居酒屋にて 喧噪と煙が充満した居酒屋のカウンターで隣り合って座るだなんて色気のない会合はかれこれ何度目だろう。
そんなことを思いながら宮原は某有名メーカーのロゴ入りジョッキに注がれたハイボールをぐぐっと呷る。
月に一度か二度くらいの頻度で呼び出されては、とりとめのない会話をこなして帰るだけ。それが同性の友人同士であるならばよくあることで済むけれど、これの相手は友人と呼んでいいかもわからない異性の幼なじみだ。
無言でしゅわっと弾ける刺激と独特の苦みを孕んだそれをスポーツドリンクか何かのようにごくごくと胃袋に送りつけて、串に刺さったままの鶏皮を口から迎え入れる。
「……おいし」
思わず声が出た。
それは周囲の仕事帰りらしいサラリーマンの喧噪にかき消されただろうけれど、隣の男には聞こえたらしい。鶏皮が一本持って行かれてしまった。
「あ、本当だ。美味しい」
初めて来た店でもないんだから知っているはずなのに、嬉しそうな言葉は白々しい。なんてことは敢えて指摘するわけでもないけれど。
カウンターの向こう側にある焼き場では、自分たちの注文ではない串がいくつか焼かれていて煙が目に染みた。
ウイスキーには甘い味付けの肉が合う、持論だし異論も認める。
思ってカウンターのすぐ目の前で汗だくで串を焼くマスターに、慣れた調子で特製つくねを頼めば、威勢のいい声が承知と声を上げた。
「おじさん、つくねもう一つ追加でー」
にへらと笑って宮原の注文に乗っかったのは、件の幼なじみ真波山岳である。
そう、宮原は彼と月に一、二度、こうして居酒屋で酒を飲み交わしていた。理由はよくわからない。
二十歳を目前に控えたある日、突然連絡が来たのだ。
初めてお酒飲むときは一緒にしない?
だなんて。
宮原がすでに飲酒を経験している可能性だってあったはずなのに、どうせ委員長、二十歳前に飲酒なんて絶対にしてないでしょ? なんてしたり顔で言われてしまった。
その通りなのだけど。
どうして自分を誘ったのか理由を聞いてものらりくらり、先輩と一緒だと無理矢理飲まされそうだし。どうせだったら楽しんでみたいから。それなら委員長じゃん。
なんて、よくわからない理論で押し切られたのだ。
その上宮原にも、二十歳になってもオレと飲むまで絶対抜け駆け禁止だから。駄目だから。
なんて念押しをするものだから、思わず頷いてしまったのがはじまり。
抜け駆けだなんて言葉を使うような人だったかしらだなんて過去の記憶をさらってみたものの、着信履歴も言動も声も幼なじみのものに違いはなかったし、それほど初めてのお酒にこだわりも持っていなかったので流した。
結果がこの、よくわからない飲み会である。
半月に一度くらいのペースで真波から誘われているのだけれど、その意図はいまだによくわかっていなかった。
百歩譲って一緒に飲むのはいい。
なんだかんだ古い付き合いだし、不快な思いをすることもないので。
いまだ乗り続けられているらしい白い自転車の話を聞けば、一番付き合いの濃かった頃とそう変わっていないことも察せられる。
でも、疑問はつきない。
ちらりと横目で見た真波は、いつにもましてヘラヘラ笑って身体を揺らしていた。
とりとめない近況のような話をこぼしながら、枝豆を口に運び損ねてテーブルに転がしてしまっていたので、さりげなく拾って皮入れへ落としこめば、ありがとうなんてろれつの回らない声が届く。
「……酎ハイ一杯でそんななのに、なんで頻繁に飲みになんて誘うのよ」
汗をかいたグラスの半分も減っていないレモンサワー、それを持て余して塩キャベツを食べている真波を見遣る。
カウンターテーブルに懐くのはやめなさいと言ってもやめないところは昔のままだ。真波が宮原の注意を聞いたことなんてほとんどない。
「えー、だって二十歳になったらお酒飲んでみたいって思ってたし。強くないように見えるかもしれないけど、美味しいって思うし楽しいよ?」
「そうなの?」
意外だった。
「そーだよ、委員長オレのことなにか誤解してない? 自転車ばっかりって自覚はまあ、あるけど、それ以外にも興味津々なごく普通のオトコノコだよ」
「……違和感しかないわよ」
なんだ、オトコノコって。
二十歳すぎてオトコノコって。
たしかに成人過ぎても真波の顔立ちは可愛い部類に入るし、自転車方面のファンからも可愛いと声援を送られているのはしっている。いまだってどこかほわんとした瞳で宮原を見上げる様は、完全にあざとい女子のそれだ。
あざとい。そう、わかっているのに釣られてしまう自分を宮原は自覚している。
でなければ平日の夜に呼び出されて、サラリーマン比率の高い居酒屋にホイホイ出てきたりなんてしない。
頬の赤味を誤魔化すようにジョッキを呷ってどんと置く。
「すみません、角じゃない方のハイボールお願いします」
「……委員長は、お酒強いよね」
「そう? 人と比べたことないからわからないわよ」
答えているうちに焼き場越しに新たなジョッキを手渡されたので、礼を言いつつ受け取って空のジョッキをお返しする。
ついでのようにねぎまを注文して、先ほど頼んでいたつくねを受け取った。
そこそこ常連になりつつあるためか、皿の上には真波の分も一緒に乗せられている。
つやつやと光る甘辛いタレを纏った一口サイズより少し大きめのつくねを箸で割り、黄身をまとわせれば隣の真波があーんと口を大きく開ける。仕方がないのでそのまま放り込んでやれば、熱かったんだろう、真波が身体を跳ねさせた。
慌てたようにレモンサワーを流し込んで一息ついたものの、苦手なアルコールに今度は顔を歪めていて、酔っ払いの言動は不思議だなんて思いつつラミネートされたA4サイズのドリンクメニューを真波に示す。
「ソフトドリンク頼めばいいじゃない」
「えー、でもせっかく来たのに」
「ご飯食べに居酒屋に来る人だっているし、アンタの場合一杯が限界みたいじゃない。万一潰れても私じゃ運べないし、限界に挑戦したいなら信頼出来る男の先輩と一緒のときにしなさいよ」
さすがにここまでガードが緩いと、色々と心配になってしまう。いや、真波がいいなら宮原にどうこう言う権利なんてひとつもないんだけれど。ううん。
自分もふわふわでコリコリなつくねを頬張りつついれば、熱々のねぎまがサーブされる。三本なので遠慮なく真波の取り皿に二本押しつけてやった。
宮原はこういう居酒屋が嫌いじゃない。
喧噪や煙が充満している様は女性向けではないし、店内だってお世辞にも清潔感ばっちりとは言い難いけれど。言い難いからこそ真波としか来られない特別な場所で、嬉しい。
なんて、言葉に出せるわけもないので代わりに熱々のネギを串から直接頂いてしまう。
じゅわりと染み出す甘みを含んだ汁気が美味しくて、思わず相好を崩した。そういえば肉ばかり注文していたけれど焼いた野菜も美味しいんだった。
気づいてメニューに目線を移す。
「それで、飲み物はどうするの?」
「…………ウーロン茶」
聞いて、そのまま注文を通すけれど真波はいまだ憮然とした様子だった。
なにが気に食わないのかわからない宮原は、これ以上かまうのはやめることにする。お互いもう高校生でも委員長でもないので。
それでも、真波から語るのであれば聞く体勢は出来ている。
あの苦しいばかりだった夏の日からそれはなにも変わらないのだろう。
決して自分には触れられない苦みと痛み。
ほんのわずかでもそれを軽減させられるのなら、社会人になったいまだって話を聞く心づもりはある。
なんて、捨てきれない感情をそうするように喉を鳴らしてジョッキを呷った。
真波相手に可愛げはみせない、それはこの二人飲みが常態化する前から決めていることだった。
多分、高校生の頃の一番苦しかった時期にカウンセラーの真似ごとをしていたから、なにか気持ちの整理をしたいのかしらと宮原はこの飲み会に理由付けをしている。
嫌なわけじゃあ、ない。
なんだったら嬉しい。
肩が触れあうような距離でアルコールに若干浸った意識がそんな本音を漏らしてしまう。
幼い頃の初恋を揺り起こされては捨てきれずにいるこの不毛さと、いったりきたりする気持ちとの決別はとても難しくて現実逃避みたいにハイボールをまた一口。
次は日本酒にしてやろうかしらなんて思ってメニューに目線を落とせば、じとっとした目線が宮原を刺していた。
「なによ」
「ハイボールって美味しいの?」
なるほど、興味があるのはジョッキの中身の方か。
少し考えて、まあいいかと真波へ差し出せばなんとも形容しがたい複雑そうな顔がそれを受け取った。
ちょっとは嬉しそうな顔をしなさいよ。
真波が笑顔を浮かべて宮原からなにかを受け取ったのは、レース中の差し入れくらいなものじゃなかろうか。
「……うえっ」
一口含んだ後の言葉がこれである。
タイミングをはかったように渡されたウーロン茶をがぶ飲みしながら、お酒美味しいんじゃなかったのかしら。なんて思った。言わないけど。
思いつつ真波が舐めただけのハイボールを飲み干して、日本酒のおすすめと大根おろしを頼めばなんとも言えないジト目がこちらを向く。
「そんなに飲んで大丈夫なの?」
「意外とアルコールには強いみたいなのよね、私。会社の集まりみたいに酔って身の危険を感じるなんてこともアンタ相手だと皆無だし、問題ないわ」
「――は?」
妙に低い声が聞こえた気がしたけれど、日本酒が届いたので流してしまった。
湯飲みを小さくしたような陶器製のコップと、その下に受け皿いっぱいに注がれた無色透明なお酒を口から迎えれば、果物にも似たフルーティな飲み口で美味しい。
滋賀県にある酒蔵のものらしく、次来たときにもあれば頼もうと心に刻む。
「えっ、委員長、さっきの、さっきのもう一回!」
「なによ、気に入ってなかったように見えたけれど美味しかったの? でももう飲み切っちゃったしジョッキも返しちゃったわよ」
「そっちじゃなくって、会社の飲み会の方」
「ああ、たいしたことじゃないのよ。大勢の人が集まると一人はいる面倒なタイプがいるってだけ。酔ったり隙を見せなきゃ無害だし、みんなで注意もしてるから」
そう伝えたところで真波はなんとも言えない顔をしている。
どうしたものかと思ったところで焼きしいたけと焼きなすをサーブされたので、ありがたく受け取った。
この居酒屋の醤油は自家製だというだし醤油で、焼いたきのこや野菜によく合う。もちろん、いま渡された大根おろしにもだ。
そういえば、宮原の近況というかプライベートなところに真波が興味を示したのは初めてではないだろうか。
気づいたものの感動は薄い。
新入社員だった頃ならまだしもそういう手合いのあしらいも慣れたとは言わないが、流せるようにはなっていた。
むしろ、舌に甘さを残す日本酒を楽しみながら食べる大根おろしの方が重要だとすら思ってしまう。
「というか、さっきっから私ばっかり注文してるけど大丈夫? いつもはもう少し食べてるわよね」
「んー、委員長の頼むやつちょっとずつもらうから大丈夫」
言葉通り、真波はしいたけを一つ持っていって口に運んでしまう。なくなってしまう前にと宮原も一つ頬張れば、じゅわり汁気とともにしいたけの旨味が口いっぱいに広がった。
炭で焼いただけとはいうが、シンプルだからこそだし醤油としいたけそのものの美味しさが引き立っているように思う。なんて、グルメ気取ろうとしたって言えるのは、美味しいか好みでないかの二択くらいなものだけれど。
真波もあっという間にしいたけを咀嚼して呑み込むと、なすに箸を伸ばしていた。ショウガと鰹節を乗せてもぐもぐしているけれど、その目元はとろんと甘く緩んでいて、大分酔っているようにも見えた。
めったに来られない居酒屋満喫とはいっても、胃袋には限度がある。お酒はまだ飲めそうだけど真波の様子からもこのくらいがタイミングだろう。
「これ、食べきったら出ましょう。それとも先に帰る?」
真波の生活パターンは把握していないけれど、朝早くから起き出して自転車に乗る生活は変わっていないだろう。
そう思って真波を見ればものすごく嫌そうな表情を宮原に向けていて驚いた。
不快だとか腹が立ったとかではなく、本当にただ驚いたのだ。
あなたそんな顔出来たのね。
なんて、言葉には出さないでも表情で伝わったのかもしれない。憮然とした顔をしていたので。
思えば真波はいつも笑顔を装備していたように思う。高校生の頃、ひとりでいろんなものを抱えて苦しんでいたときさえ宮原はその笑みに誤魔化された。
笑えるから大丈夫だって、思ってしまった。
そんなわけなかったのに。
でも、なんでかほっともしてしまった。
いまはもう表情を取り繕う必要もないということなんだろう、宮原にはわからない勝負の世界でも思うまま振る舞えるのならそれはいいことだと思うから。
だってそれは一人で抱え込まなくてもよくなったということだ。
そこから流れるように浮かんだ考えを日本酒で流すように、宮原は水かなにかのように器のなかの透明な液体を飲み干す。空になったそこに受け皿の酒を移して、そちらも飲みきってしまえばテーブルの上には空っぽの皿が残るだけ。
「ええええええ」
心底嫌そうな声がこちらに飛んできた。
「なによ」
「……あんまり顔色変わってないけど、大丈夫なの?」
ここで「酔っちゃった」なんて言って、真波にもたれかかったり出来たなら可愛げがあるのかもしれないけれど、残念ながら宮原にはそんな芸当は出来そうもない。
「自己管理は得意だもの。限界までお酒飲むようなみっともない真似はしないわよ」
少なくとも、真波の前でだけは。
告げない本音は椅子から降りることで隠してお勘定を告げれば、奥から女将さんがやってきてレジ前まで来てくれる。
もちろんきっちり割り勘にして店の外へ出れば、やっぱり真波はどこかむくれてみえた。すっかり暗くなった空だけど、飲み屋が乱立している通りはお店の灯りが照らしてくれるので明るい。
赤提灯の下を通って駅のある方向へと向かえば、手首を捕まえられた。
「……なに? 忘れ物?」
「もうちょっと、付き合って欲しい」
「えっ、駄目よ。お酒弱いんだから日を改めるとかした方がいいわ。それか、しっかり準備した上で自宅で飲むとかしたらいいんじゃないかしら」
真波がそこまでお酒好きだったとは意外だ。
アルコールをというか、お酒を飲んで美味しいと思う気持ちは理解出来るので頭ごなしに否定するのも可哀想だけれど、やはりここは心を鬼にしなければ。
「……一応聞くけど、委員長、オレがこうして飲みに誘うのなんでだと思ってる?」
「気兼ねなくお酒が飲みたいからでしょ?」
なにを今更。
変な勘違いも思い上がりもしませんとばかりに胸を張って言えば、なぜか睨まれてしまった。
突っ立って話す自分たちの背後から、ありがとうございましたーという野太い声がして先ほどまでいた居酒屋からして、少ししてサラリーマン風の男性が三人笑いながら出てきた。
さすがにここにずっといたら邪魔になってしまいそうだと真波を見遣れば、同じことを思ったのかもしれない、宮原の手首をつかまえたまま歩きはじめる。
移動すること自体に否やはないので素直にその後をついていきながら、前を歩く一応幼なじみの背中をみつめてみた。
課題を握りしめて追いかけてきたよりも大きくなったように思うのは、恋心が見せる欲目なんだろうか。
高校生の勉強の片手間で自転車をやっていた昔より、しっかりとトレーナーについてもらって身体を作ってるんだろういまの方ががっちりしているのは当然なんだけれど。
宮原の手首をつかまえているてのひらは大きくて指先が余ってしまっているし、その役割を果たせているのか疑問に思えるスポーツタイプの腕時計。
まあ、宮原と会うときも遅刻はしていないので昔の遅刻癖もなりを潜めているんだろう。
どちらにせよ、いまの宮原がどうこう言うものでもない。
その、権利もないのだ。
なんて感傷に浸ってしまったのがよくなかったんだろうか、気づけば利用駅からドンドン離れていくのがわかってさすがに少し焦る。駅から居酒屋までの道は把握しているけれど、この辺りは宮原の生活圏外なので途中で解散されても困るのだが。
気づけば先ほどまでいた飲み屋が連なる通りから遠ざかり、覚えのないビル群の前を横切っている。
「ね、さんがく。どこへ行くつもりよ」
腕にわずかに力を込めて引いても、真波は宮原を離してはくれない。そればかりか歩を進める足にどんどん力が入ってくるような。
明るかった街中からどんどん外れ、知らない交差点をいくつか曲がって外灯がぽつりぽつりと点在するばかりの川沿いの遊歩道へ出てしまえば、本当に現在地すらわからなくなってしまう。
夜色の川面が外灯の光を反射している様を横目に見ながら、どこかぬるい夜風を切るように進む真波の足は止まらない。
「委員長さ、オレがどうして週二くらいのペースで誘ってると思ってる?」
「お酒が飲みたいんでしょう? 自分で言ってたじゃない」
自分の飲みたいように飲むためのお供として、宮原が適任なのだと。
そこに勘違いも思い上がりも存在していません。真波の思わせぶりにときめいて振り回されるのは十代までだ。
そんな気持ちで告げれば返ってくるのはため息ばかり。
「だよねえ、委員長ならそうとるよねえ」
「なによ」
不満気な言葉や声につい尖った声が出てしまう。
それに真波は肩越しに宮原の方を見遣ると、困ったように眉を下げて笑ってみせた。
ごめん委員長。
なんて、学生時代はそんな顔で言わなかった台詞を。
「委員長のことならオレの方がしってるはずなのに、知らない感情に日和って他人任せにするんじゃなかった」
「なんの話よ」
「……オレが臆病風吹かせちゃった話」
呟くような小さな囁きは夜風に乗って宮原の耳に届いた。
思わず身体を後ろに引いてしまったのは、そんな彼を初めてみたから。
しらない。
死んだように笑って虚勢を張るように、そうしなければ立っていられないとでもいうように振る舞う真波は知っていた。
でも、いま立ち止まった宮原を真っ直ぐ見据える真波の顔は、知らない。
まるで獰猛な獣の前に丸腰で立ってしいるような、自分の立ち位置に不安を覚えるくらいには。
夜色を吸って明るい瞳は暗く陰り、けれどどこか楽しげに爛々と光る。
「……さん、がく……?」
「うん、そうやってちゃんとオレのことを意識してね。オレも、誰かの借り物じゃないオレで委員長のことを口説くから」
「っ、く……ど」
「あははっ、ようやく伝わった。ちゃんと自分の気持ちは素直に言わないと駄目だよね。だって、オレが口説きたいの先輩が言うその他大勢の女の子なんかじゃなくて、委員長だけだもん」
なんて、おどけた風に目を細めて笑っているのに、言葉からは痛いくらいの真剣さが伝わってきた。
だからといってすぐに反応出来るわけでもない。
真波が言いたいことは多分きちんと理解出来たはずなのに、身体の方にこうするべきという信号が送られてこない。
「うん、やっぱりちゃんと伝えるべきだってわかった」
猫のように目を細めて真波が笑う。
夜風に髪をなびかせて、いまでも変わらないアホ毛を揺れさせて。
「その辺りを踏まえてなんだけど、いまからオレの部屋に来る?」
「っ、かないわよ!」
思わず反射で返してしまったのは、拒否の声。
だというのに、真波は嬉しそうに笑う。
「うん。そうして」
「え」
「最近気がついたんだけどオレね、一番最初に山頂に着くのがすげー好きなんだけど、委員長の背中を追いかけるのは昔から好きだったみたいなんだ」
誰よりも一番を愛する男が、追いかけるのが嫌いじゃないという。
それは先頭に立っているのが真波じゃない。と、いうこと。
「……矛盾、してるわよ」
「うん、追いついて、追い越すんだ。絶対」
真っ直ぐに射られた。
視線に、言葉に。
皮膚が粟立つ感覚にぞくりと背中が震えて足がすくむ。
真正面から向けられたそれは愛の告白なんてかわいらしいものではなかったのかも知れない。
でも、宮原はその視線から逃げたくない気持ちで真っ向から見返す。足が震えても、みっともなくても、真波の気持ちからは目をそらさず向き合うことをあの夏の終わりから決めていた。
決めていたのに。
「追い越して周回遅れ取り返したら、一緒にゴールしてね」
それまでの狩人みたいな獰猛な空気を霧散させて、ふわり微笑む姿は無害な人のそれなのに。
どうしてか、かくりと足から力が抜けた。
「大丈夫? 酔っちゃった?」
捕まったままの手首で支えられはしたものの、しゃがみ込むような形になった宮原を引っ張り上げて支えてくれた表情は、いつもの穏やかで飄々としたものなのに。
幼い頃からずっと挑まれては断り続けてきた勝負の、その、スタート地点に無理矢理立たされてしまったような。
「酔ってないわよ。知ってるでしょ」
「……うん」
真波の指先が宮原の手首からてのひらへとすべり、きゅっと先端をつかまえられる。
「でも、知らなかったし知らないことの方が多いこともわかった。すごいね委員長、自転車はオレが好きなんだって気持ちだけで成立したのに、委員長が相手だとそうじゃないことなんて知らなかったよ」
「……褒められてるのかしら?」
「もちろん」
そんな気持ちには到底なれないけれど、真波が言うのならそうなんだろう。なんだかんだこの男は嘘を吐かない。
「……」
――そう、思っていたけど。
「さんがく?」
「ん?」
宮原を見下ろす表情は穏やかな笑顔で、彼の言葉遣いはしっかりとしている。
「あ、気づいちゃった?」
「やっぱり、酔ってないわね?」
じとりと見上げれば悪びれない笑顔が宮原を向いている。
でも、たしかにこれまでだって真波はお酒を少し飲んではふにゃふにゃしていたように思う。
「うん、委員長を知らない人の言葉を鵜呑みにしちゃったから反省してる。騙してごめんね、委員長」
一歩宮原から距離を開けて腰を折って頭を下げる姿はとても真摯的にみえる。けれど。
「自転車は自分の力で速くなったはずなのに、そういう大事なところすっかり抜け落ちちゃってたみたい」
「それ、謝ってるけど反省はしてないでしょ?」
「もちろん、諦めるつもりなんてないからね」
顔を上げたその表情は、高校生時代応援に行った自転車レースで彼が坂のてっぺんを目指していたものと、なにも変わらなかった。それが、その視線が、一心に自分へと注がれている。
肉食獣が極上の獲物をみつけたような、爛々と輝く瞳を真っ向から受け止めた宮原の足がふるりと震えた。
「っ――」
それは、恐怖か、歓喜か。
どくどくと早鐘を打つ鼓動の意味なんて自分でもわからないまま、宮原は自分に近づいてくる端正な顔をじっとみつめていた。
外灯に照らされているせいか頬にまつげの影が落ちている。昔は丸みのあった頬はシャープになり、吐き出す呼気からはアルコールのにおいがわずかにした。
そこまで知覚した宮原は、咄嗟に両のてのひらを自身の顔の前へと突き出す。
「っ、なに、しようとしてんのよ!」
もごっという音とともに、指先に湿った生々しい感触がして、背中がぞわりと粟立つ。不快感はない。
あるのは驚きとほんのわずかな羞恥だった。
「えー、委員長オレの目熱っぽくみてくれるから両思いかなって」
「百歩譲ってそうだとしても、こんな形でファーストキス奪われるのなんて冗談じゃないわよっ!」
「えっ、オレもはじめてだけど全然いいよ?」
「そういうとこ! アンタのその、自分の価値観私のそれと全然違うってことを理解してないところはどうかと思うわ!」
ぐいいっと顔を押しやればさして抵抗なく真波は離れた。
本気でなかったか、本気だとしても無理強いをするつもりはないという意思表示か。
「私だってこれでも恋愛にそれなりに夢を見てるのよ、もしさんがくが本気で私のことを好きだとしてもこんな流れで告白とも呼べないような言葉に頷いてそういう関係になるなんてごめんだわ!」
面倒だと思うならそれでいい、それまでってことだから。
正直自分でも冷静でないという自覚はあったので、ひとまずひとりきりでじっくり考える余裕が欲しかった。
なのに。
「じゃあ、聞かせて? オレの部屋もうすぐそこだからそこでゆっくり。委員長がどう口説かれたいのか。そうしたら次のデートでその通り口説くから」
しっかりと宮原をつかんで離さないまま、真波はいかにも人畜無害な笑みで告げた。
「嫌がることは絶対しないし、色々したいのも我慢する。でも、考える時間も冷静になる時間も絶対にあげない」
これが最大級の妥協点だと笑うのは、言い訳しようもないほどの『男の人』だった。
そう理解した宮原だが、簡単に白旗などあげてやるものかと傲然と真波を見上げる。
かくして二人の夜は第二ラウンドへと持ち込まれるのだった。
END