自室で試作をしていた時の事だ。
肉の切り身を塩と胡椒でシンプルに焼いただけ、それなのに十分旨いとネロはひとり口角を上げた。
目玉商品というわけではなく、普通に陳列されていたがよく見ると上質な肉という、市場での掘り出し物が大当たりだったと気分がよくなる。
更に手を加えたいなとスパイスを並べネロは悩む。
ひとつずつ試してみたいぐらいにいい肉だったが、量はそれほど多くはない。絞り込まなければと塩と胡椒のみの状態で何度か味見を繰り返しながら吟味する。
方向性は決まった、けれどあと一押しが足りない。
ひとりうんうん悩むネロの鼻に、ふと届いた香りがあった。上品な華やかさに滲む魔力の正体を察すると同時に閃いた。
するりと頬を撫でる煙をそのままに、ネロは猛然と手を動かす。
煙からインスピレーションを得たスパイスを組み合わせて焼き加減はミディアム、最後に隠し味程度の少量のブランデーでフランベし、切り分け口に入れた瞬間に分かる大正解にネロは思わず拳を握った。
こういうカチッと嵌まる瞬間がたまんねぇんだよなぁともう一口つまんで、味わいながら今回の分量を走り書きする。アルコールを飛ばせばシノにも食わせられるよなと、食べ盛りなうちの子に今度作ってやるつもりだ。
今は大人向けと、肉汁も味わってもらいたいから切り分けず塊のまま蓋付きの容器にいれ、保温の魔法をかけて手持ちの籠に入れる。岩塩と胡椒もついでに籠に入れて、ネロは自室を後にした。
シャイロックの煙に、ずっと頬やら腕やらを撫でられていたのだ。
酒とつまみのマリアージュについて具体的な話ができる料理人の特権というかなんというか。時折こうしてバーの店主が御礼がてらお誘いをしてくれることがあり、顔を出せば御褒美が待っていると知っている。
今はいいやと乗らなくてもあっさり引いてくれるが、今回はやけに熱心であった。つまり余程いい酒が手に入ったのかと期待もしてしまう。
最後の一押しをシャイロックの煙が教えてくれたのだ、礼を込めてこの大正解を一緒に味わって欲しいとも思っていた。それなのに。
「ど···どういう状況···?」
扉をあけた瞬間に目と耳に飛び込んできた状況に、棒立ちになった。
目があったカウンターの中の店主がにこりと笑い、その煙に優しく背中を押されて一歩店内に踏み入れる。背後で閉まった扉の音に、逃げられやしないとネロは悟った。
動き始めたその魔力に、シャイロックは口角を上げた。カウンター席から賑やかなソファの方を向いているその広い背中に話しかける。
「レノックス」
「なんだ?」
律儀に体ごとシャイロックの方に向き直ったレノックスは、しかし勢いが良すぎたと斜めになった回転椅子の位置を直す。彼程の武芸者の覚束ない様子にふふと笑い、シャイロックは内緒話のように囁いた。
「お目当ての魔法使いがかかりました」
「?釣りの話か?」
「ふふ、間違ってはいないですね。···ネロがこちらに向かっているようです」
「!」
メガネ越しの赤い瞳が輝いた。ソファを見て入口を見て、忙しないその仕草はいちいち大きいものだから、その体躯と相俟って結構な迫力がある。
しかしながらシャイロックからしたらかわいい坊やとしか思えない。こちらに向かっているその魔法使いが現れたらどんな反応を示すのかと楽しみにしていると、そう時を経ずにバーの扉が音をたてた。
開いた瞬間に聞こえたであろうその喧騒に、え?と戸惑うネロは、シャイロックを探してカウンターに顔を向けた。
そして見付けたレノックスにぎょっとしているネロをにこやかに指先で誘えば、賑やかなソファ席を気にしつつ恐る恐るという様子でこちらに近付いてきた。
「ど、どういう状況···?」
「お酒を楽しんでいるだけですよ。ねぇ、レノックス?」
「あぁ。ネロも、グラスを持ってほしい」
「···めちゃくちゃ酔ってない?」
「とても、楽しい」
レノックスの顔を見てネロはまたぎょっとした。シャイロックの位置からは見えないが、レノックスらしからぬ満面の笑みを浮かべていることだろう。
先程から惜しみ無く披露してくれているのだ、かわいいですよね?と同意を求めたいところだが、ネロとしてはあの不器用な愛想笑いの方が慣れているらしい。
及び腰で前のめりのレノックスをまあまあと宥めながら、無言でシャイロックを見てきた。なのでシャイロックも、無言で一本のボトルをことりと台に置いた。
持参した籠をカウンターに置いたネロは、代わりにボトルを手に取ってそのラベルをしげしげと眺めている。そしていきなりカッと目を見開いた。
「300禁ボトルじゃねぇか!」
「さんびゃ···なんだって?」
「おや、そのような通り名があるんですか」
なるほどと頷くシャイロックと首を傾げるレノックスに、やっちまったという顔をしたネロが気まずそうに頭をかいた。
「通り名っつーか、仲間内での呼び方っつーか···」
「納得は出来ますよ。確かに300歳未満の方が飲むと、大変な酔いになりますし」
「その分べらぼうに旨いんだけどな」
「400歳でも、おいしいぞ」
「はは、そりゃよかった」
常に泰然とした南の彼のいつにない様子の理由がわかったからだろう、レノックスを見るネロの眼差しが年下に向けるそれになった。
しかし状況の疑問は残るらしく、卓に戻したボトルを曲げた指でこんこんと軽く叩いた。
「さすがシャイロックだな。こんな珍しいもんよく仕入れられたね」
「いえ、私ではありません」
「くしゃみで飛んだ先で、手に入れたらしい」
「···原因はあいつかよ···」
盛大に舌打ちしたネロが、鋭い目を白と黒の後頭部に向ける。
その視線に気付いたのか、肩越しにちらりとこちらを見たブラッドリーがにやりと笑い、ソファの真ん中に座っている賢者の肩にゆったりと腕をかけた。胡椒防止のための人質ということだろう、ネロがもう一度舌打ちした。
いきなり肩に手を回され、いつもであれば多少なりとも慌てたり照れを見せるであろう賢者は、しかし今はソファにいるもうひとりとのお喋りに夢中である。新しい客が来たことにも気付いていないその横顔に、ネロはちょっと難しい顔になった。
「この酒、賢者さんにも飲ませたの?」
「アルコールは勿論抜きましたが、如何せんお若い方なので」
「作用自体は出ちまったか···止めた方がよかったんじゃね?」
「若ければ若いほど美味と感じる類いのものですから。晶様も話を聞いて興味をもったようですし」
量は慎重に調整していますとにこやかに言えば、バーテンとしては信頼してるけど···とネロは複雑そうだ。西の国の魔法使いとして信用できない、光栄な反応である。
厄介な厄災の傷で飛ばされていたブラッドリーが、しかし今回は上機嫌で帰って来た。
稀少な酒を手に入れたと、魔法舎に戻ったその足でシャイロックのバーにやってきてくれたのだ。
その時店内にいたのは賢者とレノックス、そしてファウストであった。
穏やかな時間だったのにと露骨に顔をしかめたファウストは、しかし酒の正体を知り誰よりも興味を持った。
年齢で味と酔いが変わる魔法の酒。境は500歳、その年齢に達していない者が飲むと、極上の美酒。酒好きの血が疼いてしまったのだろう。
その晩酌仲間である料理人もまた酒好きである。
まずは味を楽しんでと、氷を魔法で丸くしロックグラスで差し出せば、礼とともに受け取り立ったまま口を付けた。
舌で転がし、ちょっと残念という顔をするネロに分かりますよと頷いた。
「味が違いますよね」
「だなぁ···うまいことにはうまいけど、若い頃に飲んだあの衝撃と比べちまったらな」
「えぇ、心からの賛美を贈りたくなる極上の美味でした」
「へぇ、あんたも若い頃に飲んだことあるんだ?そんな前からあんだな、この酒。······ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ。おっしゃりたいことは分かりますからね」
今酒を差し出しくれた魔法使いは相当な年月を生きている、言外に示してしまったとネロは手本のように謝ってきた。
長く生きていることは事実なので、揶揄でなければ構わない。ふふと笑ったシャイロックは思い出話のひとつとして昔を思い出す。
「この酒が世に出回ったのは、私がレノックスぐらいの頃でした。しかし作っている魔法使いは一切不明。謎の多い魔法酒なんですよ」
「そんな前からあるとは知らなかったなぁ。極稀に手に入ると、団···仲間内で取り合いになるぐらいだったけど」
「その方々は皆年若かったのですか?」
「えーと、そっすね···」
「ネロは、」
先に失言したのはそちらだとちょっとだけつつこうと思ったが、深みがありつつも若い声が遮った。
ネロへの助けではない、これは酔いから来る空気の無視である。
誰よりも場の機微を見ているレノックスの滅多にない振る舞いは、やはり優先したくなるものだ。似たり寄ったりであろう苦笑気味のネロに、レノックスは気にせず話しかけている。
「ネロは、いくつぐらいの頃にこの味を知ったんだ?」
「年齢ってこと?確か、200になるかならないかぐらいかな」
「うらやましい··················」
「め、めちゃくちゃ情感こもってんな、羊飼いくん?」
「ファウスト様も、きっと羨ましがる」
名前が出た魔法使いがいるソファの方を皆で目を向ければ、賢者に負けず劣らずご機嫌なファウストがそこにいる。
晩酌仲間が深酒した姿を見たことがあるのだろう、賢者とは違い心慮は見せずに、ネロはただ苦笑した。
「出来上がってんなぁ、先生」
「えぇ。とても楽しそうなので、話に加わるよりも静観していようとレノックスを誘いまして」
「ファウスト様も賢者様も、楽しんでいてなによりだ」
「先生がいるんだから、羊飼いくんは会話に入れてやんなよ···」
「輪の外にいた方が、面白い話が聞けそうだとレノックスも同意したので」
「面白い話?」
「主に、アダルトな話だ」
「·········は?!」
どことなくぼやぼやしながらも、いつも通りの訥々とした声音で言ったレノックスに、一拍遅れてネロが固まった。
ソファの連中がしゃいでいるなという認識はしていても、会話には注意を払っていなかったのだろう。慌てて聞き耳を立てた今の話題は、中々に危うい内容であった。
「まったく経験がねぇってわけじゃなかったんだな」
「まぁ、必要に応じて」
「必要、ですか?」
「集団の頭が堅物過ぎると、下の連中の息がつまる。そういうこったろ?」
「もうひとり···がうまくやっていたから、僕は堅物のままでいてもよかったと、いまだに思うけれど」
「義務感ってか?つまんねぇだろ、そんなんでヤっても」
「つまらないとか楽しむとか、そんな気持ちはなかったな」
「···え、あれ···?」
「なんだよ、賢者」
「わ、私も遊んだ?方が?いいんですかね?!」
「おい待てなんでそんな思考になるんだ賢者」
「だ、だって私も、みなさんの賢者をさせてもらっているので···?」
「はは!いいじゃねぇか。だったら俺にしとけよ、いい思いさせてやるぜ?」
「ぅひぇっ?!」
「晶、だめだ、許さないぞ」
「許さねぇとかてめぇが言えた義理かよ?つーかどこ目線だよ、呪い屋」
「···保護者?」
「ファウストが私の保護者?うれしい!」
わーい!とご満悦な賢者というかわいい着地をしたが、どこからどう聞いても猥談である。ネロはカウンターに片手をつき崩れるように項垂れていた。
酒の席にありがちな話題だとむしろ理解がある方だと思うが、ネロとしてはその面子が耐えられないらしい。
時に子供扱いをしてしまう年若い賢者に、恐らく過去を熟知し合っているであろう相手。そして現先生かつ現友人かつ現恋人。ここに呼び出された意図を悟ったネロは、頭を上げられないまま目だけでシャイロックを睨んできた。
「趣味わりぃよ、シャイロック···」
「おや、親切心もありますよ?あなたの話題が出てくるのも時間の問題でしょうし」
「あーもー···羊飼いくん、あんたの主君が大変なことになっちまってるけど止めねぇの?」
「ファウスト様が、楽しんでおられるのならば、それでいい」
「···猥談もありだとは思わなかったわ···」
「レノックスは、従者でありながらも時々兄のような顔をすることがありますね。とても魅了的ですよ」
「そんな、兄だなんて烏滸がましいが···微笑ましくあるのは確かかな···」
彼らしく控えめではあれど、レノックスはどこか嬉しそうにぽやぽやとしている。なんだこれかわいいなと思わずネロが呟くぐらいで、だから次の行動を予想出来なかったらしい。
ぐっとグラスの中身を飲み干したレノックスが、唐突に腹から声を出した。
「ファウスト様」
「?!」
ファウストと賢者がビクッと跳ねた。おかしそうに肩を揺すったブラッドリー含め、ソファの背凭れ越しに一様にカウンターの方へ顔を向けてくる。
中途半端な体勢で固まっているネロを大きな手で示したレノックスか、端的に告げた。
「ネロです」
一拍後、酔っ払いにありがちなリアクションの大きさでわっと沸いた賢者とファウストを、ネロは曖昧に笑ってなんとか宥めようとしている。
しかしソファに近づこうとしないのだ、当然効果などなく、八つ当たりのように睨み付けたもうひとりがにやりと笑った。
「来てたのかよ、東の飯屋」
「くっそ白々しい···」
「ねろ、ネロ!このお酒美味しいですよ!」
「あぁうん。俺も飲んでるよ、賢者さん」
「へへ、かんぱーい!」
満面の笑みでソファに膝だちになった賢者は、背凭れからグラスを持った腕を伸ばしてくる。今にも床に落ちそうなぐらいだったが、ブラッドリーが片腕でそれを阻止していた。
はいはい乾杯とネロがグラスを持った手を掲げ、賢者の代わりにレノックスの空のグラスに軽く重ねれば、大小の酔っぱらいふたりがご機嫌に笑った。
同じぐらい酔っているもうひとり、ファウストはその乾杯に乗ることはなく、いつの間にか真顔になり何やらじっとネロを見ている。
眼鏡はいつからか頭にかけられているものだから、いつもは密やかに隠されている紫色の瞳は剥き出しだ。
おやおや、熱烈ですねとからかってやりたいところだが、それにしては随分と真剣だ。その視線を一心に浴びてたじろぐネロは、恐る恐るファウストに話しかけた。
「あの···先生?どうかした?」
「······何もかもが、きみが初めてというわけではなかったけれど」
「え、あ、うん?それは知ってっけど···いや、あの、ちょっと黙んねぇ?」
「恋は、初めてだ」
「は···?」
「今気付いた」
新しい発見に輝く瞳は無邪気なもので、けれどしだいに甘さを帯びる。綻んだ笑みはとろけるようで、まさしく恋をしている者のそれだった。
「きみが僕の、初恋みたい」
時が止まった部屋の中、甘くささやかなその声はただひとりに向けられたもの。突然の告白は、無防備だった魔法使いの心にそのまま届いたようだ。
大きく見開いた青と茶の瞳、微かに震えた唇と小さく動いた喉仏。そして明度の低いバーの照明でもわかるほど、鮮やかに染まっていく頬。
それもまた、恋をしている者のそれだった。
その変化をつぶさに眺めて満足したようだ。にやりと口角を上げたブラッドリーが、おもむろにグラスを持った手を掲げ長い指を振った。
酔っている相手に呪文もいらなかったのだろう、ふわりというには多少乱雑に浮いたファウストが、ネロの元へと飛んできた。
突然の浮遊に困惑することもなく、当たり前のようにファウストは腕を伸ばす。焦ることもできない程の衝撃の中にいるネロは、しかしまごつくことなくその体を受け止めた。
互いの身に馴染んでいる事が伝わってくる、そんなふたりの手から魔法でグラスを回収したシャイロックは、すっとパイプを構えた。
そしてふうと煙を吐き出して、ふわりとふたりの周りに漂わせる。愉しげに水色の髪を撫で回しているファウストに笑いかけ、顔を真っ赤にしながらもしっかりとその体に腕を回しているネロに、シャイロックはにこやかに告げた。
「私の煙をお使いになって、ネロ」
「っありがとう!」
ご機嫌な恋人をぐっと抱え、上擦った声で呪文を唱えぱっと消えた。
ネロを誘いに行ったシャイロックの煙、それを辿れば容易に自室へ帰りつけるだろう。
ふたりが消えて数秒、沈黙の室内にからんと氷が溶ける音がやけに大きく響いた。その瞬間、怒涛に音が溢れ出す。
ブラッドリーの高笑いと賢者の甲高い悲鳴、そしてレノックスが太腿を叩く重低音。シャイロックのバーらしからぬそれらの騒がしい音に、しかしうっとりと吐息をもらした。
なんと甘美な一幕であったことか。恍惚としたシャイロックを鼻で笑いながら、ブラッドリーはいつもと変わらぬ声音でからかってくる。
「誰を魅了するつもりだ?西の色男」
「今は私が魅了されているのですよ、北の色男さん」
「こんな騒音の中でか?」
「良いスパイスでしょう?」
「限度があるわ。うるせぇぞ、賢者も羊飼いも」
まだまだ賑やかな酔客達は、ブラッドリーの苦言に意を返さないというか耳に届いていないようだ。
たまたまそこにあったからという理由だろう、賢者はブラッドリーの腕にしがみついている。足もバタバタとさせているようで、きゃあきゃあと大興奮だ。
いつもの聡明な賢者とは違う、年頃の娘そのままの反応は心底可愛らしいもので、シャイロックは頬に手を当てまた吐息をもらしてしまう。
いい趣味してんなと鼻で笑いながらも、賢者を見下ろすブラッドリーの目は優しい。それはそれとしてうんざりもしてきたらしい。
「いい加減離しやがれ」
「む、む、むりですっっ」
「無理ってなんだ無理って」
しがみついた賢者ごと軽く腕を引けば、髪をなびかせながら賢者の頭がソファの背凭れから消えた。うおっというブラッドリーの声から察するに、どうやらその膝に倒れ込んだらしい。
背凭れに隠された部分を想像することを楽しんでいたが、ソファの向こうが見てみたいとうずうずしてきた。心の赴くまま、シャイロックはついついカウンターの外に足を踏み出してしまった。
愉快すぎる時間を過ごしながらも、今この瞬間までバーテンであった自分に満足しつつ、カウンター席でその逞しい太腿を叩き続けていたレノックスをそっと止めた。
「魅惑的なリズムですが、このままではさすがの貴方でも自らを傷付けかねません」
「この衝動、抑えられない」
「禁欲的な方が見せるその理性を溶かしかけた姿、たまらないですね」
うっとりしながらも手を伸ばし、しっかりとした顎にそっと指を添え、上を向かせた。
眼鏡越しの赤い瞳は案外とギラつきはなく、寧ろ賢者の雰囲気と近いものがあった。かわいらしくて仕方ないと口元が歪み、顎に添えていない方の手で固い黒髪を撫でた。
ぱちと瞬きしたレノックスは、思わずと言うように太腿を叩く手を止める。いい子ともう一度頭を撫でて、カウンターから水の入ったグラスを呼び寄せレノックスの手に握らせた。
律儀に礼を口にしたレノックスの手の甲を指の背で撫で、聞き分けのいい子ににこりと笑みを向けてから、シャイロックはソファへと歩み寄った。
背凭れ越しにそっと覗き込めば、ブラッドリーの膝に懐きながら緩んだ顔で目を閉じた賢者がそこにいた。
「おやおや」
「俺様の膝で寝こけるとはどういう了見だこいつ」
威嚇もうんざりした声も本当で、けれど無理矢理退かそうとはしないのだから気分を害したわけではないのだろう。
賢者から取り上げたらしいグラスの残りを煽り、ブラッドリーは呆れた顔をした。
「酒じゃねぇ」
「アルコールはしっかりと抜きましたからね」
「それでよくこんだけ酔えるもんだよ」
「この酒の作用が余程強いのでしょう。作っている魔法使いは、相応に魔力が強いのかもしれませんね。北の魔法使いでしょうか?」
「魔力が強いっつーか、術が上手い感じがする。案外と東の奴かもしんねぇな」
東の魔法使い、と言われて今この瞬間に思い浮かぶのは、素晴らしい一幕を見せてくれたあのふたりである。
思わずブラッドリーと共に笑ってしまえば、カウンターチェアが軋む音がした。振り返れば、グラスを両手にひとつずつ持ったレノックスが立ち上がっていた。
「おや、レノックス。こちらにいらっしゃいますか?」
「······」
「おい、羊飼い?」
「······フィガロ様と、お話ししたくなった」
「「···は?」」
声を揃えたシャイロックとブラッドリーに目を合わせることはなく、レノックスはグラスを持ったまま扉から出ていった。
体幹の強さ故かふらつきは全くなかったが、唐突な行動は酔っ払いのそれである。残された年長者達は唖然と呟いた。
「フィガロと話したい···つったか?」
「聞き間違い、ではないですよね···?」
ブラッドリーと顔を見合わせて、同じタイミングで吹き出した。今度こそシャイロックも声を出して笑ってしまったし、ブラッドリーも豪快に爆笑している。
そんな中でもすやすやと眠り続けている賢者の頭を雑に撫でながら、ブラッドリーはくくくと笑いを納めることはない。
「フィガロの野郎となんの話をしたいっつーんだよ、あのむっつりは」
「会話の内容もさることながら、酔いどれのレノックスに押し掛けられるフィガロ様のお顔は見物かもしれませんね」
「ちげぇねぇ。追わねぇのかよ?」
「私も命が惜しいもので」
「西の魔法使いの台詞とは思えねぇな」
鼻で笑ったブラッドリーには挑発の気配があり、それに乗ったとしても愉しいお喋りが出来たことだろう。頭の回転が早い相手とのやりとりは小気味がいい。
けれど今のシャイロックは、どうにも年下を愛でたい欲求が強い。ソファの背凭れに頭を預けるようにシャイロックを見上げるブラッドリーの顔を覗き込んで、にこりと微笑みかけた。
「今は、北の色男さんとお話ししたい気分なので」
「そうかよ」
「それに、籠の中身も気になります」
「籠?」
「ネロの置き土産が、ほら」
カウンターテーブルに乗っている籠が目視できたのだろう、誰よりもネロの腕を知っているワイン色の瞳が輝いた。
可愛い魔法使いがやはりもうひとりいたと、内心うっとりとした吐息ももらす。それを表に出したとしてもブラッドリーは鷹揚に受け止めるだろうが、愛でたいと同時に対等な会話をしたいのだ。だから素知らぬ顔で籠を取りに行こうとしたが、ブラッドリーがそれを止めた。
首を傾げるシャイロックに答えず、ブラッドリーは膝になつく賢者を見て顔をしかめた。
「つーか羊飼い、帰っちまったじゃねぇか。賢者を連れていかせるつもりだったのに」
「ふふ、しばらくお目覚めにならなそうですね」
「朝まで膝を貸すつもりはねぇかんな」
言葉どおりふわりと賢者の体が浮いて、ブラッドリーの立ち上がったソファへと着地した。
終始呆れ顔ではあるが、頭の下にクッションを置いたり自分の上着をかけたりと、扱いは丁寧だ。シャイロックも手助けとして眠りに相応しい香りを漂わせれば、もぞもぞと丸くなり賢者はふにゃと顔を緩めた。
ふっと微笑ましさを込めた息を吐いた大人ふたりは、カウンターへと足を向けた。
籠の中身はなんだろうか。きっとペアリングの話をしようと持ってきてくれたのだ、シャイロックとしてもネロとの談義は心踊るものだから、今夜はそれが出来なくて残念である。
けれど置き土産をしてくれたおかげで、今宵のお相手の様々な表情を見ることが出来そうだ。恋の話が好物の西の魔法使いとして、当人達だけでなく周りの反応もまた良いスパイスなのだ。