その姿を初めて見かけたのは雲深不知処だった。金凌の座学がどうの、魏無羨がなんだと理由をつけては訪れていたが仙督藍忘機と違って沢蕪君はいつもニコニコと迎え入れてくれた。
「賑やかなのは嫌いでは無いから」
家規に反さない範囲でね、と魏無羨と騒ぎすぎるなと釘を刺されはしたが、雲夢江氏の宗主なのだからそれは当然である。
そもそも魏無羨がからかってこなければ、バカなことをしなければこちらとて特別声を張り上げる必要はないのだ。
現にこうして一人の時には足音一つ立てずに歩いている。
藍先生が教えを説いている声がどこからか聞こえてくる。金凌や同じ年頃の公子達が退屈そうに耳を傾けているのだろう、若かりし己らの時代と重ねて密かに笑みが浮かんだ。
「…まったく」
影からしゃがれた声が聞こえてきた。誰のものかと見れば抹額をつけた老爺で、皺々の顔をさらにぎゅっと寄せながら苛立ちを隠そうともしていない。あまり見かけはしないが「長老」と呼ばれる部類の人間だと記憶している。
目の前を通る際に一歩下がり拱手するとそこで初めてこちらの存在に気がついたらしい、ふんっと鼻をならしてどこかへと去っていった。
「…チッ」
姑蘇藍氏は礼節を重んじるはずだがこれは如何に、横柄な態度に舌を鳴らす。誰かに見咎められるかと思ったが人影はないので構わないだろう、そう思ったのだが。
「あ」
老爺が出てきた場所に沢蕪君が立っていた。舌打ちを聞かれただろうか。焦りに心臓が一拍強く鳴るが沢蕪君はこちらに背を向けたまま動かない。
心なしか肩が落ち、背も丸くなっている気がした。ちょうど屋根の重なり、奥への行き止まりに立っているせいか、薄ぼんやりとした中に空色の衣は浮き上がって異質に見える。沢蕪君らしくない。あの人は常に光の中にまっすぐであったはずなのに。
静けさの中に衣擦れの音すらもしない、風もない。これならば水中の方がやかましいくらいだ。じりじりと胸に焦りが生まれる。ここを立ち去りたい、見てはいけない気がする、なのに沢蕪君から目が離せない
「……っ」
空色の袖が揺れる。静かにあげられた両のかいなはそのまま沢蕪君自身をぎゅっと内側に留めるように抱きしめた。
背を丸く、内に内に何かを閉じ込めるように徐々に丸くなり身をかき抱いている。
――ほぅ
――チリン
息をつく音が聞こえ、同時に己の腰に下がる銀鈴が音を立てた。澄んだ音が耳に届いたのか沢蕪君が驚くでもなくこちらをみる。
「江宗主、いらしていたのか」
常と変わらぬ笑みが薄ら気持ち悪いと思ってしまった。
「…金凌のことで少々」
「座学は始まってしまっているが用事は済んだかな」
両のかいなはするすると解かれていく。
「滞りなく、これにて失礼するところ」
「そう、お気をつけて」
変わらぬ沢蕪君の姿にこちらも何も見なかったと礼節通りの拱手をすると生気のない瞳に背を向けた。
風もないのに銀鈴が鳴った。逃げぬように、無くさないように、こぼれ落ちないように…沢蕪君が抱きとめ内へと閉じ込めたものはなんだったのか。知る由もない。