には、アルコールの香りは感じられないが(そもそも彼が飲んだのはウーロンハイ一口程度だ)、正気であれば、彼はこんな迫るような接触をするタイプではないだろう。
「酔ってなんかいない」
「はいはい、わかったから。酔っていなかったとしても、とりあえず水飲んで」
魏無羨が掴まれていない方の手で取ったお冷のグラスを差し出すと、受け取った藍忘機は素直に飲み干した。
「そういえば、お兄さんは結局、私の名前を訊かなかったね」
訊かれた場合に備えて可愛らしい名前を考えていたのに、それを披露する機会がなかったな、と魏無羨は少し残念に思った。
「必要ないだろう」
藍忘機の答えはそっけない。
「まったくもう、冷たいんだから。こんなことなら、寝ている間にチューの一つでもしてやるんだった」
「どうぞ」
コン、と空になったコップがテーブルに置かれた。
「は?」
「寝ている間と言わず、今からでもどうぞ」
「いっ、んんんっ、いやいやいや!」
思わず地の声が出かけて、魏無羨は慌てて咳払いをしてごまかした。
「お兄さん、もうちょっと自分の唇を大切にしなきゃダメだって。いくら私が美人で可愛いからって、行きずりの相手に捧げるようなものじゃないでしょ!」
「君ならいい」
「……っ」
真剣な瞳で告げられて、魏無羨は息を呑んで固まった。
こういう時、顔がいいというのはズルい。
魏無羨がうっかり見惚れているうちに、藍忘機の顔が近づいてきて二人の鼻と鼻の頭がツンと触れた。
藍忘機の熱を帯びた瞳が、あまりにも近くにあることに耐えられなくなった魏無羨が、瞳をぎゅっと閉じると、藍忘機はためらう様子もなく唇を重ねる。
唇をふさがれている間、どうしていいかわからずに、息を止めていた魏無羨は、唇が離されると、やっと安心して小さく息を吐いた。
ところが、その隙間をついてもう一度唇が重ねられると、今度はぬるりとした柔らかいものが口内へと侵入してきた。抗議をしようにも、呼吸さえも奪われているこの状況では、一言も発することができない。酸素を求めて鼻から空気を吸い込むと、自分とは違う男の匂いが鼻腔内に広がって、魏無羨は陶然とした心地になった。
そうして真っ白になった思考の片隅で、燻っていた気持ちが急に膨らんでくるのを、魏無羨は感じる。
(信じられない………! 女なんてこれっぽっちも興味がありません、みたいな澄ました顔をしている癖に、どうしてこんな、こんなに……!)
悔しさに、涙が目じりに滲んできた頃、ようやく藍忘機が体を離して魏無羨は解放された。
「お前、酒癖が悪すぎる!」
女声で話すのも忘れて抗議すると、魏無羨はまだ残る余韻を拭い去るために、手の甲で唇を擦った。白い肌に、赤いリップと二人の唾液が滲んで、そこから熱が広がっていくような感じがした。
「――――私、もう帰るから」
別れるまでには、自分が魏無羨だということを、ネタばらしをするつもりだったが、こうなってはもはや正体を明かすのも気まずい。
魏無羨は藍忘機を押しのけたが、掴まれたままの腕はびくともせず、離れることができなかった。
「離して」
「だめだ」
「どうして」
「君が、誤解をしていると思うから」
その言葉を聞いて、魏無羨はカッとなった。
「何が誤解だっていうんだよ? 初めて出会った名前も知らない女の子と、一緒にゲーセンに行って遊んで、酔った勢いでキスまでして……。そんな尻の軽い男だと思わなかった!」
「魏無羨」
「はっ?」
「魏嬰、君だと最初からわかっていた」
「う、嘘だ……」
先ほどまで、怒りで赤くなっていたのが嘘のように、魏無羨から血の気が引いた。冷静になってみると、先ほどの言葉が嫉妬に狂う女の子のようにも思えてきて、なんであんなことを口走ってしまったんだ、という後悔まで押し寄せてくる。
「だって、いつも俺が誘っても断るのに、なんで今日に限って」
「…………君が、その格好で他の男も誘うかもしれないと思ったら、耐えられなかった」
「なんだよ、美女だと思っていたのは俺だけで、そんな滑稽な恰好だったのかよ。それならそうと、早く言ってくれればよかっただろ」
明後日の方向に捉える魏無羨に、藍忘機はため息をついた。
「ひとまず、会計を済ませよう」
「そう……そうだな、今日のことはお互いなかったことにしよう! だからほら、いい加減手を放せってば」
寂寥感を押し込んで笑顔で提案した魏無羨だったが、藍忘機は掴んだ手を離すつもりなどなかった。
「私たちは、お互いの誤解をじっくりと解くべきだ。今日は私の家に泊まりなさい」
「なんで命令口調なんだよ! あの、藍湛……藍忘機さん。俺、なんか嫌な予感がしてきたから、このまま帰りたいんだけど」
「一緒に帰ろう」
「やだ! 離してー!」
何かを察して及び腰になっている魏無羨ではあったが、抵抗らしい抵抗もせずに手を引かれているのは、期待する気持ちがあるからだ。
二人の話し合いは明け方まで続き――――――翌日の大学の講義室では、いつも通り澄ました表情で最前の席に着く藍忘機と、その隣で堂々と居眠りをする、魏無羨の姿があったのだった。