この世が春じゃなくても 獅子神が新宿三丁目駅の地上出口を出たとき、村雨はすでに待ち合わせ場所にいた。
旧甲州街道を挟んだ歩道沿いに白い商業ビルが傾いた日差しを受けて光っている。それを背にして黒っぽいシルエットの男が静かにたたずんでいた。
時間を確認するために時計に視線を落とす。待ち合わせまではまだ少し早い。
村雨は基本的に待ち合わせ時間に対して早すぎることも遅すぎることもない。ほぼオンタイムで行動する合理的な男だ。珍しいこともあるもんだと目を眇めたとき、冷たい風が吹きつけてきて、獅子神は思わず身を竦めた。
十二月に入った途端、季節は一気に冬まで進んだらしい。半月前までは薄い秋物のコートで充分だったのが嘘みたいに連日寒い日が続いている。それを反映するように、今日の村雨は厚手のロングコートをしっかり着込んでいた。
新宿は人種も年齢も性別もさまざまな人が忙しなく行き交っている。
けれども、ポケットに片手を突っ込み無表情で背筋を伸ばしている村雨は、雑多な新宿の景色からもくっきりと浮かび上がって見えた。
賭場や誰かの自宅以外で村雨を見るのはべつに初めてじゃない。けれども雑踏に一人で立ち尽くす彼を見るのは、獅子神にとって何となく新鮮に感じられた。
あるいはその感覚は、村雨からの誘いで待ち合わせをしている状況のせいだろうか?
この状況――平日の夕方に獅子神が村雨と待ち合わせをしているのは、昨夜彼から連絡があったからだった。
夕飯の後片付けを終えたころ、獅子神は村雨からメッセージが届いているのに気が付いた。
『明日の十六時頃の予定は空いているか?』
村雨らしい、飾り気のないシンプルな文章だった。
投資家の勤務時間――というわけではないが、十六時といえば後場も終わっている時間だ。もっとも、働く場所に縛られない投資家の獅子神にとって、そんな区切りはほとんど意味を持たないが。
今のところ特に用事もなかったため、「空いてるぜ」とだけ返信した。
するとほとんど間を置かずに時間と待ち合わせ場所を指定するメッセージが送られてきた。
何をするとも、どんな準備がいるとも書かれていない。かろうじて「必要最低限」と評価してやってもいい程度の簡潔すぎるテキストを獅子神は睨む。
「……まあいっか」
そうひとりごちて軽く肩を竦めた。
村雨は訪問や遊びの誘いの際にはきちんと前日までに連絡を入れてくる、銀行関係の友人の中ではほぼ唯一の存在だ。
たとえそれが指定時間まで二十四時間を切っていようとも、真経津たちと一緒のときには失われてしまう程度の儚さだったとしても、貴重な社会性の発露には違いない。
業務連絡かよと詰りたくなるほど事務的な文章をそっと指でなぞる。
偶然二人きりになったことや獅子神から遊びや食事に誘ったことは何度かあるが、村雨が自分にだけ声をかけてきたのは初めてだった。
いったいどんな用事だろう。ものすごく楽しみなような、大いに不安なような。
――とはいえ。
獅子神は口元を緩める。村雨のことだ、あの突拍子もない連中(主に叶)の立てるような珍妙な企画ではあるまい。せいぜい荷物持ちか何かだろう。
「なんか敬一君、礼二君にだけ甘くないか?」という叶の呆れた声が聞こえた気がしたが、獅子神はその幻聴を無視する。「了解!」とシャウトするレイメイ君スタンプを送信し、スマホをポケットに押し込んだ。
そんな昨夜のことを思い出しながら、獅子神は数メートル先にいる村雨を眺めた。
彼は何かを見つめているわけではなく、平坦でつかみどころのない眼差しをただまっすぐ前に向けている。
自然体の村雨は、ただの痩せぎすな中背の男に見える。身なりは整っていて、よく見ればかなり端正な顔立ちをしているが、特別に目を引く派手さはない。街を行く人々の大半も、彼の前を無関心に通り過ぎていく。
なのに時折、惹きつけられるみたいにふと彼に視線を向け、それからぎょっと身を引く者がいる。それも一人や二人の話ではない。
すれ違いざまに村雨を振り返る人々は、一様に顔を強張らせている。それこそ、死神でも見たかのように。
――桁外れに強いギャンブラーは、どいつもこいつも多かれ少なかれ引力に似た強烈な何かを持っている。
4リンクに上がってしばらく経った頃――正確には真経津を介して村雨と出会った頃から、獅子神はそんなことを考えるようになった。
人間は力を持つ同類を恐れ、忌避する。その一方で、圧倒的な天才の手で完膚なきまでにねじ伏せられたいと心の奥底では願う、そんな矛盾した生き物だ。
だから村雨に視線を奪われる者たちは、もしかしたらイカれたギャンブラーの素質があるのかもしれない。
村雨の顔を初めて間近で覗き込んだ日のことを思い出す。あの日感じた、冷たい手で心臓を撫でられたような怖気と、燐光に似た羨望を。
それは、人が両手で顔を覆いながら指の隙間からひそかに覗き見てしまうものに似ている。
背を向けて逃げ出したくなるほどの原始的な恐怖。目を逸らさずにはいられない、底なしの破滅の予感。骨まで焼き尽くされると知っていて近づかずにいられない業火みたいなもの。
獅子神にとって村雨は、出会ってからずっとそんな男だった。
――まあ、オレの場合はそれだけじゃねえんだが。
いつの間にか一人の男に対して抱くようになっていた湿度の高い感情を持て余しつつ、獅子神は内心ため息をついた。
「早えじゃねえか」
待ち合わせ場所にたどり着いた獅子神は、片手を軽く上げて声をかけた。村雨は顔だけをわずかに動かし、冷たい視線で彼を一瞥する。
「悪趣味だな、あなたは」
薄い唇からこぼれる冷ややかな言葉には、微かに呆れが混じっている。獅子神は意図を問うように眉を上げると、村雨は小さく鼻を鳴らした。
「もっと早く着いていただろう。なのにわざわざ立ち止まってこちらを見ていた」
村雨の視線が地下鉄の出口へ向けられる。獅子神は肩を竦め、苦笑を浮かべた。
「オレが見てんの気づいて放っておいたくせに、どっちが悪趣味なんだよ」
軽く言い返すが、村雨は何も答えずほんの少し目を細めるだけだった。
賭場にいるときほど気を張っていなくても、一級のギャンブラーなら、向けられる視線や視界の端で捉えた情報を容易に察知する。彼も当然、獅子神の不躾な視線にすぐ気づいていた。
村雨が視線を戻し、小さく首を傾げた。
「ご感想は?」
「人混みにオメーが普通に突っ立ってるの、なんか面白くてよかったぜ」
冗談めかして告げると、村雨の赤い瞳が眼鏡のレンズ越しに微かに光った。彼は小さく舌打ちし、「悪趣味な男だ」と再び呟いた。
「それで、これからどうするんだよ」
村雨は答える代わりに、商業施設の入り口へ向かって歩き出した。彼の背中をのんびりと追いながら、獅子神は「なあって」と呼び掛けたが、振り返る気配はない。そのまま二人して賑やかな店内に足を踏み入れる。
追いついて横に並ぶと、村雨がちらりと獅子神を見た。そして、コートの内ポケットから無造作に封筒を取り出し、そっけなく見せる。
「今から映画を観に行く」
なるほど、映画だったのか。
ゆっくりと上昇していく村雨の後頭部を眺めつつ、獅子神は昨日の謎のメールの答え合わせをする。
確かにこの施設の上階には複数階にまたがる巨大なシネコンが入っている。エスカレーターでロビー階を目指しながらも、まさか村雨と二人きりで映画を見ることになるとはという思いが胸の中を渦巻いていた。
「お前、今日仕事は?」
「代休だ」
「へえ、そっか」
ざわめく店内に負けじと、顔を少し近づけて会話する。ふと村雨の首筋からすっきりとした甘い香りが漂ってきた。
村雨は香水をほとんどつけない。それこそ、銀行の都合や真経津たちの気まぐれでフォーマルな場に引っ張り出されるときくらいだ。
思わずぐっと息を詰まらせた。
――つまりこれは……つまり、何なんだ?
ちなみに獅子神は今日、先日買ったばかりのセーターを着ている。ここぞという日のためにとっておいた、わりと気合が入った代物だ。香水も勝負所でしか使わない――なおかつ村雨から直接「悪くない」と褒められたものをつけている。
あからさまに気張っている自分と、こちらが勝手に特別感を見出しているだけかもしれない村雨。
どれだけ前向きに受け止めたとしても、見えてくるのはあくまでも不釣り合いな感情の天秤だ。どちらに大きく傾いているかは賭けるまでもない。
恋をした人間はすべからく馬鹿になる。古今東西、歴史が証明してきた真理である。
つまり俺はいま、かつてないほど馬鹿になっている。目の前にいる男に、どっぷり恋に落ちているせいで。
ああクソ、と内心で悪態をつき、顔を擦った。
「デートみてえだ」と浮かれる卑屈そうなキツネを、ドス黒い顔の自分が「くだらねえ妄想はやめろ」と説教している。
そんなアホらしい光景が頭をよぎり、獅子神は本日二度目のため息をついた。
平日ではあったものの、ロビーはそこそこ混み合っていた。
「飲み物を買ってくるからあなたは席を取ってくれ」
そう言いながら村雨が渡してきたのは先ほどの封筒。中にはチケットが二枚入っている。
何気なく取り出して、獅子神は思わず眉を顰めた。
「なんだこりゃ。なあこれ、なんか間違えて持ってきてねえか?」
獅子神が訝しんだのも無理はない。映画のチケットは、どう好意的に解釈しても村雨が好むとは思えないベタな恋愛映画だったからだ。
人気マンガが原作で、十代から二十代を中心とした若者から支持される俳優を惜しげもなく主役周りに起用した話題作。テレビで何度もプロモーションが流れていたから獅子神も一応タイトルとあらすじ程度は知っている。だが、率直に言って完全に守備範囲外だ。
チケットは映画の宣伝ポスターと同じ画像が印刷されていて、よく見ると隅のほうに「ご招待券」と刻まれている。
「間違ってない。席はどこでもいいからあなたの好きにしろ。飲み物はコーヒーでいいな」
執刀中の指示出しよろしく簡潔にそれだけ言って、村雨は獅子神の返事も待たずにさっさと売店の方に向かってしまう。
あいつ、マジで自由だな。振り返りもしない背中に苦い顔をしつつ、獅子神はすごすごとチケットカウンターに向かった。
お目当ての映画は、ちょうど開場時間が迫った上映回があった。というよりも、待ち合わせがこの時間だったのは完全にこの回を見越してのことだったのだろう。効率重視の村雨らしい行動だ。これが彼自身もまるで興味のなさそうな映画のためでなければ、の話だが。
公開されたばかりの話題作ということもあり、平日にもかかわらず見やすそうな位置で空いている席はまばらだった。
村雨はどこでもいいと言っていたし獅子神自身は現段階ではこの映画に対して「なぜ村雨がこれを見ようと思ったのか」以上の興味はない。
前すぎると首が痛くなるんだよな、と思いながらできるだけ真ん中よりも後方で、二席並びの空きを探す。
と、右ブロック最後列の通路側にちょうど希望どおりの座席を見つけた。
正直、自分の楽しみにしている映画ならまず選ばない見づらそうな位置だ。だが、村雨の声に込められていたあまりにもそっけない熱の入り様からしておそらく文句は言われないだろう。もしも何か言われたらその時はその時だと手早く座席指定を済ませる。
案の定、選んだ席の視界は最悪だった。けれども合流した村雨は、予想と違わず席には文句ひとつ言わなかった。
「チケットは兄貴からたまたまもらったものだ」
村雨は日本酒を追加すべく店員に声をかけた後、淡々とそう言った。
映画を見終わった後、夕食のために西新宿へ移動した。村雨が「新宿にはあまり詳しくないから食事はあなたに任せる」と言ったため、獅子神がたまに仕事で使う寿司屋に彼を連れて行った。
村雨の好物である肉料理を出す店ではなかったものの、オフィスビルの地下にひっそりと店を構える寿司屋を彼は気に入ったらしかった。
丁寧に仕込まれた前菜や小鉢を堪能しつつ、各々のペースで勝手に手酌で杯を重ねていく。店内は仕事帰りの会社員と思しき客で賑わっており、気の置けない談笑のさざなみに、板前の威勢のいい声が混じっている。
普段は二人ともさほど酒の量は多くない。だが、いつもと異なる状況がアルコールを摂取する手を後押ししていた。
寿司が出され始めた頃、取り止めのない話をしているときに、村雨が言ったのだった。あの映画のチケットは兄からもらったものだ、と。
「そもそもの話、なぜ連中はさっさと連絡を取り合って互いの事情を打ち明けなかった? 落とし所ひとつ探らず勝手に相手の気持ちを決めつけて、その結果無意味なすれ違いを繰り返すなど馬鹿馬鹿しいにも程がある」
「なんの話だ?」
突如として冷ややかに紡ぎ出された罵倒に、獅子神は首を傾げる。村雨は追加された日本酒を自分と獅子神の猪口に上品な手つきで潔く注いだ。
「先ほどの映画だ。話し合えば十五分で解決する問題を、明日世界が終わるかのようなテンションで鬱々と悩むマヌケどもが主人公の」
「あー、あれな」
「しかも拗れに拗れた展開になだれ込んでおきながら、最後は完全に運任せの解決ときた。ご都合主義にも程がある」
映画が村雨の感情の乗らない声音で手酷くこき下ろされていくのを、獅子神は軽く相槌を打ちながら拝聴する。概ね同意見だ。獅子神自身、お前らがその手に持っている板切れは飾りか? と上映中に何度呆れ返ったか分からない。
しかしこいつも律儀なことだな、と半ば感心し、半ば呆れた。
村雨は万事につけて淡白で容赦ないわりに、妙な付き合いのよさがある。
たとえば真経津たちが企画するくだらないイベントも、嫌そうな顔をしながらもなんだかんだで最後までやりきるような。
だから別に彼は映画に対して感じるものがあって批評しているわけではなく、いち観客の責務として己の所感を述べているのだろう。退屈な論文を斜め読みしているときと同じ表情を浮かべている横顔を盗み見ながらそんなことを思う。
とはいうものの。
「いや、つーかよ。それにしたって何だってわざわざ好みじゃねえってわかってる映画なんざ観ようと思ったんだ? 貰いもんのチケットだからか?」
そんなはずはあるまいという気持ちを込めて問いかける。村雨は案の定、「まさか」と鼻を鳴らした。
「理由はいくつかあるが、ひとつはあのマヌケ神の鼻を明かしてやりたかったからだ」
「天堂を?」急に出てきた友人の呼び名に獅子神は目を瞬かせた。
「ああ。『思いやりクイズ』とかいうふざけた企画のことを覚えているだろう? この前の集まりであのときのことを蒸し返された」
村雨は今にも舌打ちしそうに忌々しげに顔を顰めている。
この前の、というと真経津の家で開催されたホラー映画鑑賞会か。獅子神は数日前の記憶を呼び起こす。そのやり取りのときにはちょうど獅子神は真経津や叶とキッチンで大量のポップコーン作成に勤しんでいたため詳細は分からない。ひとまず聞く体勢に入った獅子神に、村雨は呪詛でも吐くかのような低い声で告げ口をした。
「あの男、言うに事欠いて私の感情理解力はそこらの赤子にも劣るなどと宣った」
赤子の感情表現といえば、ようやく自分のなかにも快や不快があると自覚し、特定の他者に関心を示したりコミュニケーションを取ろうとし始めたりする段階だ。まさに天堂の見立てどおりであるという同意を込めて、獅子神は「ふうん」と相槌を打った。
村雨はそんな彼をじとりと横目で睨む。
「ギャンブルにおいて、相手の『心』を読み解くのは有効なスキルだと先の試合で証明された。私の診断は完璧だが、現状に甘んじる事なくステップアップし、あのマヌケ神のふざけた評価を覆す。これは私の向上心の表れであり断じて奴から煽られたからではない」
「はいはい、分かってるよ」煽られたからじゃない、と強く念押しするのに、おざなりに同意する。「それで、映画とどんな関係が? ああいうのは他人の感情とか心の機微みてえなのの参考にはなんねえと思うけど」
首を傾げる獅子神に、村雨は我が意を得たりと言わんばかりに大きく頷いた。
「勤勉なあなたなら理解できるだろうが、物事を学ぶのに実地に勝るものはない」
「まあ、そうだけど……実地?」妙な話になってきたなと思いながら続きを促す。
「そうだ。そもそも思いやりとはすなわち想像力だ。相手の立場になって考え、その心情を慮り行動する。あなた、来週に品川で仕事があると言っていたな?」
「あ? オレの仕事?」
また随分話が飛んだ。獅子神が首を傾げると、村雨はある企業名を挙げた。獅子神が参加する予定の交流会の主催だ。たしか何かのタイミングで彼に話したような気がする。
村雨の話によると、そこのお偉方が先ほど見た映画の主演と原作のファンだという。
「私も兄からの又聞きなのでどこまで本当か知らないが、一応スポンサーとしても名前を連ねていたし、話題作でもあるから雑談のネタくらいにはなるはずだ」
そう淡々と話す村雨を、獅子神はまじまじと見つめた。
「チケットをもらったのは偶然だが、話を聞いてあなたの顔が頭に浮かんだ。あなたは本腰を入れて観たい映画には、実は一人で行きたい方だろう。それに一度鑑賞した映画は基本的に何度も観ない。あなたが興味のありそうな映画であればすでに予定を立てていたり視聴済みだったりするだろうが、あの映画であればすべてにおいて問題ない」
実地、仕事、映画、スポンサー。俺の映画の趣味。思いやり。
村雨の口から溢れてくる言葉を拾って意図を組み立てていく。試合の配信を見ながら解説を聞くときのように慎重に。
そうして叩き出した解答に、獅子神は思わず天を仰いだ。暖かな色の天井を眺めながら「なるほどな」と呟く。
つまりこいつは、俺に「思いやり」を示そうとしている。感情の理解を深める実地を積むために。映画に誘ったのは実技テストの課題として。
対象に俺を選んだのは、おそらくこいつの友人のなかで俺の反応が一番「平凡」だから。
獅子神は、村雨が学生時代は間違いなく一度も取ったことがないはずの赤点を思い切り叩きつけてやりたくなった。どれだけ相手のことを気遣おうとも、前提がすべてを台無しにしている。
天堂の言うとおりだ。こいつの情緒は赤ん坊同然で、何もわかっちゃいない。
確かに村雨の分析はおおむね間違っていない。
獅子神は基本的に映画には一人で行く。ずっと追っておるシリーズの新作がまもなく公開されるため、時間を取って一人でゆっくり観にいこうと思っていた。
そして楽しんだあとは視聴済みの印をつけて頭の隅に片付けておく。獅子神にとってフィクションとはそういう位置付けのものだった。
ビジネスの場において事前に情報を仕入れておくのは定石だ。雑談程度のことであれ、共通の話題やあなたのことを知っていますよというアピールは強力な武器になるだろう。
けれどもこれらの分析は、獅子神にとって村雨を相手にしたときだけは全く違う答えになる。
たとえ一人で行こうと思ってすでに週末の席を押さえていた映画だったとしても、村雨に誘われれば何を置いても馳せ参じる。
もし彼が行きたいと言えば、過去に十回観たことがある映画だって喜んでチケットを取っただろう。
好みではない映画を眺めて過ごした二時間で得たものは、仕事を有利にする情報ではなく惚れた相手の隣に堂々と座っていられる権利だ。
それだけではない。そっけない誘いのメールには過去に獅子神がもらったどんな甘い口説き文句よりも胸が高鳴ったし、待ち合わせ場所で自分を待つ村雨の立ち姿には初めて会ったときみたいに新鮮で胸を打たれた。
なのにそれは、村雨にとっては単なる実証実験の一つに過ぎなかったわけだ。
獅子神は本日何度目かのため息を飲みこんで、深く俯いた。チクショウ、と声に出さずにぼやく。
恋は人を馬鹿にする。俺は馬鹿なマヌケ野郎だ。村雨の目的を知った今でさえ、傷つきながらも役に立てて嬉しいだなんて思ってしまうのだから。
「――と、まあ色々並べ立ててみたが」
肩を落とす獅子神をよそに、村雨がぽつりと言った。その口調がこれまでの理路整然としたものとはわずかに色が変わったように感じられて、思わず顔を上げて彼のほうを見た。
無意識なのか、村雨は言葉を探すようにゆるく曲げた人差し指で唇に触れていた。どこもかしこも硬そうなのに、アルコールでいつもよりも血色がよくなった唇は獅子神の目にはひどく柔らかそうに映る。
村雨は少し顔を傾け、獅子神に目を向けた。
「待ち合わせ場所に表れたあなたを見て気が付いた。私はただあなたを遊びに誘いたかっただけだったようだ。私から誘って、あなたと二人で出かけてみたかった。映画もマヌケ神も単なる口実だったらしい」
初めて見るセーターだ、よく似合っている。そう告げる彼は、ほかの誰かなら見落としてしまいそうなほど淡く微笑んでいて、何か見たことがないものを初めて見つけた子供のように戸惑っていた。
「……ありがとよ」
ぶっきらぼうに答えながら、獅子神は、どうか、と祈っていた。神でも仏でも叶えてくれるなら何でもいい。どうか村雨が俺の想定の十倍は酔っていて、優秀な五感のセンサーが完膚なきまでに役立たずになってくれていますように。
こいつが村雨じゃなきゃ「口説いてんのか?」とからかっただろう。あいにく、俺はそこまでマヌケじゃない。こいつの言葉には何の意図も含みもない。ただ、村雨なりの俺に対する友愛があるだけ。
それを示すように、彼はたった今まで浮かべていた微かな笑みをかき消して、いつもどおりの何を考えているのか微塵も読めない顔で正面を向いている。
分かっている。だから祈らせてほしい。
この、人の気も知らないで呑気にガラスケースの中の大トロに熱い視線を注ぐ男が、おそらく真っ赤になっているだろう俺の顔色に気づきませんように。
どうか。
会計を済ませて店を出ると、夜は一層深まっていた。オフィスビルは地下から新宿駅に直結しているため、タクシー乗り場を目指して二人で並んで歩く。
あと少しで二十一時を迎える新宿駅は、それぞれの行く先を目指す人々で賑わっている。
まだ次の店を探してもいいような時間だったが、翌日は仕事だという村雨に合わせて本日は解散ということになった。
ひんやりと冷えた空気が、火照った体の熱を心地よく攫っていく。こっそり盗み見た村雨は、アルコールが程よく回っているのか、いつもよりもとろんとした柔和な表情を浮かべていた。
駅構内に散らばる売店は、まもなく訪れる閉店時間を前に少しずつ店頭を片付け始めている。赤や金、緑を中心とした色で飾られたディスプレイが店内に運び込まれていくのを横目に眺めながら、獅子神はそっと目を伏せた。
――そうか、もうすぐクリスマスなのか。
いまさらのように沸いた実感に、みぞおちに冷たい塊を押し込まれたような気持ちになる。
獅子神の視線の先にあるものを目で追った村雨は、コートのポケットに手を入れたまま肩を軽く竦めた。
「どうせ今年のクリスマスは騒がしいことになる。今から気を揉んでも無駄だ」
ほんの一瞬だけ獅子神の足が止まった。瞬きほどの短い時間、彼は息を呑んで村雨を見遣った。
「……だよなぁ」
「クリスマス当日になるかは不明だが、天堂の誕生日もあることだし、前後の数日は何かしら巻き込まれるとせいぜい腹を括っておけ。あの連中は張り切って珍妙な企画を立てるだろうから、心配なら早めに首を突っ込んで少しでも穏便に収まるように軌道修正したほうがまだマシかもな」
「不安になるようなこと言うなよ」獅子神は眉をぐっと寄せて顔を思い切り顰める。「クソ、頼むからせめて会場くらいはオメーか真経津んちであってくれ」
「ふざけるな、絶対にあなたか真経津の家のどちらかにしろ」
そう苦々しく吐き捨てる村雨の横顔を目に収めながら、獅子神は胸のつかえが軽くなったように感じて少し笑った。
百貨店の前でタクシーを拾おうとしたとき、村雨が足を止めてコートの胸元を抑えた。内ポケットから取り出されたシンプルな携帯電話のディスプレイを彼は億劫そうな顔で睨む。
「仕事の電話だ。長くなるかもしれないから先に帰ってくれ」
「いや、酔いも覚ましてえし、この辺で適当に待ってるよ」
手をひらひらさせると、村雨は呆れたように首を横に振ってから静かな場所を求めて足早にどこかに歩いていく。
その後ろ姿をぼんやり見送ってから、そっと胸に詰まっていた息を吐き出した。
ふと視線を巡らせると、百貨店の脇にある小さな花屋が目に留まった。クリスマスらしく、控えめながらも上品なイルミネーションを思わせる飾りつけが施された店頭に、クリスマスローズやポインセチアが並んでいる。
赤や白、緑のコントラストを眺めながら、村雨のことを考えた。先ほど彼がいともたやすく差し出したもののことを。
賭場にいなくても村雨は村雨だ。あいつはきっと、俺がどんな気分でクリスマスのことを考えていたか全部分かっていて、あえてあいつらのことを話題にした。
その証拠に、暗いほうへ暗いほうへと流れていきそうだった獅子神の思考は、来たる聖夜の狂騒に思いを馳せているうちに有耶無耶になってしまった。
獅子神はクリスマスにいい思い出がない。煌びやかなクリスマスツリーやケーキも、夜のうちにサンタクロースが運んでくるプレゼントも、子供の頃の獅子神には全く関係ない代物だった。
華やかな祝祭への憧れは、やがて大人になるにつれて馴染みのある諦めに変わった。今はただ、自分が異物になったような居心地の悪さを突きつけられるだけ。
普段は見ないふり、忘れたふりをしている惨めさが、折に触れてふっと顔を覗かせることがある。
別に過去の傷を誇示して頭を撫でてもらいたいわけじゃない。このままずっと飢えや孤独に苛まれる日々が続くのではないかとただ怯えていただけの子供とは違う。大人になった獅子神は、毛布に包まって体を丸めているうちにいつか嵐は過ぎ去っていくと知っている。
だから放っておいてくれて構わないのに、村雨は時々、ごくさりげない言葉や態度で獅子神の心を掬い上げることがある。
差し出される手は彼の気まぐれのようでいて、実のところ獅子神が本当に心から欲しているときだけに与えられる。気付くのはいつだってその手を咄嗟に引っ掴んだあとだ。
どうしてそんなことができるのか分からない。思いやりクイズであんな的外れな解答を叩きだしたくせに。
村雨は、獅子神にとってびっくり箱のような存在だ。
世界の歪みに絶望するほど熱いものを抱え込んでいるのに、自分を冷たい人間だと思い込んでいる。心の扱いに不慣れなせいで斜め上の思いやりを示す一方で、肝心なところでは絶対に間違えない。
ツリーの天辺に飾られる星のように特別な男のせいで、獅子神の心はめちゃくちゃだ。
そうだ、と獅子神は歯噛みする。俺はもうずっと前から、村雨のことが欲しかった。
心安い友人への友情と、格上のギャンブラーに対する敬意とライバル心。導いてくれたことへの感謝と憧憬。それらを注意深く掘り進めた奥底に、否定のしようがない恋心が埋まっている。
あいつのことをもっと知りたい。ただの友達では知り得ない深いところを覗きたい。一番近いところに座ることを許してほしい。しなやかな白い指先や薄くて柔らかそうな唇に触れてみたい。
自分の願いは明白だった。けれども見ないふりして目を逸らしてきた。慎重に振る舞って、何もないような顔をしておけば、いつか本当に何もなくなってくれるかもしれない。そう思いながら過ごしてきた。
村雨本人も含めた聡い友人たちがどうして何も言ってこないのかは知らない。とっくに昔にバレているのか、ものすごい幸運が働いて誰にも気づかれていないのか。
村雨は自分がどういう目で俺から見られているのか、気づいているんだろうか?
気づいていないとは思えない。それでいて全く態度が変わらないということは、あいつなりの気遣いか、それとも気に留める程のことでもないと受け流されているのか。あるいは単に牽制されているのか。
分からない。俺に村雨の考えが読めた試しはない。なぜならあいつは正真正銘の本物のピカピカで、俺は必死にメッキを塗りたくった紛い物に過ぎないからだ。
獅子神は、そんな自分が村雨を求めることを、ずっと自分に対して許していなかった。テメーにそんな資格があるかよと鼻で笑って一蹴してきた。
欲しいものへの諦めは、獅子神には慣れた道連れだ。深い諦念は、自分に与えられないプレゼントや絶対に来ないサンタクロースを焦がれて苦しむよりも、そんなものには興味ないと背を向けるほうが容易かった幼いころの自分の姿をしている。
けれど、と彼は思う。もしかしたら、欲しいものを欲しいと主張することは、実はそれほど難しいことじゃないのかもしれない。
叶との試合で、獅子神は自分もワガママを貫いてもいいと感じた。それは強く、鮮やかな確信だった。馬鹿げた夢のような願いであっても、分不相応な望みであっても、「それが欲しい」と駄々をこねる権利が俺にもある、と。
――だから、少しくらい足掻いてみてもいいんじゃないか?
タクシー乗り場には客待ちのタクシーが何台も停車していて、いつでも飛び乗れそうだ。村雨はまだ戻ってこない。ならば仕掛けるには今しかない。
獅子神はゆっくりとした足取りで、数歩先の花屋に向かった。そろそろ店仕舞いを始めるべきかと考えていそうな店員に「すみません」と声をかけると、彼女はサッと感じのいい笑みを浮かべた。
「はい、いかがしましたか?」
「ええと、花に詳しくないので選んでもらうことはできますか?」
店員はギャンブラー顔負けの鋭い視線で獅子神を値踏みする。そして、もちろん、と答えていっそう笑みを深くする。どうやら閉店直前に大きな売り上げが見込めそうだと判断したらしかった。
電話を終えて戻ってきた村雨は、獅子神を見てぴたりと足を止めた。眉間に深く皺を寄せて顔を顰めているせいで、大の大人でも泣き出しそうなほど凶悪な顔つきになっている。
「……獅子神」
村雨は頭痛を堪えるように手で目元を覆い、それから腹を括った顔でのろのろと歩み寄る。「あなた、自分自身を鏡で見たことは?」
「あ? あるに決まってんだろ。なんだよいきなり」
「私は今、生まれたての姪を義姉から抱いてみないかと差し出されたときと同じくらいの勇気を振り絞り、十時間以上におよぶ大手術に臨むとき以上の覚悟を決めてあなたの前に立っている。そこらじゅうから突き刺さる、『あのド派手な男と待ち合わせているのは一体どんな相手だろう』という好奇に満ちた視線を一身に浴びながら」
苦虫を噛み潰したような顔でゆっくりと告げられた村雨の言葉に、獅子神は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
村雨は獅子神を――正確には彼の抱えているものに目を据えたまま腫れ物に触るように尋ねる。
「それは……一体何なんだ」
村雨が「それ」と指摘したのは、獅子神の腕のなかで存在をまざまざと主張する巨大な花束だった。
ポインセチアやクリスマスローズ、アイビーをはじめとしたクリスマスらしい華やかな花とユーカリなどのグリーン。それらをゴールドのリボンでデコレーションした花束は、店員の旺盛な勤労意欲と調子に乗った獅子神の要望が噛み合った結果、ちょっとしたパーティを思わせる豪華な仕上がりになってしまった。
「いや、なんつうか。クリスマスだし、家に花があるのも悪くねえかなって思ってよ」
「……そうか」
心底理解できないと言いたげな顔で村雨は頷く。
「香りはそんな強くねえのを選んでもらったんだぜ」
そう言いながら獅子神が大輪の白いカーネーションに顔を近寄せると、彼はよりいっそう剣呑な顔でため息をついた。
「確かにそのようだな。そして分かっていないようなので忠告するが、あなたと花の取り合わせが他人の目にどう映るか正しく把握しろ。よそ見して転倒するマヌケが続出したらどうする」
「うるせえなぁ。似合わねえのは分かってるよ」
「やっぱり分かってないじゃないか!」
腹立たしげに声を荒げる村雨の反応に首を傾げつつ、獅子神は目の前の男を訥々と見下ろした。
印象的な下がり眉の下にある切れ長の目は真っ直ぐに獅子神に向けられていて、鼻筋がまっすぐ通った鼻は寒さのせいで赤くなっている。
こいつの顔、すげえ好きだな。
沸々と湧き上がる実感を噛み締めながら、獅子神は村雨に微笑みかける。
「オレは花って結構好きだけど、お前は嫌いか?」
「別に嫌いというわけじゃない。手間がかかるし枯れたら枯れたで罪悪感を覚えるのが嫌なだけだ」
「ふうん。でもその罪悪感って必要か? どんなに気をつけたって花はいずれ枯れるもんだろ」獅子神はそっけなく肩をすくめる。
「そのとおりだが、実際に世話をするのは私自身だ」
つまり、と獅子神は考える。村雨の言う罪悪感とは、結局のところ贈った相手の気持ちありきなところがありそうだ。単に儚い命の美しいものを損なってしまった苛立ちかもしれないが、どこかに贈り手の感情を意識する部分もあるのかもしれない。
それは、穿ち過ぎだろうか。
そうであればいいという希望的観測かもしれない。村雨に、枯れていく花を見て、贈り主のことを考え胸を痛める情緒があってほしいという願望の現れ。
そうでなければ、これから自分がすることは全く無意味な行いになってしまうからだ。
「まあ、実利的なオメーにとっちゃ、食えねえ上に面倒な花よりも菓子の方がいいんだろうけどよ。貰う相手の都合なんざ考えないようなワガママな奴もいるってのは覚えといた方がいいと思うぜ」
「どういうことだ?」向けられた言葉の意図が読めなかった村雨が探るように目を細める。
「多大な労力に、不要な罪悪感を残すストレスの塊、だっけ? スゲーこと言うな、お前。けどこっちには都合がいい。呪物だろうが何だろうが、それだけ村雨礼二の頭の中に居座れるってわけだ」
嫌いな奴のことを考えている時間は、誰かのことをずっと考えているという意味では恋と変わらない。
そんな叶の持論を思い出す。
村雨の中の俺は一体どれくらいの優先順位なんだろう。家族や仕事、ギャンブルや趣味を離れているときに、俺のことを一瞬でも思い浮かべる時間はどれくらいだ?
多忙で優秀で無駄を嫌う合理主義なお前の頭のリソースを奪いたい。
それが面倒だとか手間をかけさせやがってだとか、うんざりした気持ちでも構わないから。
冬の花で作られた花束越しに村雨を見つめる。視界に映る景色は、鮮やかな色に彩られて、一足飛びに訪れた春のようだった。
村雨の胸元に花束を押し付けると、彼は反射的に受け取った。両手を塞がれて途方に暮れる様子は、いつもの村雨の堂々とした立ち姿とかけ離れていて微笑ましい。きっと、姪を初めて抱きかかえた時も、こんなふうにおろおろしていたんだろう。
獅子神は村雨を見据えたまま一歩ぶんの距離を詰める。高熱でもあるかのように、顔どころか全身が熱くて燃えているみたいだ。
「オレは、お前に呪いをかけたい」
緊張で痛いほど心臓が高鳴っているのを無視して、獅子神は村雨の耳元に口を近づけた。
「花が枯れるまで、オレのことを考えていてくれ」