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    dentyuyade

    @dentyuyade

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    dentyuyade

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    本川君の高校時代の話。

    運命論者とピアス穴親の仕事の話を振られたら、母の話をしなさいと言われていた。その理由に気が付いたのは小学生として数年過ごしてからだ。それまでは、いつもへらへらと笑って母が勤務しているデザイン事務所のことを口にしていた。子供のうちに与えられた前提というのは、得てして疑う機会に恵まれない。何気なく、お父さんは何をしている人なの、と聞かれたその瞬間を、本川はよく覚えている。用意できていなかった返答を無理やりに形にしたとき、もう誰だったかも覚えていないその相手は明らかに困惑した顔をしていた。
    「なんか、人の背中に絵描いとるねん」
    そうとしか形容のしようのない父の仕事が、所謂彫り師と呼ばれる職業だと知ったのは、それから更に後のことだ。父が相手にしている客が社会的には歓迎されていない人々だということも、本川はそれまで知らなかった。カテゴライズされていなければ、彼らはガタイのいいオジサンたちでしかなかったのだ。彼らが気をよくしているときなどは寿司を驕ってもらったりもするので、未だに忌避すべき存在だという認識が甘い。父も母もあまりいい顔はしないが、陽太と下の名前で呼んで可愛がられる分には悪い気はしないのだ。もっとも、線引きの必要性は常に感じる。本川は堅気の道を踏み外す気はさらさらなかった。デスクの上に広げられている予約表を手にして確認する。父は細かく描き込まれた絵図を見ながら不機嫌そうな顔で頭を掻いていた。
    「今日の橋本さんの、見とっていい?」
    「知らん」
    「はいはい」
    父は口数が少ない男だと思う。別にそれを本川は嫌だとは思わない。静かなのが嫌ならその分自分が話すだけだし、足りない分の言葉は自分のいいように解釈できる。もう十数分もすれば来るであろう男に確認して、いいと言われれば隣で見学させてもらおう。本川は父の隣ににじり寄ってそっとその絵図を眺めた。描かれているのは鶴だった。長生き志向なんやろうかあの人、と何気なく考える。和彫りは時間も面積も大きく使う。さらに言えばその分お金だってひどくかかるわけで、それだけ出すのだからとかなりの思い入れを持ってモチーフを決める人は多い。もっとも、任せきってしまう人もいないわけではないのだが。連日訪れている客のことを思い返しながら、橋本という男はどのような顔だったかと本川は気を巡らせた。訪れた客への接待を、本川はいつも勝手に担当している。
    「……陽太」
    客だ、と扉があく前に父親が視線一つ動かさずに告げる。はあい、と間の抜けた声と同時に玄関へと駆けよれば、気難しそうな顔をした七三わけの男がそこに立っていた。ああこの人か、と本川は一人納得する。そう言えば少し前にこの顔を見た記憶がある。その時も本川は、その眉間の皺ばかり気になっていたのだ。
    「ご無沙汰してます」
    「……お前の親父は」
    「あっちで用意しとります。荷物、預かっていいすか」
    「取り扱いには気をつけろよ」
    何入ってるんすか、という言葉を本川は強引に飲み込んだ。まさしく藪をつついて蛇を出す様なものだからである。慎重にそのアタッシュケースを引き受けて、客用のロッカーに入れる。勿論鍵付きである。何かあったら責任が取れない。しっかりと施錠を確認してから鍵を閉めて、父へとそのカギを預ける。橋本はもう服を脱ぎ始めていた。
    「俺、隣で見とって大丈夫っすか」
    「好きにしろ。俺は知らん」
    「あざっす」
    同じことを言っている、とひそかにおかしく思った。肯定はされていないものの、これで見学を無事許されたことになる。父が仕事をしているところを見るのは好きだった。人間の体に絵が描かれていくという荒唐無稽な光景を眺めているのは面白い。それが美しい絵であればあるほどに、心惹かれるのだ。本川は父親の絵が好きだった。
    「よろしくお願いします」
    そう言って横たわる男の広い背中を見つめる。今からここに、鶴が孵化するのだ。


    当たり前のように自分は父親の跡を継ぐものだと思っていた。そりゃあいい顔はしないかもしれないが、同時に母も父もこの仕事にある種の誇りを見出しているのはわかっていたし、何より自分がそうだったのだ。錦が人の皮膚に植え付けられていく。それはこの世の何よりも神秘的な光景にすら見えていたのだ。絵を描くのも好きだった。いつか、横たわる客の肌に触れるものだと、疑って止まなかった。いくらタトゥーが一般に普及しつつあっても、お世辞にも人聞きのいい仕事ではないことは理解しているつもりで、それでもなお憧れていたのだ。例え、相手にするのが社会の影に住む人々だとしても。
    「お荷物用意するんでちょっと待っとってください」
    待合のソファに男を座らせて、本川はぱたぱたとロッカーへ急ぐ。父からつき返された鍵を使って中へと手を伸ばせば、橋本の視線がこちらへ向けられているのに気が行った。別に雑に扱ったりしませんよ、と苦笑しながらそっとその重みを一身に受ける。まあまあ重い。どうぞ、と口にする前に引き受けられてしまうそれを見送りながら、本川はすんませんと笑った。
    「次のご予約いつにします」
    「いつでもいい」
    「じゃあこの日とか」
    わざと休日を選ぶ。本川が接待できるからだ。あわよくば今日の続きを見せてもらおうという魂胆である。見事に羽ばたく鶴を、本川は完成まで余すところなく見届けたかった。そう、鶴。この男が背中に鶴を背負うのだ。上目でそっとその不機嫌そうな顔を見て考える。父にも橋本にも悪いが、似合わないなぁと思った。この男にはもっと、鶴だなんて弱弱しい鳥ではなく、もっと猛々しい龍だとか、虎だとかのほうが。ふっと意識が遠くへ飛ぶに気づいて慌ててかぶりを振る。考え事に没頭してしまうのは、自分の悪い癖だ。
    「今日と同じ時間でええですか」
    「ああ」
    「じゃあご予約取っときますね」
    改めて日時を読み上げて確認すれば、橋本は鬱陶しそうに頷いてそれでいいと言った。会計は初回に纏めて済ませているから、これで彼がここに残る理由はなくなる。それなのに、橋本はしばらく逡巡するような素振りを見せて、その場に留まっていた。どうしました、と先ほどの自分を棚に上げて尋ねる本川に、橋本は答えようとせず、代わりに別の疑問を口にした。
    「あと何度で終わる」
    「へっ? あー、そっすね。大体十回くらいだから……まあ詰めて入れても今月じゃあ難しいかもです」
    「そうか」
    「急ぎます?」
    「まあ早い方がいいが、無理に入れる必要はねぇ」
    「すんません。早く鶴ができるようにこっちも頑張って予約さばきます」
    「てめえが頑張ったところで仕方ねぇだろ……」
    真顔で呆れたように呟く橋本は何だかひどく可笑しく見えた。ヤクザもツッコんだりするんや、という意外性からかもしれない。必死に笑いを堪える本川に、橋本は小さく舌打ちをする。怒鳴られないだけマシだな、と他人事みたく思った。それと同時に、今の一瞬で多少の親しみを覚えてしまった自分を不思議に思う。何となく、後二言三言交わしてみたいような気がしたのだ。
    「あの」
    「ああ?」
    「なんで、鶴なんすか」
    「好きだからだよ」
    間髪入れずにそう答えられる。想像していたよりもずっと単純で、不可解な言葉だった。好きだから入れる、その背なに鶴を。面食らってしまってぱちくりと瞳を瞬かせながら「はあ」としか言えなくなった本川に、橋本は黙って踵を返す。お前は、と小さな声で呟かれたそれは背中越しでもはっきりと聞こえた。
    「お前は、継がない方がいいぞ」
    「え」
    訳を話すわけでもなく、文脈も何もなく、言いたいことだけ言って去っていく。何を、と問い返しかけてすぐに飲み込んだ。そんなの決まりきっている。しかし意味が解っても、意図がわからなかった。当たり前のように緩く描いていた将来に水を差されたことで本川の胸に飛来したのは、怒りだとか悲しみだとかではなく、当惑と恐怖、それだけだった。


    腹の底にずっと、薄暗い何かがへばりついている。気色が悪いな、と本川は一つ息をついた。自分は元来悩む方ではないのだと思っているだけに不愉快だ。どれだけ個人がぐるぐると物事を考えたところで、世界は決められた方向に流れていく。革命だとか反乱だとかだって、社会に逆行するような形にはなっているが、結局そういう時流だから起こったものでしかないのだ。全てはなるべくしてなるのであって、そこに個人の意思など介在していない。だから、個人がどれだけうだうだと考えたって、結局未来は変わらないのだと思う。思考が必要なのは、その社会をどうやって個人の中に落とし込むかどうかだけだ。
    ――お前は継がない方がいいぞ。
    己の物よりもずっと低い声が耳奥で響いた気がした。これも言われるべくして言われたのだと思う。あの日橋本がこれを口にせずとも、きっと誰かに指摘されていたのだ。無かったことにするべきではない。それはわかる。ただ問題は、どうやって解釈するかなのだ。
    (それでも継ぐのだと意思を固めるのか、それとも)
    継がない方がいいと言うのも曖昧な表現である。向いていないにしたって色々あるだろうに。技術的な問題なら腕を磨けばいい。素質的な問題ならそれを何か別のもので補うか、諦めるか。とにかく細部まで分析しなければ、方針を決められるものも決められないだろう。最も、それを話すような義理も橋本にはないのだろうけれども。八方ふさがりである。こんな状態で悩んでいたって、それこそ時間の無駄でしかない。うあー、と大袈裟に声をあげて背凭れにのけぞれば、あからさまに呆れたように後部席の友人が「なんやねん」と軽く背を押し返した。
    「お前が頭おかしいのは今に始まったことじゃないけどそれでもうざいわ」
    「誰が頭おかしいクソメンヘラや殺すぞ」
    「過激すぎる」
    そこまで言ってへんねん、とぼやきながら彼は立ち上がって本川の机の脇へと立つ。はよ用意せえや。そうガタガタ机を揺らして来るのだから仕方がなく頭じゃなく体を動かすことにした。早坂、今日部活は、と机の中のものをごっそり出しながら尋ねれば、改めて大きく溜息をつかれる。
    「もう引退したんやって」
    「やば。もうそんな時期か」
    「もう俺らも三年やぞ。やばいよな」
    大量の教科書を膝で抱え直しながらロッカーへと運び入れる。ハムスターかよ、と何が言いたいんだかわかるようなわからないようなコメントが小さく聞こえた。手伝ってくれてもええのに、と思いながらも隙間に半ば強引に教科書を詰めていく。終いには入らなくなって、向きを変え雑に突っ込むと、奥の方で何かが歪んだような感覚が伝わった。無かったことにする。それは、次にここを開ける自分が確認することだ。後はもう鞄を確認するだけ、と席に戻れば、自分の机に座って足をぶらつかせていた早坂が、一つ前の机の中身を覗き込んでいた。
    「……何しとん」
    「や、なんか入ってるなって」
    「全部出したはずやけどな」
    「クソザル管理やめぇや……ほら、なんやこれ」
    「紙やな」
    「それはさすがに俺でもわかる」
    雑な手つきで広げられたプリントは、くしゃくしゃになった進路調査表だった。お前これ今日朝配られたやつ、とドン引きしているのを尻目に本川はこうなった経緯を反射的に思い出していた。たまたま朝に配られたそれは余りにもタイムリーで、うんざりした気分を誤魔化すようにして机の中に突っ込んだのだ、多分。流石にこのまま捨てるわけにはいかんよな、と突き返される紙を前に数秒止まってから、仕方なくファイルにいれた。どうしたもんかね、と呟く本川に、お節介な友人は「それ今週末までやぞ」と忠告してくれた。
    「なんて書くん、自分」
    「俺? 俺は普通に……推薦狙えたらええよなぁって感じ」
    「大学か」
    「まあな」
    よいせ、と鞄を肩にかける。お前は、と想像していた通りの続きに、本川は隠すことなく「ちょっと迷ってる」と告げた。早坂はへえ、とどこか意外そうな色を孕ませて相槌を打つ。なんやそれ、と苦笑すれば、少しだけ腹の底にへばりついた何かが軽くなったような気がした。
    「いつも言うてるやん。なるようになるって」
    「それはそうやねんけどな」
    「実際なるやろ、お前なら」
    「なる思うわ、俺も」
    「腹立つなぁ」
    ぱしり、と背中を叩かれて振動が伝わる。それからけたけた笑う声が追い打ちをかけるように聞こえて、本川もつられて笑った。そう、なるようになるのだ。時間が経てば目の前に見えている選択肢は減って、なるようになった結果だけが残る。そうなれば本川は何の後悔も疑問もなく受け入れるのだろう。ただ、ただ今が嫌なだけなのだ。何となく宙ぶらりんな、未確定な未来を自認させられてしまったのが嫌なのだ。言ってしまえば、じたばたしているだけなのである。だからイライラとするのだ。何にもならないと、分かっているから。


    「あ」
    ふっと目が合った。向こうも気づいたのか緩く目を細めてこちらを見てくる。街中で客を見かけても基本はスルーするのだが、しっかり認識されてしまってはさすがに無視するわけにもいかなかった。軽く会釈をして「こんにちは」とはにかむと、彼の眉間の皺はさらに深く刻まれる。ほんまいつも機嫌悪そうやな、と内心呆れつつも調子よく近づく。これも何かの縁だろう。橋本さん、とへらへらしながら近づけば、出汁のようないい匂いが本川の鼻孔を擽った。
    「お勤めご苦労さんです」
    「馬鹿、勤めてねぇよ」
    「あれ、みかじめ料の回収してはるんとちゃうんですか」
    「香具師が全部ヤクザもんの管轄なわけないだろ」
    じゃあマジで普通にたこ焼き買いに来たんすか、と思わず尋ねると無視された。仕方がないので本川もそこで大人しく言葉を引っ込めて、球体が形どられていく様を眺めてみる。滅多に買わないそれの作り方は、本川にとってはかなり新鮮だった。関西人の癖に、とよく言われるのだが単純に蛸の食感が好きではないのである。あのぐにぐにとした感触は、味に関わらず良いものだとは思えなかった。皺の寄った手元がピックを回していく。やってみたいなと、食い入るように眺めていると、兄ちゃんも食べる、と使い古されたであろうことがわかる声帯が音を発した。
    「あ、いや」
    「……もう一パック付けてくれ」
    「うわ、すんません」
    「申し訳ないと思うのならそもそも凝視すんな」
    別にそれは食べたかったからでもないのだが。しかし本川はそれを伝える気にはならなかった。面倒くさかったのだ。自分の様子や言葉がそう取れたのなら、誤解を解くよりもそれに沿った振る舞いをする方が楽だからである。いちいち自分の考えた通りに伝わらないからと言ってごねていては、何も進まない。別に蛸だって食べられないわけではないのだ。好きじゃないだけである。これもいい機会であると開き直って、本川は橋本に「ご馳走になります」と手を合わせた。鬱陶しそうにしているが、なんやかんや面倒見がいいのだろうことはわかる。まあ、かといって真っ当な人間でもないのだろうが。生真面目そうな顔は、一見すると社会人らしく見えなくもない。派手な服を着てひけらかすでもなく、愛想こそないが横柄な振る舞いをするわけでもない彼は、かなりちぐはぐな存在に見えた。
    「はい。二パックで七百円」
    「……」
    「お釣り五百円ね。おおきに」
    ヤクザが小銭払っとる、と本川はどこか感心しながら一つ分のビニールを受け取った。店先のベンチに人一人分ほどのスペースを開けながら腰かけると、腿から伝わる冷気と対照的にその温かさが身に染みる。体が冷える前に食べるべきかと早々に爪楊枝に手を付けた。ソースとマヨネーズのかかったそれは柔らかく、爪楊枝一本で支え切るには少々心許ない。一思いに口に含めば熱さが牙をむき、口元を抑えながら他人事のように、お約束やなと思った。熱を逃がしながら咀嚼する。悪くない。というか美味しい。他の味が濃いので蛸にまで意識がいかないのだ。美味しいっすね、と半ば義務的に隣に語り掛ければ、そうかよ、と投げやりに言葉が返ってきた。冷めた態度もここまでくると面白くなってくる。
    「よく食べるんすか、これ」
    「まあたまにな」
    「たこ焼き食べるんすね、ヤクザも」
    「そもそも厳密に言や俺はヤクザじゃねぇよ」
    「えっそうなんすか」
    「まあ褒められた人間じゃないのは変わんねぇがな」
    相も変わらず澄ました顔でたこ焼きを口に放り込んでいる。熱さとか感じひんのやろか、と思いつつもそれ以上に彼の素性が気になった。しかし詮索したってきっといいことはないのだ。線引きを忘れるべきではない。本川は少しだけ逡巡してから、本命とは違う問いをかけた。
    「じゃあなんで刺青入れるんすか」
    そもそも、本川の父は一般向けの商売はしていない。完全紹介制なのである。だからどこかで必ずろくでもない人間を経由しなければ辿り着けない。お金だって学生の本川からすればあり得ないほどに必要になる。手間もお足もかかるし何より痛みだって伴うのに、なぜヤクザでもないと言う男がそれを入れたがるのか、本川にはいまいちよくわからなかった。父のことを尊敬もしているし、彼らのような客のおかげで本川は学校に行けているのであまり強くは言えないが、刺青はどうにもまともではない証のように思えるのも事実である。だからこそ、その覚悟を背負って入れることを評価されるのだろうが。
    「……てめえの親父は腕がいいんだよ」
    「はあ、まあそれは俺もそう思いますけど」
    他の彫師にいれてもらったそれを本川も見たことがあるが、比べれば比べるほどその差は歴然だった。父はその道でも頭一つ抜けているのだ。描かれた花が、虎が、龍が、人の体の上で生き生きとしている。それは決して技術さえあればいいものではないのだ。
    「上手い刺青は残る」
    「下手でも残るんとちゃいます?」
    「そりゃ生きてる時の話だよ」
    よくできてりゃそこだけ、山に埋めても海に沈めても残る。すっかりたこ焼きを食い終えた橋本が煙草に火をつけていた。その煙全てを掻き消すほどの、心臓の拍動が聞こえる。
    「自分の体が誰ともつかない肉になるのは嫌だろ」
    「……えぇ」
    本川ははっきり言って動揺していた。わかっていなかったのだ。任侠映画のような世界観の中では、たこ焼きを食べていようと、彼らは軽々しく死ぬことがあるのだということを、初めて目の当たりにしていたような気がする。咀嚼していた蛸が妙に喉につかえたような感覚がした。無理やり落とすために絞り出した声は、あまりにも掠れていて情けなかった。
    「し、死ぬんすか」
    「そりゃあ死ぬだろうよ。法律守らねぇ奴は法律に守ってもらえねぇんだから」
    「……ヤクザじゃないんすよね?」
    「日陰もんなのは変わんねぇ」
    よく回ると言われた口が思うように動かなかった。ショックだったのかもしれない。どれだけ達観しているふりをしていたって、自分はただの男子高校生なのだと無理やりわからされた気分だった。煙草の匂いがようやく鼻につき始める。思わず咳き込んでしまえば、橋本はわずかにその瞳を大きくして、つけたばかりの煙草を黙って揉み消した。すんません、と小さな声で呟く。しょぼくれた様子の本川に呆れたのか、彼は大きく溜息をつくと「やっぱり向いてねぇな」とだけ言った。途端に腹の底の何かが沸き立って、現実に戻される。
    「その、向いてないっていうの、もうちょっと詳しくお願いしてもいいっすか」
    「別に詳しくも何もないよ。お前は普通のガキなんだから、わざわざ頭おかしいやつ相手の商売しなくたっていいだろって話だ」
    「それは、そうなんすけど……」
    「法律守ってるやつとつるめ。ヤクザ相手にしてたら社会は守ってくれないぞ」
    外で客見ても話しかけないようにするとこからだ、と言い捨てて橋本は立ち上がる。それからおもむろに本川の頭に手を置くと、どうしていいかわからなくなったのか、粗雑にくしゃりと髪を掴んでからすぐに離した。男子高校生におっさんがするやつとちゃいますよ、と無理におどける。返事はなく、彼は黙ってその場を去っていくばかりだ。本川はその姿を見送ってから、おもむろに己の頭に触れる。その熱が、怖かった。


    耳が重い。金属が刺さっているからだ。二つの穴を繋ぐように位置づけられているそれを、重みを減らすようにして軽く持ち上げれば、指先にひやりとした感覚が伝わる。おおよそ体温と程遠いそれは末端から伝搬されて、緩やかに本川の熱を奪っていくような気すらした。馬鹿馬鹿しい。本川は緩く腹の底から熱をもたげるようにして息を吐く。人間は、そう簡単には冷たくならない。そうで、あってほしい。
    「ピアス、想像以上にごてごてやん」
    「どうせつけるならごてごての方がええやろ」
    「関西人丸出しやなお前」
    早坂が面白がってその手を伸ばす。反射的にその身を躱すと、少しだけ驚いたような顔をしてから「ケチやなぁ」と笑った。別に触られるのが嫌だったわけではない。ただ何となく、他人の存在を感じるのが嫌だっただけだ。相手に合わせてうっさいわとおどける。想像以上に繊細なんだな、と己を笑った。橋本と話してからずっと、どこか調子がおかしい。誤魔化すようにしておもむろに鞄からおにぎりを取り出す。お前もう食べんのか、と早坂は呆れていた。
    「っていうか飯食う前に進路調査票出せや。あれ俺が持っていかなあかんねん」
    「あれ、今日金曜?」
    「せやぞ。五限体育の日」
    「うわっ吐く吐く」
    持久走滅びひんかな、と呟けば早坂が同調するように「ほんまな」と言った。走って楽しいのなんて犬だけで十分だと本川は常々思っている。急いで移動する理由もないのにぐるぐる走り回って何が嬉しいのか、全く以て理解できなかった。マラソン選手なんて生き物は、それこそ何を思って走ることに生涯を捧げているのだろう。あんな命をすり減らすようなことを選んで。一生のうちに成される拍動の数は限りがあるというのに、わざわざ好き好んで心臓を無理に動かす必要性があるのか。
    (……まあ無いやろうな)
    無くても、彼らはそれを選ぶのだろう。それはきっと大きな流れに身を任せた結果なのだ。どうあがいても、必要性が無くても、走るように作られた人がいる。自分は、どうなのだろう。自分はどのように作られているのか。知らないままに、その運命の通り突き動かされていくのか。くしゃくしゃになった進路調査票を机の上に広げて、おにぎりを咀嚼しながら考える。早坂はそれをただ黙って待ってくれていた。
    「進学か、就職か、なぁ」
    「まあそこ決まらんかったら書けんわな」
    「別にこんなん書かんでもなんも変わらんような気もするけど」
    「まあ先生らが把握しときたいんやろ。向いてる方向さえわかれば、フォローもしやすいやん」
    「フォロー要らんから白紙で出したらあかんかな」
    「うだうだ言わんとはよ書け」
    適当でもええからさ、と場を和ませるようにして笑いかけてくる。その中にわずかに心配の色を感じ取って、本川はひどく居心地の悪さを覚えた。不安に思われるのはどうにも性に合わない。昔から要領が良かった分、放っておかれてばかりいたのだ。別にそれを恨めしいとは微塵も思わないし、むしろそちらの方が自分にとっても良かったのだと思う。父母は放任主義で、全てを好きに決めさせてくれた。今いきなり大学に行きたいと言ったって、多分喜ぶことも悲しむこともせずに、黙って色々と手を尽くしてくれるのだろう。そういう愛情のかけ方をしてくれているのだと、本川はよく知っている。
    「……大学かぁ」
    「お、大学をお考えですかセンセイ」
    「いや、今初めてそのチョイスの存在を認識した感じ」
    「やばいなおまえ」
    ええやん大学。お前くらいの頭あったら俺どうするかなぁ、と早坂が嫌に上機嫌になって身を乗り出してくる。そんな偏差値変わらんやろ、と思わず本川がツッコミを入れても、彼はいやいやいやわざとらしく手首を横に振って否定の意を示した。早坂の声を聴きながらおにぎりを食い進める。ようやく到達した具材はタラコだった。美味いな、とピンク色のそれを食みながら思う。いつかは魚になるはずだった何かだ。
    「そら自分は手ぇ抜いた成績やろ? 俺はちゃんと勉強してこれやもん」
    「まあ否定はせんけど」
    「うわっ最悪」
    露骨に顔を顰めたのを見て、本川はごめんごめんと笑った。別に今に始まったことじゃないからええけどな、と呆れられる。それなのに良く付き合ってくれていると、本川はたまにそう他人事みたく思っていた。本当にそんなことを言える立場でも何でもないのだが、真実真面目で面倒見のいいこの男が、なぜ自分のようなちゃらんぽらんで浮ついた性分の人間と付き合っているのか、よくわからなくなるのだ。放っておけばろくなことにならないとでも思われているのだろうか。まあそれならそれでいいのだが。少なくとも、本川は早坂のことをかなり気に入っているし、一緒にいるのはそれなりに心地がいい。彼が見せてくれているのが好意なのだから、変に勘繰ったりせずに付き合うのが道理だろう、とも思う。
    「自分、行くとしたらどういう学部行くん」
    「関心あるとしたらまあ社会学とかに……なんのかな」
    「歴史学は? 自分日本史好きやん」
    「ああいうのって大学で勉強して楽しいもんなん? まあ興味はあるけど」
    「知らん」
    「一蹴するやん」
    唇を尖らせて文句を言えば、早坂は素っ気なく「無い袖は振れん」とさらに一刀両断した。ひどい話である。残りのおにぎりをすべて口に放り込みながらまだもごもごと言う無視して、早坂はおもむろにシャーペンを取り出した。落書きでもする気なのか、とその手元をおにぎりを包んでいたアルミホイルを折りたたみながら見ていると、彼はにやにやとしながら大学の欄に丸をしてそれを持っていこうとする。
    「いや、ちょお待てや!」
    「時間切れや」
    「提出今日中やろ!?」
    「俺はタスクははよ終わらせる主義やねん」
    既に提出されているであろう紙束の上に本川のものを一枚乗せると、そのままスタスタと職員室へ向かって行ってしまった。自分以外の全員がもう出していたのか。周囲の真面目さに当惑しながら、本川は手持ち無沙汰になってしまって、とりあえず手にしていたゴミを捨てに行くことにする。後方の席から黒板横のゴミ箱まで、幾度となくノートを広げているクラスメイトが目についた。差し迫ったテストなどはないはずだし、受験勉強というやつなのだろう。多分そうしていることに迷いはないのだ。そうしたいからそうしている。なんだかそれがひどく羨ましいことに思えた。


    「怒っとる?」
    「この寒さにか? それともクソカス持久走にか?」
    「どっちもちゃう」
    昼間のあれ、進路調査票。そう尋ねる早坂はジャージ一枚だと言うのに平気そうな顔をしていて、どちらかといえばそっちのほうが腹立たしかった。本川は中にカイロを仕込み、手を腰ポケットに突っ込んで、それでもなお首あたりから入り込む冷気に耐えかねていると言うのに。もうこの際しんどくてもいいから早く走りたかった。どうせ走り始めたらそれも嫌になるのだろうが。邪念と冷気を振り払うようにして「いや、怒ってへんけど」と返事をした。寒さで思ったよりも不機嫌そうな声が出て、早坂が呆れたように怒ってるやんと呟いたが、それはもう無視することにした。黙って彼の脇に手を突っ込む。異様に温い。
    「きしょいしこそばい」
    「お前のこの体温のほうが腹立つわ」
    「なんで俺が怒られてんの?」
    「さっき聞いてきた時点で怒られる覚悟しとけや」
    それはそう、と早坂はけたけた笑って本川の手から離れるようにして飛び出した。人で暖を取るな、と人差し指をぴしりと向けてくる姿に、呼応するように「人に指さしちゃいけません」とその指を折り込ませる。なんとも生産性のない会話である。全然先生が来ないことにやきもきしながら、本川はグラウンド端にあるベンチに座る。少しでも体を縮こませたほうが温いはずだ。
    「お前悩んでるみたいやったからさ、勝手に決めてもうて怒ってるかなって」
    隣にしれっと座ってこちらを覗き込んでくる。どうやら本当に気にしているようだった。いやだから、別に。そう本心から告げても、早坂はその微妙な表情を崩さない。少し、焦る。
    「あれだって別に後から変えれるやろ。多少小言は言われるかもせんけど」
    「まあそれはそうやねんけどさ」
    「じゃあええやん」
    「まあお前からしたらそうなんやろうけど」
    あれは、俺のわがままやったなって思って。そう早坂は小さく俯いた。意味がよく分からなくて、ただただ小さな声で「は?」と問い返す。これでは本当に怒っているみたいだ。慌てて大袈裟に手を振りながら「いやお前が仕事はよ終わらせたかったんは別にええけど」とよくわからないことを弁解する。そうとちゃう、と話す彼はひどく真面目な声色だった。
    「俺、お前に大学行ってほしくて」
    「……え?」
    「意味わからんよな。俺も、それはわかるんやけど」
    露骨に眉を下げて、うまく伝わらないもどかしさに呻いている。その姿を見ていると、対称的に本川のほうはひどく落ち着いた気持ちになっていた。ゆっくりでええよ、という言葉をかける余裕すら生まれている。おん、すまん、と前髪をかき上げながら悶えている姿は、ひどく誠実だと思った。正しく伝えようとしてくれている。誤解を解こうとすらしない自分とは正反対だ。そういうところが、好ましいのだ。
    「お節介やし、俺にそんなこと言う権利も何もないよ。無いねんけどさ」
    「うん」
    「俺、お前にもっといろんなもん見てほしい」
    他の生徒の騒ぎ声が嫌に遠くで聞こえた。かなり早めに来たとはいえ、もうすぐ授業が始まるのだろう。こんなところで悠長におしゃべりしている場合ではないのに、いやに腰が重くて立ち上がることすらできそうになかった。自分とは違う、まっすぐな瞳がこちらを見ているから。
    「確かにいつもヘラヘラしてるけど、でもいろんなこと考えてるんやろ。俺知ってるよ。多分誰よりもわかってる。……お前が、話してくれへんくても」
    「ちがう」
    「お前がお父さんの仕事のこと大事に思ってるんもわかる。けど、でも」
    俺はもっと、お前が自分のことわかってもらえる場所にいてほしいねん。ぎゅっと眉を顰めて白い息と共に言葉が吐き出される。悔しいという思いが、口にしなくても明らかに伝わっていた。体の勝手が全く効かなくなる。どんな顔をして、どんな言葉を吐いたらいいのか全く分からなかった。どういったって、多分うまく伝わらない。不誠実すぎて、どれも間違いなのだ。早坂は首に手を当てて、小さく息を吐いていた。感情が昂っていて泣き出しそうにも思える。俺は、その役割にはなられへんから。喘ぐようにして零されたそれすら、否定することが叶わない。
    「だから、同じくらい賢いやつがおるとこに行ってほしい。……お前は、多分そういうところにいるべき人間やで」
    それでダメやったら、そん時は俺が責任取ったるわ、と早坂は無理に笑ってから立ち上がった。寒さでは全く変わっていなかった肌の色が赤くなっている。感情を吐露するのに異様に体力を使ったのだろう。自分は、彼と同じようなことができるだろうか。そういう風に、作られているのだろうか。言い逃げるようにしてそそくさとクラスメイトの元へ寄っていく後ろ姿に、小さく名を呼ぶ。はよせな怒られるぞ、とぶっきらぼうに言う背中に、はっきりと感謝を告げた。



    人間の感情というのは、多分そんなに複雑ではないのだと思う。きっとデフォルトで喜怒哀楽が均衡を保っていて、そこになにか外的な刺激が与えられることで膨らむ。放置しておけば萎む。そうしてその時々に一番大きく膨らんでいる感情が、人間に知覚されるものなのだろう。複雑に感じるとするならきっと、その攻防が忙しなく行われすぎていて、正しく認知できていないのだ。本川のここ数日の怒涛の感情の膨らみはだんだんと萎んできていて、今はただ、目前の男の背への関心に全て持っていかれてしまっている。綺麗だと思った。周りに描かれた花々の花弁一つ一つに色が与えられていく様が。
    「……」
    死んだって残るのだ、この色は。焼かれない限りはずっと、この花は咲いている。この男の背に根を張って、流れ行く血を啜りながら美しさを誇っていく。添え物ですらそう感じるのだ。この鶴が完成した暁には、いよいよ彼は喰われてしまうような気すらした。留めておけるのだろうか。この鶴を、彼は。好きだからだよ、と言った橋本の顔をぼんやりと思い出す。千年生きる美しい鳥を、己の墓標としてこの男は飼いならそうとしている。いつか、死ぬときのために。
    「……橋本さんは」
    口が己の意識を超えて動き始めた感覚がした。父は何も言わない。ただ黙って手を動かして、こちらのことはちらりとも見なかった。いいのだ、と思うことにした。
    「橋本さんは、なんでそんな生き方してんの」
    本川は橋本がどのように生きているかなんてまるで知らない。ヤクザではないくせに刺青を入れて、ヤクザでもないくせに死と隣り合わせになるような生き方をしている。そんな、繋ぎ合わせたって何にもならないようなことしか、知らない。知りたいとも思わない。彼の多くを知って、橋本という男に輪郭を与えてしまうのが怖いのだ。彼を生きている一つの人格として認識するのが、ひどく怖い。父が寡黙な理由が分かったような気がした。話せば話すほど、重くなる。それならば、必要最低限の繋がりだけを結んだほうがいい。実の子供にさえもきっと、そう思ってしまうのだ。橋本はうつ伏せになったまま、一切の身じろぎなく答えた。
    「なんでも何もねぇよ」
    「……うん」
    「こうやって生きるようにしか出来てないんだ」
    「そっか」
    ずずっと椅子を引き摺って、男が横たわる側に寄る。その、呼吸によっておこるわずかな背の蠢きに安堵した。俺も、と脳の表面で行われた思考が絶えず垂れ流されていく。恥ずかしいとも嫌だとも思わなかった。ただ何となく、聞いていてくれたらいいと思った。
    「俺も、そういう風にできてる?」
    「人間みんなそういうもんだろ。どんなろくでもない道を選んだって、SFじゃあるまいし『そうじゃない自分』なんていねぇんだよ」
    どれだけどうしようもなくなったって、それが自分なんだ。そういう風になるようにできてんだよ。煙を吐き出すようにして語られた。選択の連続のように扱われる人生という概念への、真っ向からの批判だ。始めから、進む道は決まっているのだと言う。否、道が決まっていると言うよりかは、行かなかった道は行けない道だった、ということだろう。それは諦めだ。諦めでしかない、優しさだった。どんな将来を歩んだってそれは始めから決まっていたことなのだと、そう思えるような言い訳、だけれど。
    「……そうやね」
    諦めだろうと言い訳だろうと、それの何が悪いのだろうか。大切なのは体外を体内に変換する解釈だ。少なくとも本川はその言葉に、考え方に納得した。救われた。なら、本川の中ではそれは成立しているのだ。それでいい。社会は、個人には決して変えられない。個人も、変われない。そういう風に生まれたという大きな波に、流されるままに進んでいくのだろう。自由が利くのは思考だけだ。与えられた運命を、自分に都合のいいように解釈することだけ。
    「俺はきっと、橋本さん達を相手するようには作られてないんやね」
    「……さあな」
    本当のところはわからない。少し前からの彼の言葉に反発を覚えて、意地でも父の跡を継ぐ世界だって、本当はあったのかもしれない。でもそれはきっと、自分じゃないのだ。だって本川は彼の言葉を気にしてしまった。他の選択肢を見てしまった。選んでほしいと、願ってくれる人がいた。それはきっと、そういうことなのだ。少なくとも本川は、そう感じた。ふうと息をついて瞳を伏せる。別に、将来を一つ決めたところで体は、世界は何も変わらない。やっぱり選択だなんて、本当はしていないのかもしれない。父の手は気づけば中心に居座る鶴に差し掛かっていた。恐ろしいほどに綺麗だった。綺麗な、絵だった。絵はどこへも行けない。羽ばたくことなどできない。
    「陽太」
    ふっとかけられたその声に体が反応して、かたりと椅子を揺らす。名前を呼ばれたのが随分と久しぶりに感じられた。なに、と小さな声で返事をする。
    「やってみるか。色入れ」
    「え」
    彼の跡を継がないと決めたばかりだったから、一瞬意味が解らなかった。継がない子供にそんなことをさせて何にもならない。そう考えて断ろうとする思考が、父の顔を見た瞬間に止まる。父はいつもの顰め面のままで、陽太をじっと見つめていた。安堵だと直感的にわかった。父はやっぱり自分に後を任せることに乗り気ではなかったのだ。なら、これは。
    「……橋本さんが、ええなら」
    「構やしねぇよ」
    即座に返される言葉に、本川はおずおずと立ち上がって父ににじり寄る。既に白いインクに浸された彫り刀が、ずっしりと重かった。手彫りは機械と違ってずっとよく色が残る。それを期待して、この男はここに来たのだ。そういう風に生きることしかできないから。なら、自分もそれに応えてやりたい。父のようにとはいかずとも、少しでもこの男が橋本でしかあり得なかったという証拠を、残してやりたいと思う。
    「……」
    すぅ、と小さく息を吸う音が響いた。そのまま震える腕で彼の背に触れる。ただ適当になぞればいいわけではない。薄い皮膚の隙間にその刀を潜り込ませて、色を定着させる。なんどもなんどもその羽をなぞって、タオルで拭うのだ。そうすることで肌にただ置かれるだけだった白色は、鶴の羽へと変身を遂げる。何度も想像していた自分だ。何度も想像して、それでいて今日諦めた自分だ。何枚も、何枚も植え付けていく。自分じゃない自分を、全てここに捨て置いて行っているような感覚だった。キャンパスやスケッチブックと違って、人の背は動く。その筈が、本川はそこになぜだか死を見ていた。男が土の中で誰のものでもない肉体だけになっている姿を、幻視していた。ツンと鼻の奥が痛くなる。
    「代わるか」
    歪む視界を誤魔化すようにして頭を横に振った。ここでやめるわけにはいかないと思った。彼の生きた証を刻み込まなければいけない。父も橋本も、何も言わずにただこの空間へと変化しているのをいいことに、本川は膨大にも思える時間をそれに費やした。我に返って彫り刀を机へ置いた時、男の背にはまごうことなき鶴が大きく羽を広げていたのを、本川はただただ目に焼き付けていた。


    「……ピアスか」
    「へ? あぁ、そうなんすよ」
    空けたんです、と本川はおどけるように笑った。別に何もおかしなことではないのだが、どんな顔をしていいのかわからなかったのだ。相も変わらず何が入っているのかわからない鞄を返す。彼と話すのはこれが最後なのだと思うと、なんだか変な気分だった。
    「橋本さんの話を聞いて空けたんすよ」
    なんとなく、そんなことを話してみたくなった。ほんの出来心のようなそれは効果覿面だったらしく、いつも父に似た鉄仮面の男が、驚いたような顔をして固まっている。それだけで空けた価値があったものだ、と本川はファーストピアスに軽く触れた。ひんやりとした感触、死の感触。それが橋本の耳にはないことを、ただただ嬉しく思う。
    「俺が死んだとき、誰か見つけてくれるように、目印」
    「誰かもわからなくなるような死に方するんじゃねぇよ」
    「俺もそう思いますわ」
    だから、これは今日から咎めです。その言葉に男は怪訝な顔をした。でもあえて何も言わなかった。それは本川だけがわかっていればいいことだ。言葉は重い。思考は言葉にすることで社会を回す波へと変わるからだ。だから何も言わない。言えない。その意味は、本川の思考の中でのみ存在していればいい。橋本はこれ以上何も続けるつもりがないのだと察したのか、はあと小さく息をついてから踵を返した。背広の下は見えやしない。けれど、その中身を本川はありありと思い描くことができる。
    「橋本さん」
    本川の声掛けに、振り返ることこそないけれど動きは止まった。見えていないだろうに、意味もなく口角をあげた。自分が、笑っていたいと思ったからかもしれない。
    「鶴は、長寿の象徴やねんで!」
    「……知ってるよ」
    「ちゃんと大事にしてくださいよ」
    それ以上に言葉はなかった。閉まる扉の先で、これから彼と言葉を交わすことは多分ないのだろう。外で見かけたところで声をかけることだって、きっとない。俺が描いた鶴、と本川は瞳を閉じる。あれに泥の汚れは似合わない。美しい白色に染め上げられたそれは、美しいままに煙になって空へ飛び立つのがふさわしい。鳥はいつの世でも空を飛ぶものなのだ。


    「あの本川が寮生活かぁ」
    感慨深いなぁとうんうん頷く早坂に、なんやそれと笑う。卒業を間近に控えているだけで、人気の引いた学食で駄弁っていることすら特別に思えるのだから変な話だと思った。
    「しかも一人部屋じゃないんやろ?」
    「そうそう。絶対誰かと同室」
    「やば」
    一人っ子の癖にそんなん耐えられるん、と早坂がミルクティーに口をつけながら尋ねる。何とも言えないところだった。指摘された通り本川は一人っ子で、親も親で静かだからあまり家を五月蠅いと感じたことがない。しかし学生相手ではそうはいかないだろう。多少差はあれど、学生というのは常々喧しいものである。まあとはいえ、それはそれで面白いだろうと踏んだからこそ、わざわざ関西から遠く離れた大学を選んだのだが。なんとかなるんちゃう、と投げやりに答えれば、早坂もおざなりに「まあせやな」とだけ言った。
    「精々生涯の友を頑張って作ることや」
    「最悪ダメでもお前がおるからええよ」
    「……きっしょ」
    「責任取る言うたのはお前やろうが」
    ぺしぺしと叩くような仕草に、早坂は露骨に嫌そうな顔をして反抗する。しばらくの攻防を続けてから、馬鹿馬鹿しくなったのか堰を切ったように笑いだす早坂に、本川は何だか言い表しようのない感情を覚えた。怒ったような素振りをしていたが、本当に自分が彼を頼れば、多分この友人は受け入れてくれるのだろう。本川がどんな人間になっても、どんな人間であっても。それはひどく幸せなことなのだろうと思った。
    「まあお前なら大丈夫やよ。日和んなって!」
    パアンと軽い音があたりに響くくらいの力で背中を叩かれる。何もいない背中。ピアス以外証のない体。それでいいのだ。誰かもわからないような死に方はしない。例え社会の大きな波にのまれて集団の中の一部になったとしても、自分という個を見てくれる人間がいる限りは、本川の肌に鶴も花も必要ないのだ。ひりひりと痛む背をそっと撫ぜて笑う。痛みは既に失せていたのに、熱だけがずっと残っていた。
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    Replies from the creator

    dentyuyade

    DONE性癖交換会で書いたやつ短編のやつです。割とお気に入り。
    星になる、海に還る輝く人工色、眠らない町。人々はただただそこで足音を鳴らす。唾液を飛ばす。下品に笑う。息を、止める。その中で自分はただ、誰かの呼吸を殺して、己の時間が止まるのを待っている。勝手なものだと、誰かが笑ったような気がした。腹の底がむかむかとして、思わず担いでいたそれの腕を、ずるりと落としてしまう。ごめん、と小さく呟いていた。醜いネオンの届かない路地裏の影を、誰かが一等濃くする。月の光を浴びたその瞳が、美しく光る。猫みたいでもあり蛇みたいでもあるその虹彩の中で、自分がただ一人つまらなさそうな顔をしていた。
    「まーた死体処理か趣味悪いな」
    「あー……ないけど、趣味では」
    「いや流石にわかっとるわ」
    「あ、そう?」
    歪む。彼の光の中にいる自分の顔が、強く歪んでいる。不気味だと思った。いつだって彼の中にいる自分はあんまりにも人間なのだ。普通の顔をしているのは、気色が悪い。おかしくあるべきなのだと思う。そうでなければ他人を屠って生きている理屈が通らない。小さく息をついて、目の前のその死体を担ぎなおす。手伝ってやろうか、と何でもないように語る彼に、おねがい、と頼む声は、どうしようもなく甘い。
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    dentyuyade

    DONE息抜きの短編。百合のつもりで書いたNL風味の何か。こういう関係が好きです。
    観覧車「観覧車、乗りませんか」
    「……なんで?」
    一つ下の後輩はさも当然のようにそんなことを提案した。園芸部として水やりに勤しんでいる最中のことだ。さっぱりとした小綺麗な顔を以てして、一瞬尤もらしく聞こえるのだから恐ろしいと思う。そこそこの付き合いがある自分ですらそうなのだから、他の人間ならもっとあっさり流されてしまうのかもしれない。問い返されたことが不服なのか、若干眉をひそめる仕草をしている。理由が必要なの、と尋ねられても、そうだろうとしか言えない。
    「っていうか、俺なのもおかしいやん。友達誘えや」
    「嫌なんですか」
    「いや別にそうでもないけど」
    「じゃあいいでしょう」
    やれやれと言わんばかりにため息をつかれる。それはこちらがすべき態度であってお前がするものではない、と言ってやりたかった。燦燦と日光が照っているのを黒々とした制服が吸収していくのを感じる。ついでに沈黙も集めているらしかった。静まり返った校庭に、鳥のさえずりと、人工的に降り注ぐ雨の音が響き渡る。のどかだ、と他人事みたく思った。少女は話が終わったと言わんばかりに、すでにこちらに興味をなくしてしゃがみこんでは花弁に触れている。春が来て咲いた菜の花は、触れられてくすぐったそうにその身をよじっていた。自分のものよりもずっと小づくりな掌が、黄色の中で白く映えている。
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