オムライス冷蔵庫の中に覚えのない皿が鎮座している。のせられているのは鮮やかな黄色の定番料理だ。ケチャップをかけたくなるな、と坂井は無意識に手を伸ばしてキッチンテーブルの上に置いてみる。もちろんそれは突然姿を変えて襲い掛かってくるわけでもなく、爆発するでもなく、相も変わらずそこに佇んでいるだけだった。作った覚えはない。はて、と小首をかしげて立ち往生していると、背後から「それ、食べていっすよ」と軽薄な声がかかった。
「どうしたんだい、これ」
「どうしたって……普通に」
卵を割ってフライパンに落とすジェスチャーをする。大袈裟なパントマイムに坂井は気を取られながらも、その大意を読んだ。作ったのか、君が。やや大きめの声が響くのに矢野はわずかにびくつきつつ、はい、とうだつの上がらない様子で頷いた。
「あ、別に毒とかは入ってないんで」
「端からそこは疑ってないけど。……作れるのか、料理」
「まあレシピ見て作れない人のほうが珍しいんじゃないすか」
確かに、矢野は手先の器用さは申し分ない方である。作れないわけではないことくらい、少し考えればわかることだ。しかし、そうは言っても。そうは言ってもである。ここ数年の間、家にいるときは欠かさず食事を提供し続けてやった坂井にしてみれば容易に納得できるものでもない。坂井はずっと、矢野は料理を作る気がないとばかり思っていたのだ。実際自分のいないときには外食にもいかず、適当なスナック菓子やらなにやらを摘まんでいるか、もしくはシンプルに空腹を苦にしていないかのどちらかでしかなかったように思うが。え、なんで、と素で声が漏れる。文脈も何もない唐突な疑問に、矢野は怪訝な顔をしながらも「なんで作ったの、ってことすか」と首筋を押さえた。
「……まあ、食いたくなったら作りますよね」
「君にもそういう欲求があるのか」
「ないこともないです」
「意外と一人でも文化的な生活が営めるタイプなんだな君は」
感心したように矢野の目を見上げる坂井に、やり辛そうに視線を泳がせる。なぜ料理を作っただけでこんな反応をされなければならないのか、とでも思っているのだろう。その心中を考えると坂井は何だか可笑しくなって、くすくす笑いながら皿にかけられたラップを剥がす。じゃあこれは有難くいただこうかな。そう電子レンジを開ければ、投げやりに「はいはいどうぞ」と匙を投げる声がした。子供が初めて手料理を振舞ってくれたら、こんな気持ちにでもなるのかもしれない。まだしばらくは縁のなさそうなその感覚に口元を綻ばせながら、電子レンジが歌いだすのを待っていた。
「しかし、君に料理ができるのなら食事は当番制にでもしようか」
「えー、それはちょっと」
「君も自分の好きなもの食べられた方がいいだろう」
「俺の好きなものは先生の手料理なんで」
また調子のいいことを言っている。坂井は呆れて溜息を一つ零した。始めから期待しちゃいないが、坂井だって偶には他人の手料理を食べたいのである。悲しいかな、独身男のルームシェアもどき生活では、そういった機会には恵まれない。いや、己に好意を寄せてくれる人間の手料理というのもそれはそれで、坂井はいい思い出がないのだが。何が入っているかわからないチョコレートやらパウンドケーキやらを思い浮かべて、少しだけ気分を害した。やはりオムライスである。マイクロ波に晒されて回っているそれを眺めて気を落ち着けていると、矢野が「そんな期待しても知りませんよ」と引き気味に忠告して、それを合図にベルが鳴った。
「まあまともに食べられる料理ならいいよ」
「期待値低いのも、それはそれで嫌っすね」
「わがままだなぁ」
矢野が流れでケチャップを冷蔵庫から取り出してくれる。何か書いてくれないの、とスプーンを用意しながら揶揄ってみれば、少しだけ嫌そうな顔をしながら腕まくりをした。あまり意味がなさそうなそれは、当人的にはきっと気合が入るのだろう。何を描くのだろう、とかなり興味深く観察していると、少し逡巡してからその腕は卵に接近して平行移動を始めた。
「……祝」
「めでたいでしょ」
「いや、何を祝ってるんだ」
「諸々っすよ」
ばちーんと見事にウインクを決めて、メイドさんのあれもやります、と意気揚々と尋ねてくる。さすがにいらない。真面目なキャンセルに「ちぇっ」とわざとらしく拗ねて見せたかと思うと、その次の瞬間には机の上の新聞を広げて読み始めているのだからもうよくわからなかった。一つ息をついて手を合わせる。いただきます。他人相手にそれを言うのは、いつぶりだろうか。矢野はちらりと坂井の手元を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「ん、美味しい」
「……どーも」
店で出されるそれとは違う美味さだ。際立って卵がとろとろなわけでも、チキンライスの味が格別なわけでもなく、ただただ想像した通りのオムライスの味がそこにある。安堵する味だと思った。血の通っているかすら不安になる男からこんな味のものが生み出されるとは。坂井はひそかに感動しながら黙ってスプーンを動かす。『祝』の字の辺の部分にケチャップが密集していて異様に濃くなった味に、少しだけ笑ってしまった。美味しいね、と呟く。矢野はただただ困ったような顔をしていた。
「やっぱりご飯、当番制にしようか」
「だからやですって。自分の作ったご飯そんな食べたくない」
「別に同じレシピで作れば同じ味になるだろう。自分のも他人のも」
「そんなことないっすよ。こういうのは……」
こういうのは、作った人間にも意味があるんすから。屁理屈染みた言説をして、しかしそんな言葉まで持ち出してでも嫌がるのだから相当に不満なのだろう。坂井はその意図を汲み取って大人しく引き下がることにする。まあでも、また気が向いたら作ってよ。そんなおねだり染みた頼み事に、矢野は居心地悪そうに「あー、まあ、また」とお茶を濁すだけだった。
「……同じ味にならない」
一人きりのキッチンで立ち尽くしたままにオムライスに手を付ける。あの時隣で見ていたレシピは完璧と言っていいほどに覚えていたし、それに倣ったつもりだったのにどうにもうまくいかない。分量が悪いのか、作り方が悪いのか、それとも。……それとも、自分が作っているからなのか。全部だったらどうしよう。そんなことを自嘲気味に考えながら、矢野はもう一度スプーンを口に運んだ。思い出は、美化されるのだ。納得がいかないまま、目前の皿の上にのせられた分はすべて平らげてしまって、大きく肩を落とす。もう一つにはラップをかけて冷蔵庫にでも入れておこう。一人分でいいはずなのに、思い出のまま二人分作ってしまった己の愚かさに、矢野はうんざりとしてふらふらとその場にうずくまった。