瑛一くんの場合「疲れた……」
　瑛一の独り言が誰もいないリビングに響く。誰もいないからこその呟きだった。
　体力精神力に自身のある瑛一だったが、そんな彼でも疲れを感じてしまう程直近の瑛一のスケジュールは詰まっていた。きちんとした休暇をとったのはいつだろうかと思い出せない程だった。
　時刻は深夜と呼べる頃。ようやく仕事が終わり帰宅したのだが、何もする気になれない。明日も仕事があるため早く寝なければならないのはわかっている。食事は外で済ませたため、シャワーを浴びてベッドに向かうべきだ。そうわかっているものの、一度ソファに落ち着けた腰は中々あげられなかった。
　そんな瑛一の耳に自分以外の足音が聞こえた。
「おっ、と……えーちゃん帰ってたんか。おかえり」
「ヴァンか……ただいま」
　足音の主はヴァンだった。彼はもう就寝の準備を終えているらしく、いつもは上げてある前髪も下りていた。
「えらいお疲れさんやなぁ」
　ヴァンはへにゃりと柔らかく人当たりの良い笑顔を浮かべながら瑛一の側までやってくる。そのまま隣へ腰掛け、身を乗り出して瑛一の顔を覗き込んだ。
「晩御飯は？　食べてきた？」
「ああ。シャワーを浴びて、寝なければならないんだが……」
「腰が重いんやな？」
　動きたくないと言う瑛一に、ヴァンは笑いながら向き合う。そして、右腕を瑛一の背中に、左腕を膝裏に差し込む。それはまるでお姫様抱っこをするかのようで。
「ヴァン？」
　そしてヴァンの両腕に力が込められたが、瑛一の体がソファから離れることはなかった。
「……音ちゃんやったらいけんねんけどな……」
「はは。音也と俺の体重差を考えろ」
　ヴァンが態勢を立て直して再度チャレンジするものの、瑛一の足が少し浮いたくらいで、やはり尻はソファから離れない。
「全然抱えられていないぞ。ほら、頑張れ」
　瑛一は楽しそうに笑いながらヴァンの首に腕を絡める。抱き着いたことで触れる面積が多くなり、伝わるヴァンの体温が心地よかった。
「ワイの本気、見せたるわ！」
　三度目の挑戦。
「おお」
　ついにヴァンは瑛一を抱えて立ち上がることに成功した。瑛一はたまらず感嘆の声を漏らす。
「凄いじゃないか、ヴァン。まさか本当に抱えてくれるとは思わなかったぞ」
　お姫様抱っこなんてそうそうない経験に、瑛一は楽しそうにはしゃぐ。しかし、ヴァンは全力で瑛一を抱えているため、ろくな返事ができない。
「このまま風呂場まで連れて行ってくれるのか？」
「……隣の、ソファまでで……勘弁して」
　瑛一の座っていたソファから直角の位置に並べられたソファ。そこがヴァンの限界だという。歩数にして2歩から3歩。あまりにも短い距離ではあるが、瑛一にとっては十分な距離だった。
「そうか。では、頼む」
　瑛一を落とさないようにゆっくりと移動するヴァン。瑛一は彼の首に回した腕に、少しだけ力を入れた。
「……あっかん、もう限界！」
「ありがとう、ヴァン」
　無事隣のソファに降ろされた瑛一は、お疲れ様とヴァンの肩に手を置く。そしてその手を背中に回し、もう一方をヴァンの膝裏に差し込んだ。
「えっ、えーちゃん……何をしようと……」
「お返しだ。一緒に風呂へ行こう」
「まままま待って！」
　ふわりと若干の浮遊感を覚え、ヴァンは慌てて瑛一を止める。彼は確実に自分を抱えられると判断し、それだけは阻止したいとの思いだった。
「ワイは歩けるから！　な？　ほら、お手々繋いでこ？　な？」
　慌てて瑛一の前に手を差し出せば、紫の瞳がじっとその手を見る。そして、瑛一は頷いた。
「わかった。エスコートさせて貰おう」
　差し出されたヴァンの爪先にキスを一つ落とし、目を細める。そしてそのまま立ち上がり、「えーちゃぁあん」と情けない声を出すヴァンの手を引いて歩き始めた。