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    dentyuyade

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    dentyuyade

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    矢野葵の21の時の話。笠田編から2年前くらいのイメージです。失踪癖のある男の、失踪先でのこと。

    ユーレイにつき太陽に焦がれる矢野葵という人間は二回死んでいる。別にスピリチュアルな話ではなく、有り体に言えば精神の死、というものに複数回見舞われているだけだ。齢二十一にしてそんな目に遭う謂れ何て全くないのだが、かといって怒ったり悲しんだりするほどの気力すらもう持てない。仕方がないだなんて、言いたくはないけれど。自分という存在がこうであるのは、もう諦めるほかないのだと思ってしまうくらいには矢野の人生に光が差さない。否、なまじ光が差すからこそ嫌になるのか。
    「……」
    生まれた大阪の街は雑然としていて、灰色で醜い。かつて智恵子は東京に空が無いと嘆いたそうだが、矢野からすれば東京よりもよっぽど大阪のほうが空が無いと思う。人工物が多いくせに、アーティファクトの美しさが微塵も存在していないのは、やはりここに渦巻く市民性というか人間の執念の影響なのだろうか。そういうところがたまらなく嫌いだ。矢野は目の前で空を大きく遮っているアパートを見上げて一つ溜息をつく。昔住んでいた家。一度目に、自分が死んだ場所。矢野は突発的に来る不愉快な逃避衝動に駆られて、自分の人生を辿ると言う自傷行為染みた試みに出ていた。アパートには当たり前に管理人なんていない。住民でない人間の行動を監視する存在もまたなく、矢野はふらふらと階段を上って五階へと黙って足を進めた。二階までの上昇になれた足はやや悲鳴をあげる。体力がないのはまあ昔からだ。ようやくついたフロアには全く見覚えのない家庭ばかりが並んでいて、そこでようやく矢野は時間の流れを理解する。十年以上経っているのに何も変わっていない方が、よっぽど異常だろう。かつて自分が開いていた扉も、まったく知らない他人の表札がかかっていた。けれど、その隣。その名を目にした途端、腹の底がぐっと冷えて、思わず足が惑う。
    (……まだ、引っ越してなかったのか)
    綾瀬と書かれた名前。幾度となく目にしたことがあるからさすがに覚えている。忘れたくても、忘れられない名前だ。矢野の人生を狂わせた場所は、どうやら矢野と同じく時間に残されて、寸分違わずそこにあるらしかった。ぞくぞくと背が粟立つ感触がする。こうして目の当たりにすると未だに自分はそれを処理できていないのだと、無理やりに理解させられて最悪だった。別に何がしたかったわけじゃない。二度と会いたくはないと思っていたはずだし、もう死んでほしいとすら思わなかったはずだ。とにかく自分のえ知らぬところでどうにかなっていてほしいと、思っていたはずだ。それなのに、ドアノブに手をかけている。ひんやりとした感触が己を諫めるように伝わってくるのに、脳は全く沸き立つように熱かった。殺してやりたい、とそれだけが肉体を占めていく。腕にゆっくりと、力を籠める。
    「……あの」
    その時、幼さの残る高い声が耳を打って、金属の冷たさよりもずっと急速に矢野の脳を冷やした。思わず手を跳ねさせて振り返る矢野の目に、ショートカットの涼し気な少女が映る。不審そうな目で自分のことを見る彼女は、黙っている矢野に向かって威嚇するようにもう一度「あの」と言った。一気に冷静になった頭で、まあそりゃあ怪しいわな、と声がする。
    「お兄さん、誰ですか。その家に何か用ですか。何してるんですか」
    「……あーと」
    そのどれにも答えたくなくて、何と返答したものか思考を巡らす。本当のことなど他人に絶対に話したくないし、かと言ってもっともらしい嘘をついて辻褄を合わせるのも面倒臭い。逡巡の末、口にした言葉はいたってシンプルだった。
    「俺は、昔この家で死んだんだ」
    少女の不審な顔がさらに濃くなるかと思っていたら、意外にもひどく驚いたような顔をして、セーラー服のリボンを揺らす。それって、お兄さん、ユーレイってことですか。動揺に満ちた瞳で矢野の顔を見上げる彼女に、いや信じんのかよ、とはさすがに言わなかった。


    「僕は綾瀬茜です」
    自分のことを僕という少女は、自分をこの家に住んでいた男の子供なのだと言った。要するに、矢野を殺した人間の娘なわけである。それを思うと複雑な感情が湧かないわけではなかったが、同時に純粋無垢にも己を死人だと信じ、持っている鍵を用いて中に招いてくれた事実を思うと、どうにもできなかった。鞄にはここからはずっと離れた場所に位置する中学校の名前が印字されている。
    「ユーレイさん、お茶飲みます?」
    「……はあ」
    「ティーパックくらいならあると思うんですけど」
    鞄をリビングだった空間のソファに置いて、いそいそとキッチンへ引っ込んでいく。がさがさと戸棚を漁っている姿を見かねて後ろからついていくと、思ったよりもそこの勝手を覚えていた自分に驚いた。黙って彼女の背中越しに手を伸ばして、シンク上の戸棚から紅茶メーカーの名前が書かれた袋を取り出す。
    「ユーレイさん、ここに来たことあるんですか?」
    「……まあ、うん」
    「よかったぁ。僕、三歳くらい以来なので。勝手とかわかんなくて」
    「ああそう」
    よくしゃべる娘だ。そう若干辟易しながら、その場にあったやかんの中身を確認する。ティーポットだのなんだの高尚なものを探すのも面倒臭いからだ。所詮はガキ二人である。雑に淹れても味なんかわかりはしないだろう。軽く洗ってから水を注いで火にかける。黙ってコンロの前に立つ矢野に、綾瀬はきらきらとした瞳で「なんかワクワクしますね」という。全くしないけど、と一蹴すると「ユーレイだからか冷たいなぁ」とよくわからない不満を述べた。
    「お茶くらい沸かすだろ、頻繁に」
    「まあ、それはそうですけど。紅茶なんて滅多に飲まないじゃないですか」
    「それは家庭によりけりかな」
    矢野の住んでいた下宿先の男はちょくちょく紅茶を沸かしていた。麦茶を常駐させておきながら、こまごまと緑茶やら紅茶やら珈琲やらを、その日の気分で淹れていたのだ。マメだと思う。矢野はその手間を天秤にかけるまでもなく面倒くさいから、絶対に茶は沸かさない。何なら水でいいと思っている。いや、いた。仏頂面だったりご機嫌だったりするあの顔が思い浮かんで、少しだけ複雑な気分になる。黙ってあの場所を出てきて、そのままだ。
    「……お父さんは?」
    「へ?」
    「君のお父さんは紅茶を淹れる人だろ」
    この家に眠る記憶の中ではいつも、自分は紅茶を飲んでいた。それもティーポットから。洋菓子も付属して出されるそれを、喜んで貰っていたような気がする。あの頃の行動は善意からだったのか、それともすでに下心だったのか。そんなことを思い出しているだなんて露程も知らず、少女は真面目な顔で「そんなこと知らないですよ」と呟く。
    「父さんのことだなんて、僕はほとんど何も知らないです」
    「そうなの」
    「三歳の時別居して、それから会ってないです」
    会っちゃダメだって、母さんに言われてました。別に傷ついただとかそういう色は一切なく、平然とそんなことを言う。彼女からすれば当たり前のことなのだろう、父親がいないということは。それでも思うところの一つくらいはあることもまた、彼女の微妙な顔から容易に伺えた。この少女もまた、あの男の被害者なのか。何も言えなくなる矢野に対して綾瀬は笑って、別に気にならんですよ、と手をひらひらさせた。タイミングよくお湯が沸く。おぉ、と歓声を上げて覗き込む動作を制止しながら、カップを持ってくるように要求した。大きめのマグカップ二つ。そこにティーパックを放り込んで、お湯を注ぐ。
    「じゃあ今日はお父さんに会いに来たわけじゃないんだ」
    「そうですね。っていうか、あれ」
    「なに」
    「父さんが死んだの、聞いてないんですか」
    「え」
    「あ、ユーレイだから情報来ないのか」
    別にそういう理由ではないが。与えられた情報よりも先にそちらに気が行く。それから数秒して、嗚呼あの男は死んだのかと、安堵のような疑念のような、何とも言えない気持ちになった。先ほど殺そうとしていた癖に、いざそれを言われると別に歓喜だとかは湧いてこないのだから不思議なものだ。なんだか勝手にかけていた梯子を外されたような、ある種の興ざめに近い感触が、矢野の心を占めている。もう、何にもならないのか。憎しみも悲しみも怒りも、そう思うと捨ててしまったことを勿体なく思うような、そんな複雑な感性を色づいていく紅茶に俯瞰的に見ていた。
    「父さんが死んで、それで折角ってわけじゃないけど、一度来てみようかなって」
    「ふーん……。マメだね」
    「まあ否定はしません。ユーレイさんは、父さんのこと……あっ!」
    綾瀬はぱっと口元に手を当てて黙った。それからおずおずと矢野の顔を見上げると、もしかしてこれ、地雷でしたか、とひそひそ声で尋ねる。まあ確かにここで死んだと信じているのなら、そう思っても不自然ではない。実際矢野も話せるほどあの男のことを知っているわけではないし、そうでなくとも語りたいとは思えない。かと言ってそれをドストレートに聞くのはどうなんだ、とやや呆れ気味に綾瀬のことを見ると、「ひゃー! 呪わないでください!」とわたわた頭の上で手を動かしている。動きだけでも喧しい子供である。
    「……紅茶、冷めるけど」
    「あっ、えっ!? はい!」
    「砂糖とフレッシュはそこの引き出しだから」
    そう言って矢野は自分の分のカップを持ってリビングへと戻る。綾瀬の鞄が置かれているのと反対側のソファに座ってカップに口づけると、それを邪魔するかのようにまた情けない声が聞こえた。あの、スプーン、スプーンはどこでしょうか! その声があんまりにも悲痛すぎて若干笑いが漏れる。仕方がないからカップを置いて立ち上がると 「すみませんありました!」と明らかにティースプーンじゃない大きいスプーンを掲げた綾瀬がいて、今度はしっかり笑ってしまった。



    「お父さんは何で死んだの」
    「あー、あんま詳しくは知らないんですけど」
    確か母さんは電話口で事故、って言ってたと思います。綾瀬はマグカップを握り締めながらそう言った。事故、といっても色々あるだろうが、大方そこまでの情報はこの少女には入ってきていないのだろう。この様子だと葬式にも出ていないに違いなかった。母親はきっと、本気で彼女から父親を遠ざけていたに違いない。矢野だって、そうすると思う。
    「……事故」
    「そうです。だから遺書とかも何もなくて、色々困ってるみたいなことを聞きました」
    「まあそうだろうね」
    養育費だとか慰謝料だとか、そういった支払いが死んだ場合どうなるのか矢野もよく知らない。よく知らないが、まあかなりややこしいことにはなるのだろうと思う。けれどもそれは少女が気にするべきことではなく、知るべきことでもない。早くいろいろ片付くといいね、と他人事丸出しで口にすると、同じように実感のない彼女は「そうですね」と適当に言った。
    「この家もそのうち引き払われるんだろうな」
    「だから見に来たの」
    「うーん……まあそうなるんですかね」
    別にこの家そのものにそんなに思い出とかはないんですけど、と周囲をくるりと見回す。三歳の時の記憶だなんて、いくら中学生と言っても残っちゃいないのだろう。ここには彼女の記憶も、記録も少ない。ここに招かれていた矢野は最後まで彼が妻帯者だったことを知らなかったし、それだけ痕跡が少なかったのだ。じゃあ、何を見に来たの。そう尋ねると綾瀬はいよいよ困った顔をして、わかんないです、と言った。
    「父さんのこと、知りたかったのかもしれません」
    「お母さんに、近づくなって言われたんでしょ」
    「そう、ですけど。今はもういないから」
    「いなくても、傷つくことはあるかもよ」
    ぎゅっとスカートを握り締めて何が言いたいんだと言わんばかりに矢野のことを睨みつける。攻撃的な子供とは思えないから、無意識なのだろう。意志の強そうな目、矢野の苦手な顔だ。一つ息をついて代わりに紅茶に口づける。もうすっかり温くなっているそれは、本来の味が損なわれていた。まあ好きにすればいいと思うけど。言い訳じみたその言葉は、一体どういうメカニズムで脳から出力されたのか。
    「傷つくと、思いますか」
    「……知らない」
    「みんなが僕から父さんを遠ざけようとするのは、僕が傷つくから?」
    「……」
    違うよ、とは言えなかった。矢野は黙って何も聞いていないふりをする。何か形にして彼女を苦しめるくらいなら、形にせずに苦しめたほうが記憶に残らないだろうと思ったのだ。少女は泣き出しそうな顔でじっと矢野の顔を見ている。何とか言ってくださいよ。そう呟く声は震えていた。大人として、何か言ってやるべきなのだと思う。それでもあの頃から抜け出せない矢野には、与えられる言葉が一つもないのだ。薄く唇を噛み締めながら、項垂れるようにして俯く。ごめんなさい、と聞き分けの良い台詞は、一等切なく感じられた。
    「別に、君は悪くないだろ」
    「困らせることは、悪いことでしょう」
    「悪いことじゃないよ。……子供なんだから」
    「子供じゃ、ダメなんです」
    物分かりがいい大人になろうとするのは、誰のためなのだろう。自分のためではないのだろうな、と矢野は思った。周囲の大人がそれを言って聞かせているとはさすがに思いたくないが、そうでなくとも色々と見える位置で彼女は生活しているのだろう。それを片親の苦悩と断定してしまうのは、あまりにも軽率で傲慢だろうけれど。
    「ちゃんと子供やらなきゃ、大人にもなれないよ」
    「……どういうことです?」
    「そのまんまの意味」
    「説明になってないですよ」
    ちゃんと大人に甘えて我儘を言う工程を踏んでおかないと、結局大人になってからそのしわ寄せがやってくる。それは希死念慮だったり攻撃性だったりと様々だが、とにかくろくなことにならないのだ。だから子供のうちは子供でいておくべきだと矢野は思う。大人になる必要があるからと言って無理やりに大人にさせられるのは、はっきり言って罪悪だとすら。社会に所属している以上、子供を子供でいさせる努力をする責任を、誰しもが持っているのだ。矢野だって、そう。
    「今日君は父親を求めてきたんだろ」
    「えぇ、いや、まあ……」
    「だったらせめてここでくらい子供らしくしなよ」
    「……子供らしくって?」
    「わがまま言ったりとか、暴れたりとか」
    さすがに暴れたら拙いんじゃないですかね、と少女は当惑する。その顔立ちはまだまだ幼い。顔立ちだけじゃない、言動だってそうだろう。お茶を淹れるだけで喜ぶし、矢野の適当な発言をいちいち真に受けるし、感情の起伏だって素直に表現する。そのくせ自分の意見は飲み込むなんて一丁前な行動、不相応なのである。矢野はふと中学生だったころの自分を思った。子供を、ちゃんとやれていただろうか。
    (……やってたか)
    全てが面倒くさくなって学校にも行っていなかった。親とも兄とも顔を合わせたところで生返事しかしていなかったような覚えがあるし、そもそも部屋以外の記憶が限りなく薄い。それでも我儘を言える相手はいた。ちょうど今の自分くらいの年の、優しい男だった。自分のことを名字で呼び捨てにする彼に、強く当たってばかりだった気がする。それは紛れもない、甘えだった。まあ、学校に無理やり行かせるでもなく放置しておいてくれたのも、今思えば立派な子供扱いなのだろうが。
    「……」
    あの頃の自分に比べたら、目の前の少女はずっと強い。立ち止まってばかりだった矢野と違って、むしろ先へ先へと急ぎすぎているほどに。何か、してやれるだろうか。あの時、彼が自分にしてくれたように。彼の影ばかり追っているのが嫌になってここに来たはずなのに、気づけばまた彼の真似事をしようとしている自分に、矢野は一つ溜息をついた。


    「遺書はなくても、日記とかあったらこう、いいなと思って」
    「日記ねぇ……」
    互いにそれなりに言葉を交わして緊張も解けてきたところで、少女が始めたのは家探しだった。別に人の家を勝手に漁るなとは微塵も思わないが、それはそうとして変なものが出てこないか多少ひやひやとはする。藪をつついて蛇が出たら自分はどうしてやるべきなのだろうか。どんな蛇が出てくるかわからない以上、そのシミュレーションも難しい。父親だった男の部屋であろう一室は、驚くほどきれいに整えられていて取り付く島もなかったから、余計に。
    「まあ日記探すとして、あとなに。写真とか?」
    「写真! あったら見てみたいかも。顔もよく知らないんです」
    「鏡見なよ」
    女の子って父親に似るんだろ、と鏡を指さす矢野はあからさまに父親似である。男は母親に似るんじゃないのか、といつも自分の顔をなぞりながら思っていた。同じ男児でありながら兄はきちんと母親似だったから、なおのこと。女に生まれるべきだったと言われているみたいで嫌だったのだ。それ自体は今思えばくだらない悩みだが、この顔への嫌悪は未だに拭えないあたり、自分は一生この呪いを背負うらしい。大嫌いだった。この顔のせいで、何度も不快な目にあっている。提案しておいてなんだが、正直鏡も苦手だった。彼女は見に行っただろうか、と仕方なしにそちらに軽く目をやると綾瀬はまじまじと自分の姿を眺めている。
    「父さんは、背が高かったのかな」
    「え。あー……まあ確かに大きい人だったかも」
    「じゃあこれはきっと遺伝ですね」
    スタンドミラーににっこり笑っている少女は、確かに手足が長くすらっとしている。矢野は彼女の父親の顔などとっくに捨ててきてしまったが、それでもあの覆いかぶさる体の大きさはよく覚えていた。ぞくりと腹の底が冷えて何かが溜まる感触がする。無意識に己の口元を覆うと、綾瀬は心配げな顔で鏡越しに矢野を見つめていた。
    「どうかしました?」
    その顔が、覚えていないはずの男の姿と一瞬だけ重なった。小さく声が漏れた。うあ、だとか、わあ、だとか言った気がする。それを皮切りに声が出なくなる。身じろぎ一つできない体じゃ、呼吸だってままならない。
    「え、あの、大丈夫ですか」
    少女の影が、男の影が、自分のほうへと伸びてくる。それをひどく不快に思っているくせに、立ち上がりもしない自分の体が嫌で仕方がなかった。これじゃあ、あの時自分の顔をちらちらと見ながら宥める様にして笑った大人たちとさして変わらない。声がする。
    ——葵君は可愛いからねぇ。
    あれだけ憎しんでいた癖に、結局この顔のせいにして全てを諦めているのは他でもない自分自身だ。体の中を通る血液全部が不浄に感じられて吐きそうになる。嫌だったら反抗しなくちゃいけない。反抗しなくては、受け入れたのだと見なされる。当たり前のことだ。反吐が出るほど当たり前で、最低で最悪な世の中の不文律だ。性別どころか人間かどうかすらわからないぐちゃぐちゃな影が、矢野の肩に触れようとする。これは何なのだろう。どういう感情で己に触れているのだろう。崩壊しそうな精神の中、唯一冷たく残った部分が己のことをじっと見ている。
    「ゃ、めろって」
    これは恐怖なのだと、それを押しのける瞬間に気づく。林檎一つ動かせないような微弱な力で与えた拒絶は、一瞬にして矢野に正気を取り戻させた。プリーツスカートが揺れている。やったな、と馬鹿みたいな感想がふっと浮かんでは消えた。綾瀬の顔はへたり込んで俯いている矢野には確認できない。別にどう思われようが構わないが、少女の心に変な傷を残してしまうのは、少し嫌だと思った。それでも、見上げる勇気はない。
    「……ご、ごめんなさい」
    「いや、違う……今のは俺が悪いから」
    「触られるのが嫌な人だっていますよね……! その、ユーレイだったら特に!」
    ちょっとお邪魔しますね、と身を屈めるのにあらかじめ前置きをつけてくれるのは疲弊している矢野に気を使ってのことだろうか。まったく情けない、と軽くため息をつきたくなるのを必死に抑える。変に不安がらせるのも本意ではなかった。少女は完全に矢野と同じ目線になって、それから心配そうな顔で「ほんとに大丈夫ですか」と尋ねる。あの、無理だけはしないでください。辛くなったら寝てもらっても、いやユーレイって寝るか知らないですけど。そんなことを矢継ぎ早に捲し立てるのを、矢野は微妙な顔をして聞いていた。
    「ほんとにいいから、そういうの。あんま気ぃ使われてもその、きついし」
    「でも明らかにやばい挙動でしたよ……? やですよ、成仏しないでくださぁい」
    「いや成仏は喜べよ」
    「やだやだ、一人でここにいたら頭おかしくなっちゃいます」
    今にも泣きだしそうな顔できゃんきゃんと駄々をこねる姿に、矢野は微妙に新鮮な気持ちになる。年上だろうと年下だろうと、大抵は矢野に対して何かするばかり、甘やかすばかりで、こうして年上としてのロールを求められることはなかったからだ。そんなことを思ったところで、別に何をしてやれるわけでもないけれど。ゆっくりと手先に血が巡っていくのを感じる。胡坐を組みなおすと、なんだか途端にすさまじい安堵に襲われて、気が抜けた。
    「いや別に。せんし、成仏」
    「で、できないんですか!?」
    「してほしいのかしてほしくないのかどっちなんだよ」
    「今はやですけど、ずっとこの世に縛り付けられてるのは可哀そうだなぁと」
    「それは……まあ」
    後ろ手をついてぼんやりと天井を見上げてみる。死んでもなおこうして地上に縛り付けられるのは、どれほどの苦痛を伴うのだろうか。生きている以上は常に終わりが付きまとうけれども、死後にはそれすらないわけで。それならいっそ地獄に落としてくれ、と多分己のような人間は思うのだろうな。そんなことを考えて、静かに首を横に振った。仮に存在していたとしても、幽霊だなんて未練や執着を残した人間がなるものだろう。矢野にはその適正がそもそもないのだ。だから幽霊にはなれないし、成仏もできない。
    「あ、じゃあこうしましょう!」
    綾瀬から目を離して数秒後、脈絡なく手を打った音が響いた。なんだ、と視線を引き下げると自信満々に少女は胸元で手を重ね合わせて言う。
    「僕の用事が終わったら、今度は僕がユーレイさんの成仏を手伝います」
    「えぇ……」
    「何嫌そうな顔してるんですか」
    ちゃんとこなしますから、任せてください。そう言って少女はリボンが揺れる胸元をとんと叩く。何をそんなに嬉しそうにすることがあるのか。というか本気で自分が幽霊だと信じているのか。いろいろと言いたいことが浮かんでは消えて、結局一つも残らなかった。面倒くさかったのだ。一から誤解を解くには説明する量が多すぎるから。
    「……まあ、好きにしたら」
    「そうと決まったらさっさと僕の目的果たさないと、ですね!」
    ちょっと実家の犬に似てるんだよな、とひそかに思う。重ねるならあの男じゃなくてそちらのほうなのかもしれない。跳ねるように立ち上がってまた机に張り付きだす少女に変な気持ちになりながら、矢野もまた立ち上がる。ふっと鏡に映る自分と目が合って、ごまかし半分に改めて口角を上げてみた。父に似た面影が己を笑んで見守っている。


    「……やっぱりないのかなぁ」
    明らかに落胆を滲ませた声は、静かに床に落とされて消える。驚くほどに何も残ってはいなかった。否、物そのものはいくらでもそこにあるのだが。その男の痕跡ばかりは残されているのだが。
    「もうすぐ日も暮れるし、今日は出直したら」
    「……今日逃したら、もう多分ここには来ないです」
    しょんぼりとした様子で手にしていた本を一つ、また棚へと戻す。直筆のメモだとかそんなものばかり見つかって、肝心の写真も日記も影すら見当たらない。物語のように都合よく開いた本に思い出の写真なんかは挟まれていないのだな、と矢野は少し残念に思った。あんまりにも、可哀そうだったからだ。
    「でもこれだけ探しても無いのなら、きっとダメなんでしょうね」
    「……まあ、ここだけに全部集まってるとも限らないけど」
    「ここにないなら、僕には見つけられません」
    それなら、無いのと同じでしょう。疲れたように息をついて、それでも瞳に矢野の顔を映した瞬間、ぱっと笑って見せた。まあ仕方がないですよ、と健気にも口にする姿は、あんまりにも望ましくないものだ。仕方がないのだろうけれど、どうしようもないのだろうけれど。
    (……子供、なんだから)
    辛ければ辛いといえばいい。悲しければ泣いたらいい。どうしてそんな簡単なことが子供のくせにできないのだ。我慢なんて覚えるよりも先にもっとやるべきことがあるだろう。いらいらとする。それは綾瀬に対する苛立ちなのか、彼女をそうした周囲に対する苛立ちなのか、……それとも自分に対する苛立ちなのか、矢野はもう判断がつかなかった。
    「……何か思うところがあるのなら、ちゃんと言ったら」
    「何か、って」
    「あるだろなんか、もっと。お父さんのことがわからなくて悲しいとか、何も教えてくれない俺や母親がムカつくとか。……なに、なに自分残して死んでんだよ、とかさあ」
    口にしていて矢野はなんだか途端に泣きたくなってしまった。理不尽でも何でもない、当たり前の感情じゃないか、そんなのは。それなのにずっと、ただ黙って諾々と飲み込んで。そんなことをしていたら、納得したと思われるのに。ちゃんと何か感じているのなら口にしなくてはいけない。感じているのなら。……いや、感じているのだから。少女はあからさまに顔を歪めて、それからひどく悲しそうな顔をしながら「ユーレイさんはどうして、僕にそんなに優しくしてくれるの」と聞いた。
    「……俺は大人だから」
    「理由になってないです」
    「なってるよ」
    大人は子供のことを見てあげるものだろ。ちゃんと話を聞いて、助けてやるべきだろ。そんな説教じみた文言を自分が口にしているだなんて、随分滑稽だと思った。間違っても大人のなりそこないが言っていいことじゃない。こんなのは自分の言葉じゃない。じゃあ今話しているのは誰なのか。因縁の場所だからかずっと、自分の根底が揺らいでいる感覚がする。これじゃあ本当に実体がない幽霊みたいだ。綾瀬はそんな矢野をただじっと試すように見つめて、それからふっと自嘲するように笑った。
    「それじゃあ僕の父さんは大人失格だ」
    「……そう思ったっていいと思う」
    「あはは、なにそれ」
    人の父親になんてこと言うんですか。そう綾瀬は言ってから、ただ小さく唇を嚙み締めた。我儘、聞いてくれますか。あんまりにも自信なさげなその頼みは、それでいて悲痛で必死だった。静かに首を縦に振る。すっと沈黙が引かれて、彼女が言葉を用意するのに時間がかかっているのだとわかった。
    「……あなたが、父さんのこと話したくないのは知ってます。でも、一つだけ。一つだけ教えてください」
    「うん」
    「父さんは……父さんは僕のこと、大事じゃなかった?」
    一枚だって出てこない家族写真、仕事のことばかりの書付。日記がなくたって、ここまで家族のことを連想させない部屋は彼女にどんな印象をもたらしたのだろう。この部屋だけじゃない。一度だって顔も見れず必死に隠されてきたその存在は、少女にとってどれだけの自己否定になり得たのか、矢野にはわからない。わからないけれど。
    「大事だったよ、絶対」
    嘘でもそういってやるべきだと思った。これから先ずっと、もうどこにもいない影に苦しめられ続けるというのなら、今ここで偽りであっても認めようと思った。認めて、やりたかった。矢野は彼女の父親から一度たりとも娘の話をされたことはない。家の事情だなんて知る由もないけれど、離縁の理由だって自分がされたことを鑑みれば、まあなんとなくは想像もつく。小学生にも満たない子供を守るためには引き剝がす必要だって絶対にあると思う。それでも、そんな男でも、綾瀬にとってはたった一人の父親なのだ。矢野が殺してやりたいと思った男に罪はあっても、父を思う子供に罪は一つだってないのだ。それならせめて、夢くらいは見てほしい。
    「元気に成長してほしいって思ってたよ、あの人だって」
    だから、大丈夫だから。帰ってお母さんともう一度話してみなよ。そう矢野は小さく震える肩に向かって語り掛けた。一回思ってることを全部、父親という存在に対するコンプレックスも、寂しさも、ぶちまけるべき相手はきっとそこだと思った。きっと強く優しい人なのだろうと勝手に想像する。こんなしっかりした子供に育てられるくらいなのだから、多分大丈夫だ。あとは彼女が甘えるだけ。必死に泣くのを堪えているのを察して、矢野は部屋を出ていかんとする。ちょっとお茶入れてくるから。その言葉に返事はなかった。


    「……美味しいです」
    「さっきと味同じだけどね」
    「……」
    不貞腐れたように押し黙る綾瀬がこちらのリビングスペースに戻ってきたのは、ついさっきだった。本当は持って行ってやろうかと思っていたのに、赤く腫れた目元を携えて自分からやってきたのだ。喉乾きました、とやや崩れた声で話していたのは大方脱水症状からだろう。黙ってストレートティーを飲む矢野を、綾瀬は戸惑いがちに上目で見ると、ゆっくりと口を開いた。
    「今日のところは、もう諦めようかと思います」
    「そっか」
    「家に帰って母と話して……それからまた、必要ならここに来る許可を貰おうかなと」
    「それがいいよ」
    中学生は日が暮れる前に帰らなきゃ、と矢野が笑うと、綾瀬は「わかってますよ」と唇を尖らせて、それからふっとベランダのほうへと瞳を流した。日が燦然と輝いている。赤い光が硝子を通って、この部屋の床にまで差し込んでいる。赤い色は唯一届く色だ。初めはいくつもあったはずの色彩は、ずっと長い距離を経てただ一色へと戻る。ぱっと目を輝かせてがらがらと室外へ足を踏み入れんとする少女の挙動は、あまりにも素早かった。
    「来てくださいユーレイさん!」
    「はいはい」
    「真っ赤ですよ、真っ赤!」
    ベランダのフェンスに体重を預けて、ビルに隠されている地平線の向こう側を指さす。その指先を追おうとして、矢野は改めてここがそれなりに高い位置に存在していることを認識した。幾重もの建物が連なる町。出来損ないの人工の町。それでも、太陽からは等しく赤く照らされている。自分の感性もまた、日光の前では等しく矮小だということだろうか。ゆっくりと手を伸ばしてみる。手に入れられそうなほどに大きなそれ。昔見た映画を思い出した。
    (……優しい気持ちになる。高いところから街を見ると)
    全く理解できないなと思った。あの主人公はきっと、高いところから社会を見ることで、自分は逸脱しているのだと思いたかったのだ。矢野は、そうは思えない。人間のことを小さく思えば思うほど、己もまたずっとくだらない存在に思えて、嫌になる。早く、解放されたいと思う。大嫌いな人間に執着し続けることをただただ、虚しく思う。
    「ねえ、ユーレイさん」
    少女の声が、壁のないベランダで嫌にはっきりと響いた。
    「僕のこと、殺してもいいですよ」
    「……は?」
    ゆっくりと綾瀬の首がもたげられて、矢野の顔を見つめる。到底口にしていることとは釣り合わぬ、柔い微笑みだった。意味が解らなくなって、小さな声で「なんで」と尋ねる。
    「ユーレイさんを殺したのは、僕の父さんなんでしょう」
    「……え」
    「僕にだって、そのくらいわかります。父さんはあなたをたくさん苦しめたんでしょう。でも、父さんは勝手に死んじゃったから」
    「……そんな」
    「だから、僕を殺せばいい。あの人の……あの人の、娘の僕を」
    そうすれば成仏できるかもしれません。そう言って綾瀬は小さく笑って、矢野の手をそっと取り己の首元へと近づけた。その震えを直に感じる。手だけじゃない、声も言葉も、全部揺れていた。どこまでも怖い癖に、それでも目だけは逸らさない。覚悟も意思も、未成熟だけれど確固としたものではあるらしかった。
    「……あおいくん」
    甘ったるい声色が自分の耳を撫ぜる。自分の体を押さえつけて、服を巻くる手。直に腹に触れる手の生温さ。ゴムで締められたズボンのウエスト部分に触れられたときの絶望。全部全部忘れられなかった。何度だって夢に見る。全て、この娘の父親が自分にしたことだ。この顔のせいじゃない。一つだって自分は悪くない。脳内でこだましている己の容貌を褒めるように揶揄するその声に反発するみたく、その思いは強くなっていく。全て、あの男が悪いのだ。
    「……目、閉じて」
    「……」
    言われた通り従順に動く。多分本当にこのまま手に力を入れたら。それはここに来た時にしようとしていたことそのままだ。ただ、相手が娘に変わっただけ。ぎゅっと顰められていて、それでもなお反抗一つしない体をじっと見降ろす。背の高い、あの男に似ているのかもしれない姿、顔立ち。そこにじっと綾瀬が触れていないほうの手を近づける。指にゆっくりと、力を籠める。
    「……うぇ!? 痛っ!」
    少女が目を白黒させてよろける。ぱちぱちと何が起こったのかわからないと言わんばかりに瞬く姿を、矢野は鼻で笑った。
    「いや、さすがに殺すわけないだろ」
    「ちょ、ちょっと待ってください何が起こって、あっ眩し!」
    「喧しいなぁ」
    矢野は自分の前髪をかき上げると、人差し指でとんとんと額をたたくジェスチャーをした。デコピン。そう笑ってやると綾瀬は露骨に安堵した顔を浮かべて「び、びっくりしたぁ」とその場にへたり込んだ。そんなにビビるんなら、変なこと言うなよ。そう呆れ半分、本気の注意半分に口にすると、少女はバツの悪そうな顔で「ごめんなさい」と項垂れた。
    「でも、本当にユーレイさんが望むなら……それも受け入れようと思ったんです」
    「デコピンでビビってたのに?」
    「そっ! それはそうですけど!」
    「……馬鹿だなぁ」
    いらないよ、そんなの。矢野は笑った。本気で可笑しいと思った。それだけだった。綾瀬は一瞬狐につままれたような顔をしてから、顔を赤くして「笑わないでくださいよ」と怒る。もう、と立ち上がってスカートのプリーツを直す少女に、強く日が当たっている。茜と言っただろうか。ぴったりの名前だな、となんとなしに思う。
    「ほら、それ直してお茶片したらもう帰りなよ」
    「……ユーレイさんはどうするんです?」
    「俺も帰る。……元居た場所に」
    「じょ、成仏ですか」
    「ちゃうわ。関東だから、今の俺の家」
    そう言って矢野は己の下宿先のことを思う。俺の家、だなんてずいぶん大きく出たものだと思った。黙って出てきた癖に、どの口が。そう思いながらも、多分まあ帰れば受け入れてくれるのだと直感的に感じていた。甘えている。我儘を言ってばかりだ。
    「そっか、よかった」
    「っていうか俺、別に幽霊じゃないし」
    「えっ!?」
    「こんな手足がはっきりした幽霊がいるかよ」
    まあ幽霊みたいなものだとは思うが。きゃんきゃんと怒る少女を尻目に、矢野は太陽に背を向ける。自分は幽霊にすらなれない。誰か一人のことだって呪えない。人間にも幽霊にもなれない出来損ないが、矢野葵という人間だった。死んでいる。死んでいるくせに、どうしたって生きている。いつか、何かになれるだろうか。そんなことをふっと思って、すぐにかき消す。未来への展望だなんて、抱けるような人間じゃないのだ。
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    Replies from the creator

    dentyuyade

    DONE性癖交換会で書いたやつ短編のやつです。割とお気に入り。
    星になる、海に還る輝く人工色、眠らない町。人々はただただそこで足音を鳴らす。唾液を飛ばす。下品に笑う。息を、止める。その中で自分はただ、誰かの呼吸を殺して、己の時間が止まるのを待っている。勝手なものだと、誰かが笑ったような気がした。腹の底がむかむかとして、思わず担いでいたそれの腕を、ずるりと落としてしまう。ごめん、と小さく呟いていた。醜いネオンの届かない路地裏の影を、誰かが一等濃くする。月の光を浴びたその瞳が、美しく光る。猫みたいでもあり蛇みたいでもあるその虹彩の中で、自分がただ一人つまらなさそうな顔をしていた。
    「まーた死体処理か趣味悪いな」
    「あー……ないけど、趣味では」
    「いや流石にわかっとるわ」
    「あ、そう?」
    歪む。彼の光の中にいる自分の顔が、強く歪んでいる。不気味だと思った。いつだって彼の中にいる自分はあんまりにも人間なのだ。普通の顔をしているのは、気色が悪い。おかしくあるべきなのだと思う。そうでなければ他人を屠って生きている理屈が通らない。小さく息をついて、目の前のその死体を担ぎなおす。手伝ってやろうか、と何でもないように語る彼に、おねがい、と頼む声は、どうしようもなく甘い。
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    dentyuyade

    DONE息抜きの短編。百合のつもりで書いたNL風味の何か。こういう関係が好きです。
    観覧車「観覧車、乗りませんか」
    「……なんで?」
    一つ下の後輩はさも当然のようにそんなことを提案した。園芸部として水やりに勤しんでいる最中のことだ。さっぱりとした小綺麗な顔を以てして、一瞬尤もらしく聞こえるのだから恐ろしいと思う。そこそこの付き合いがある自分ですらそうなのだから、他の人間ならもっとあっさり流されてしまうのかもしれない。問い返されたことが不服なのか、若干眉をひそめる仕草をしている。理由が必要なの、と尋ねられても、そうだろうとしか言えない。
    「っていうか、俺なのもおかしいやん。友達誘えや」
    「嫌なんですか」
    「いや別にそうでもないけど」
    「じゃあいいでしょう」
    やれやれと言わんばかりにため息をつかれる。それはこちらがすべき態度であってお前がするものではない、と言ってやりたかった。燦燦と日光が照っているのを黒々とした制服が吸収していくのを感じる。ついでに沈黙も集めているらしかった。静まり返った校庭に、鳥のさえずりと、人工的に降り注ぐ雨の音が響き渡る。のどかだ、と他人事みたく思った。少女は話が終わったと言わんばかりに、すでにこちらに興味をなくしてしゃがみこんでは花弁に触れている。春が来て咲いた菜の花は、触れられてくすぐったそうにその身をよじっていた。自分のものよりもずっと小づくりな掌が、黄色の中で白く映えている。
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