口が軽くて重くなるこんなはずじゃなかった、などと表現すると途端に嘘くさく感じられてしまうものだが、実際にそういうしかない場面も存在するのだと知った。佐野はずきずきと痛みだしそうな頭と、背を伝う汗とにどう落とし前をつけるかで必死に頭を回す。どうしてこんなことになったんだったか。絶え間ない居心地の悪さと一抹の罪悪感に割かれてしまっている脳みそのリソースを必死に還元しながら、眉をひそめて本意ではないというポーズを露骨にとった。目の前の同年代の女子たちがあからさまにとっつきにくそうに自分をちらちらと伺っているのを感じる。ごめん怖がらせて。でもこれが俺なりの自衛だから許してほしい。恨むならその隣の男を恨んでくれ。口にしない言い訳をつらつらと並べ立て武装した気になって、一人息をついた。事の発端は佐野の所属している工房の先輩が、あまりに女っ気のないその姿に要らん心配をかけたところから始まる。数日前それらしい話を振られたときは「ああまた言っとるわ」程度に粗雑にあしらっていたのだが、それが見事に裏目に出た。というか、それを口実に自分たちも出会いが欲しかっただけなようにも思えてくる。
(俺には女の子じゃなくても操立てしてる相手がいるんだよなあ)
数年間に及ぶ片恋慕の末に隠しきれなかった恋心は変な形で表出する羽目になった。一度はあっけなくあしらわれたものの、二度目、流しきれなくなったであろうそれはなし崩し的に受け入れられてしまったのだ。喜びと疑いの混ざり合った動揺から、家に帰って三十分ほど通話アプリを開いて唸った先で聞いた言葉を、佐野は今でも鮮明に思い出すことができる。改めて確認したいんだけど、と恐る恐る切り出した佐野に彼はあっさりと「ああ、告白ですよね」と笑ったのだ。
「いいですよ。佐野さんがまだ望んでくれるなら」
えっと、よろしくお願いします? ちゃらんぽらんでも、それはたしかに交際の始まりだった。多分あの時は彼は自分のことを本当に正しく恋人だとは思っていなかっただろう。というか今でもそれは正直怪しいところがある。大変不本意ではあるが志筑はいまだに佐野のことをただの可愛い後輩だと思っている節があるのは否めなかった。
(この状況を見ても怒んないんだろうなあ。なんも思わなさそう)
もちろん非があるのは間違いなく自分だし、それを怒らないで笑ってくれるというのはありがたい話なのだろう。それでも、許すのと何も思わないのとは違うのだ。志筑は佐野に甘い。甘いというか基本的に怒ることをしない。それはきっと、初めから彼の中にある喜怒哀楽のうちの二文字が抜けてしまっているから。そういうところが嫌い。そういうところを、変えてやりたい。幾度か逢瀬を繰り返して、あの頃の学生というフィルターを取っ払った彼を見た。好意を持ってくれているのだって、結構感じた。でもまだ、どこか踏み込んできてはくれない。踏み込ませてはくれない。
(まあとはいえ、この場に付き合うのは不誠実だからちゃんと抜けるけど)
気づかれてないとはいえちゃんと後で言っとかんとなあ。なんでもなさそうに「そっすか」と笑うその顔を想像して少しだけ凹む。彼にとっては自分がどこで何をしていようがどうだっていいのだろう。もっと執着してほしい、と不本意を感じながら抜け出す口実を考えていると、ポケットの奥底で鈍いバイブ音が響いた。続いて数度、取り出すまでに携帯が震える。誰かから連絡だろうか。おもむろにトークアプリを開いて通知を確認すれば、それはまさしく今の意中の人からで。
『おーい』
『女の子と飲んでます?』
『うまくやってますかー』
間延びした声が聞こえてきそうな語りと共に送られてきたのは仏頂面で机の隅を睨みつけている佐野の写真だった。え、と思わず漏れた声も気にせずきょろきょろと辺りを見渡せば、佐野にとっては背中側にあたるカウンター席でへらへらと手を振っている志筑の姿がそこにはあった。相当酒入ってるな、とどこか冷静な思考をよそに、予想通り平然としている彼が気に食わない想いが膨れ上がっていく。すんません、知り合いいたんでそっち行きます。言い訳どころか体裁も何もない明け透けな言い分に必死に引き止めんとする周囲を振り払って、都合よくカバンの置かれている、彼の隣のその席へと歩みを進めた。
「あれ、こっち来たんですかあ」
「いやそりゃ来るでしょ」
ちんまりとそこに鎮座していたリュックサックを椅子の下へと避けて、そこに座る。なんか頼んだの、と隣を伺えば「焼き鳥と枝豆とー」とメニューを開きながら品目を数個並べたてた。相変わらずよく食べるな、と若干引き気味になりながらそれだけあるなら注文しなくてもいいだろうと踏んで、ソフトドリンクだけ頼む。アルコールを入れなかったのは、まともに話ができなくなるのを恐れたから。
「せっかくかわいい子いたのに、勿体ないっすねー」
ちびちびとビールで唇を潤しながら、視線も合わせずにそんなことを言う。しゅーさん、と思わず咎めるような声が出た。口元には相も変わらず笑みが浮かんでいて、自分の誠意が軽んじられているような気がして、どことなく面白くなかったのだ。
「ごめん。今度からはちゃんと断るって約束する」
「……別に佐野さんは悪くないでしょ」
「いやでも」
「よく趣旨も知らないまま誘われてここに来たんですよね? だったら俺に責める権利なんてないです」
「しゅ、しゅーさん」
「大体たとえ乗り気できてたとしても俺に怒られる謂れなんてないでしょ。いいんですよ俺のことなんて気にしなくても」
いつもよりひどく雄弁に滔々と流れるその語りに飲まれる形で絶句する。なんというか、想定外だったのだ。想像上の彼はもっと余裕な顔をしていて、もっと揶揄うような形で話を持っていくかと思っていたのに。意図的にこちらを向かないようにしているとしか思えないほど正面を向きながら、水のようにビールを減らしているその姿は、なんだかまるで。
「しゅーさん、あのさ。もしかして、結構気にしてくれたりとか、してる?」
「は?」
あからさまに眉をひそめて嫌悪を浮き彫りにする。何をですか。不本意そうなその顔に可愛げを見出してしまうのは惚れた弱みか。罪悪感の裏で歓喜が肥大していく。可愛い。それしかもう考えられなくなって、加虐心がみるみるうちに顔を出した。
「俺は、しゅーさんがこういうので怒ってくれたら、ちょっと嬉しいって思うよ」
「……いやだから、俺には怒るようなことなんて一つも」
「それは論理の話でしょ。理屈じゃなくて、感情で話してよ」
しゅーさんは俺が女の子といて、どう思ったん。ピシリ、と音が立ちそうなほど露骨に固まった。本当に動揺しているのか。この男が。ぞくぞくする背中を悟られぬようにウーロン茶を飲めば、体内の沸き立っていた血液が少しだけ落ち着いたような気がする。同時に彼がどうして今日はこんなに隙だらけなのかも透けたような気がした。アルコールは体温を下げてはくれない。それどころか、体の操縦を下手にするがゆえに、普段がちがちに自分に縛られている彼が弱まっている。今日はこれ、勝てるんじゃないか。もはや勝ち負けが何かよくわからなかったが、佐野は確かな手ごたえを感じていた。
「……だって重いでしょ。こんなんでいちいち突っかかってても、お互いしんどいだけですって」
「さっき言ったじゃん。俺、嫌なことは怒ってくれたほうが嬉しいよ」
「……クソマゾ」
「いや、別に俺もそこまで本気で怒ってほしいわけじゃないけど」
でも傷ついたら傷ついたって伝えてくれなきゃ、俺しゅーさんのことなんもわからんから。だからゆっくりでもいいから話してほしいんよ。口の悪さをちょっと面白く思いながら、彼のことを案じて軽い感じで背中を叩く。いつもの報復にもう少し苛めてやりたい気持ちが消えたわけではなかったが、それ以上になんだか愛おしさが勝ってしまっていた。弱弱しい罵倒に安堵したのかもしれない。結局自分は、彼に振り回されているほうが向いているような気がした。うー、と言いながら机に突っ伏す彼の髪を撫ぜる。タイミング悪く大量の皿を並べに来た店員に一人で礼を言って、机のスペースを頑張って広げた。ほら、しゅーさんご飯来たよ。体を揺らせば「めんどくさい……」とどこか食い違った返答だけが空に浮かんで消える。
「おれ、めんどくさいの、いやなんです」
「えー……でもさすがに俺これ一人では食いきれんけど……」
「……怒ったり、悲しんだりとか、きついでしょ、お互い」
「あ、そっち」
「そう、そっち」
こくりと首が縦に振られたような動きを机上でする。それを傍目に焼き鳥をもさもさと咀嚼していると、苦しそうにぽつりぽつりと感情の吐露が続いた。別に、女の子と一緒にいようが、ほんとはどうでもいいんです。ただ俺は、あなたがいない未来を考えてちょっと怖くなっただけ。すんと鼻を鳴らして強がるようにして言う。顔をあげないのはきっと、笑顔が用意できないから。顔見せてや。思わず漏れたおねだりも「絶対いや」と一蹴されてしまえばどうしようもない。ならば、と「焼き鳥来たよ」と声のかけ方を変えても「知ってる」とふてくされているだけだ。
「俺、勘違いしてたわ。しゅーさん結構俺のこと好きね」
「あーもう、死んでください……」
「俺も好きだよ。めんどくさくても、臆病でも、ニコニコしてなくても、しゅーさんのこと、好き」
「……」
その瞬間、すくりと立ち上がってリュックサックをスマートに背負うとすたすたとどこかへ行かんとする。帰ります。もはや半ギレといえる声色で背を向ける彼の腕を慌てて掴んで振り向かせれば、物の見事に真っ赤になって、ばつの悪そうに口元を押さえていた。あの、と謎に緊張して締まる喉を奮わせて引き留める言葉を探す。
「さすがにこれ俺、一人では食べきれんから」
「……すみません。ちょっと俺も動揺してました」
頭だけ冷やしてくるんで、それだけはマジで許してください。初めて見た赤面と潤む瞳の破壊力は抜群で、佐野は思わず無条件に頷いた。空席の隣で天井を見上げ、見えぬ空を仰ぐ。それはずるいだろ。負け惜しみのような言葉は当人には届かずに虚空へと消えた。しばらくお酒を飲ませるのは、控えたほうがいいかもしれない。