監視対象・江の者② 少しだけ丈を持て余している内番服を着て、俺は厩舎の前に立っていた。本来ならあまり気が進まない作業だが、今日はいつもと事情が違う。
この俺、本歌山姥切長義は「江の者たちの監視及び観察」という任務を政府から命じられている。中でも、本体が所在不明である豊前江は、重要監視対象として指定されている。
今日の馬当番で、俺はその豊前江と初めて対峙する。豊前江の情報だけなら松井が頼んでないのに山程教えてくれるのだが、やはり本人を直で観察しないと見えてこないこともあるだろう。
身体の奥から込み上げる緊張感。微かに胸が張り詰めるのを感じる。俺は意を決して、厩舎の中へと足を進めた。
厩舎内には、人影がひとつ。それは黒いシャツを着て、上着は腰のあたりに結んでいる。そして、襟足が刈り上げられている。俺は豊前江を上から下まで確かめるように見てから、さりげなく声をかけた。
「遅れてすまない」
俺の声に反応して、豊前江がこちらを一瞥した。アーモンド型の吊り目。苛烈さすらある紅い瞳。鋭さを孕む視線を向けられて、一瞬だけたじろいでしまいそうになった。
(松井から聞いていた話とはだいぶ違うな……)
目の前の豊前江からは、事前に松井江から聞いていた気さくさも朗らかさも感じられない。他の刀派の男士と会話しているときも、このような様子は見受けられなかった。
(これはもしや、警戒されているのかな)
そうすると、接触するにしても、想定以上の慎重さが必要になってくるだろう。
「……じゃあ、俺は向こうの方やってくるよ」
返事はなかったが、俺は構わず清掃道具を持ってその場を立ち去った。
馬を外に連れ出して繋いでから、馬房内の掃除を始める。まずは馬の糞を取り除き、その後きれいな藁と濡れた藁と汚れた藁とを仕分ける。完全に汚れた藁は馬房の外へ出し、馬糞と堆肥場へ持っていく。更に、濡れた藁も外で干さなければいけない。やってみてよくわかったが、結構な肉体労働だ。そして床を竹箒で掃き終えてから、俺は内番着の袖で汗の滲む額を拭った。
馬房の掃除を終えたら、今度は飼葉桶と水桶を洗いに行く。そして洗った桶を馬房に設置して、新たな飼葉と水を補充する。
最後に天日干しした藁を馬房に戻し、馬が寝やすいように柔らかくする。そういえば、猫殺しくんが以前馬房の藁に飛び込んで長谷部に怒られていたっけか。そのときの猫殺しくんの沈んだ顔を思い出して、俺は小さく笑った。
「ほら、終わったよ」
最後に馬を馬房へと戻して、午前の仕事は終わりだ。最後に清掃用具を片付けに行こうとしたところで、豊前江にバッタリと出くわした。
「……こっちは終わったけど、何か手伝うかい?」
豊前江は相変わらず、鋭い目で俺を睨みつけてくる。
「何もないのなら、俺は先に上がるけど」
そう言って横を通り抜けようとしたところで、
「なあ」
豊前が俺に声をかけてきた。
「何かな」
「お前、最近松井と何喋ってんだ?」
単刀直入な問いかけ。威嚇するような目つき。警戒されていることを確信した俺は、その問いにどう答えようか思案を巡らせた。
「何って言われても、」
苛烈な紅の瞳を、俺は真っ直ぐに見据えた。
「松井が君のことをひたすらに話すのをずーっと聞いてるだけだよ。豊前江」
こういうときは、本当のことを告げるしかないものだ。納得こそさせられないだろうが、下手に嘘をついて完全に敵視されるよりはマシだ。さて、豊前江はどう出てくるだろうか。
「え……あっ……そっ、そっか~〜〜〜……」
……はい?
豊前は耳まで顔を赤くして、その顔を手で覆っていた。完全に想定外の反応をされて、俺は当惑してしまった。
「あ〜〜〜そっか、よかった〜〜〜〜……」
「……豊前?」
「あッ悪い、ちょっとその、俺の早とちりっていうか、」
先程の敵意剥き出しの様子が嘘のように、豊前はしどろもどろになっている。
「なあ! まつ、俺んこと何つってた!?」
近い近い近い近い。
唐突に距離を詰められて、俺はその勢いに圧倒されてしまう。キラキラと輝く紅の瞳。その煌めきに促され、俺は松井から聞いた話の記憶を掘り起こしはじめる。
「何って、君のことをひたすら褒めてたけど」
「具体的には!?」
「えっと……」
押しが強すぎないか、こいつ。
「……豊前は強くてすごい、とか」
「うん!」
「豊前は活字に弱いけどそこが可愛いとか」
「んー、かわいい、かぁ……俺はかっこいいって言われてーんだけどなぁ」
俺に言われても困るよ。
「あとは、豊前は優しいとか、そういう感じだよ」
「へえ〜〜〜そっか〜〜〜〜」
豊前が明らかにニヤニヤを噛み締めている。もしかすると、俺のことを警戒していたのは監視されていたのを察知していたとかではなくて、
「……豊前って、松井のことが好きだったり?」
俺は思わず、考えていることをぼそっと口に出してしまっていた。
「なっ…………まさかお前、えすぱあってやつか!?」
豊前は目を丸くして俺を見てくる。
「そういう反応をするってことは図星なんだな」
「あっ!? 罠かこれ!!」
盛大に自爆しておいて何を言ってるんだろう、この男は。
「……なあ! これ、内緒にしててもらってもいいか?」
「別に構わないけれど」
俺が言わなくても丸わかりだろうし。
にしても、俺はこれから職場内恋愛の展開をいちいち政府に報告しないといけないのだろうか。まあ、本丸や政府に反旗を翻されるよりは、職場内恋愛に熱中しててもらった方がマシかもしれない。そう思って、俺は少しだけ豊前の背中を押してみることにした。
「告白とかは、しないのか?」
「えっ、あ、それはっ、その……心の準備とかが……ちょっと、なぁ」
「俺は両想いだと思うけど」
豊前は乗り気ではないみたいだが、松井の様子を見る限り、まず拒否されるということはないだろう。
「じゃあ、これから飯食いながら作戦会議だな! 山姥切!」
太陽のように明るい笑顔を前に、一瞬だけ職場内恋愛に完全に巻き込まれたことを忘れてしまう。まあ、豊前江の懐に入り込めたということで、ここは良しとしておこう。