忙しいアズールさんと忙しいデュース君仕事が終わった。職場を出た僕は、一度ポケットからスマートフォンを取り出した。連絡先を漁り、目当ての人のアドレスに辿り着く。
……今、連絡したら迷惑だろうか。もう夜とは言え、あの人はワーカホリックなところがある。特に今は繫忙期だと話していた覚えもあって、少し悩んで電話を掛けるのは止めた。
普通の恋人とは、いったい何なのだろう。僕は頭を悩ませていた。何をすれば、どのくらいの頻度で連絡を取り合えばいいのか。初めて付き合ったのが今の恋人なので、どうにも勝手が分からない。
勿論、一日に一度くらいはメッセージのやり取りくらいはしている。しかし甘い言葉を囁くものでもなく、生存確認と言った意味合いが強い。
それは僕が危険な仕事をしているということが一番の理由だが、あちらもあちらで放っておくと無理をし過ぎるからでもある。あの人は「商売になる!」と一度思い立てば、寝食も忘れるほどそれに熱中してしまう。それをどうにかするために、共通の知り合いから「連絡とるようにすればマシになるんじゃね?」「一日一度くらいは確認を取るとよろしいかと」とアドバイスを貰って以来、それから一日も欠かしたことは無い。
ああ、声を聞きたい。そんなことを思う日が来るなんて、予想もしていなかった。すっかり暗くなった帰り道を、僕は一人歩き始めた。
〇〇
玄関の扉を開ける。当たり前だけど、一人暮らしの家には誰もいない……
……はずだった。
ビタンッ!!耳元で物凄い音がした。何か柔らかいものを叩きつけたような音だ。恐る恐る横を見ると、太い触手──蛸足が鉄製の扉に叩きつけられていた。
こんなものを持っている人を、僕はこれまでの人生で一人しか知らない。はあ、ため息を吐いて暗い部屋の向こうを見た。
「……アズール先輩」
「お帰りなさい。ずいぶん遅いお帰りで」
暗闇の中から革靴の音をさせて現れたのは、アズール・アーシェングロット──学園時代からの先輩で、そして──
「おやおや。せっかくの休日を前にして、恋人を放っておくなんて……薄情な人だ」
「先輩、なんで僕の休日を把握してるんですか?」
──僕の恋人である。学園にいた頃はこんな人と付き合うことになるだなんて、夢にも思わなかった。
最初の出会いは散々だった。この人に頼みごとをした僕も僕だけど、もともとこちらの能力を奪うために、この先輩は契約を持ち掛けたのだった。奪われたものを取り返すために、監督生たちとともに対峙して……これまた酷い目に遭った。
そんな事件があった後は不用意に近づかないようにしていたけれど、僕と先輩は卒業後に再び出会ってしまった。
卒業後の先輩は案の定というべきか、レストラン事業やホテル等を擁する経営者となった。当時から一緒にいたリーチ先輩方も一緒だ。
先輩は蛸足の先を僕の顎に添えた。その間にも先輩の本体が近づいてきて、ついにはその鼻先と僕のそれとが触れ合うほどになった。
そしてそのスカイブルーの瞳が子どものように煌めいた。
「それで、何しに来たんです?」
「決まっているでしょう。恋人との甘い時間を過ごしに来たのですよ」
先輩はどうやっているのか、蛸足を何本も出現させていく。変身薬が切れたわけではなさそうで、現に胴体は人間の姿のままだ。もしかしたらそういう魔法なのかもしれない。
この人は今まで相手にしてきた魔法犯罪者なんかよりもずっと、強力な魔法を使う。そしてその魔法は美しい。これが敵だったら、僕でも捕まえることは躊躇ってしまうだろう。
先輩は蛸足で僕の身体をまさぐり始めた。あっ、これは……先輩の瞳をもう一度覗き込めば、その奥には何やら妖しい光が宿っているのが見えた。
明日は休みだけれど、これでは一日無駄になってしまいそうだ。明日は溜まっていた家事を済ませて、積んでいた本を読み、録画していた映画を見ようと思っていたのに……。
非難を込めて先輩を睨むけれど、本人はどこ吹く風と言った調子で蛸足を動かし続けている。背中や腹を中心に触れていたそれらは、どんどん際どい所へと降りていった。
「ちょっと、先輩!!」
「明日の朝、朝食を豪華にします。家事でも何でもやりましょう……その対価を先にください」
「対価じゃなくないですか!?」
毎回毎回、僕のほうが対価を貰わなくてはならないほど先輩は容赦がない。それを朝食ひとつで誤魔化そうとするなんて……僕もすっかり、この人に甘くなってしまったものだ。結局、この人に熱を持った目で見つめられれば、僕が断ることなんてできないのだ。
僕が半ば諦めたことを確認した先輩は、満足げに頷いた。
蛸足はいつの間にか引っ込み、それでも僕はその二本の腕だけでひょいと抱えあげられてしまう。そうして見上げたその顔には疲労がくっきり浮かんでいた。
言葉では何を言っても響くことはなさそうだから、実力行使に出ることにした。身体を捩り、床へと逃れようとする。受け身さえ上手くとれば大丈夫だ。
しかし僕の抵抗も、この人には些細なものだったようで。「おっと」と少し呟いた程度で、またその腕に抱え直されてしまった。
諦めて再びその顔を見る。その顔には失望と、何故だか若干の笑みが含まれていた。
「おや、今日は酷くされたいご気分で?」
「は?何でそうなる……?」
「そうまでして僕の気を引こうとなさってるんでしょう?可愛らしいものだ」
話が通じていない。僕とこの人では頭の出来もずいぶん違うので、僕がこの人の皮肉に気が付けないことも多々ある。けれど今回ばかりは分かる、話がかみ合っていないのだと。というよりも、この人は僕の反応を楽しんでいるのだ。
僕はムッとして反論した。
「違います。あと男に可愛いって言われても嬉しくないんですよ」
「前言撤回です。その言葉は可愛くない」
先輩は口角を上げている。それが何だか悔しくて、僕はその言葉に噛みついた。
「じゃあ、もっと素直で可愛げのある人のところへ行ったほうがいいんじゃないですか?
「貴方ねぇ……」
そう言ってしまってから、僕は自分の失言に気が付いた。
この人は非常にモテる。綺麗な顔に優秀な頭脳、そして外面が良いので、言い寄る女性、いや男性も後は絶たない。これまで僕は、この人を何度も取られそうになってきた。
「そういう方に人魚の番が務まるとでも思っているんですか?」
先輩はそのまま寝室に入り、僕の身体をベッドに降ろした。そして自分もベッドに乗り上げ、僕のことを見下ろす。そしてうっとりとした声で僕に告げた。
「貴方は逞しくなられた……ついこの間まで少年だったというのに」
「一歳しか変わらないのに何を言ってるんですか」
後はもう、苦笑いするしか無かった。ただ僕は、一つだけ抗議をさせてもらうことにした。
「あんまり痕、つけないでくださいよ」
「おや、いつもそんなつもりはないのですが」
「……百歩譲って鬱血痕は良いんですけど、吸盤の痕は目立つので」
「ふふ、善処します」
ああ、これは聞き入れてもらえないな。鬱血は見られても「お熱いなー」程度で流してもらえるけれど、蛸足の吸盤痕を見られたときには大抵の人に絶句されてしまう。
しかしこれも聞き入れてくれる気はなさそうだ。先輩は相変わらずニコニコとしている。
「慈悲の精神に基づく寮を治めていた人とは思えない、横暴さですね」
「それは昔の話です。どうか……」
言いながらその白く長い指で眼鏡を外す。それを見て、思わず喉が鳴った。これは合図だ。
「僕を受け入れて」
〇〇
いつもは子どものように寝起きの良い恋人が、今日は朝寝坊をしている。
そんなことを伝えれば「誰のせいですか」と怒られてしまうだろう。そう、それは紛れもなく僕のせいなのだということに、堪らず笑みが零れた。
「ほら、そろそろ起きなさい」
「ん……」
シーツを引っぺがすと、デュースさんは身動ぎして抵抗した。露わになったその背中には、大小いくつもの怪我が見て取れた。昨夜見た体の他の部分にも、彼は生傷を絶やさない。
デュースさんのユニーク魔法は、本当に彼らしい性質のものだ。僕の目の当たりにしたのは卒業した後だったけれども、その威力と引き換えに彼自身もぼろぼろになってしまうことはよく分かった。
魔法の性質もあるけれど、彼は本当に無茶をする。悪く言えば向こう見ずだ。本人は平気そうな顔をしているが、それを見ている此方の身にもなってほしいと常々思う。蛸には三つの心臓があるが、彼といるとすぐに全てが破れてしまいそうだ。
思い立ち、その背中の傷を指先でスッと撫でてみた。滑らかな肌に残る、痛々しい傷。既に塞がって久しいようだけれどやはり擽ったいようで、そこでデュースさんは飛び起きた。
「何するんです!」
「いえいえ、大したことはしていませんよ。いつまでも寝ている恋人を起こすために、実力行使をさせていただいただけですから」