二度目となる教員採用試験も無事に終わり、あっという間に二月がやってきた。大成が『コンビニ塾』と称して頻繁に利用しているコンビニエンスストア「ハロゲン」のイートインスペースの内装も、節分を過ぎすっかりバレンタインデーを意識させるものに様変わりしている。
「あの、大成先生。ちょっと相談したいことがあるんですけど……」
季節の移ろいを早く感じるようになったのは、ハタチを過ぎた頃からだろうか……そんなことを考えながらまったりと好物であるチョコミントアイスを食べていた大成に、ただ一人の塾生である美奈子がおずおずと口火を切る。
これまで勉強が終わった後にくだらない話をすることはままあったが、彼女がそんなことを言い出すのは初めてのことだった。……しかも、こんな思い詰めたような表情で。
大成は咥えていたプラスチックのスプーンをアイスカップの淵に置き、軽く首を傾げた。
「どうしたの。いつも前向きな君らしくない」
「えっと……」
「オレで解決出来る悩みかは分からないけど。誰かに話すだけで楽になることも、多分あるだろ」
言い淀んでいた美奈子は、その言葉に深く頷く。そして、膝の上に置いた小さな手のひらを、ギュッと握り締めた。
「お、大人の男の人が貰って嬉しいのって、どういうチョコレートでしょうか……!?」
……勇気を振り絞った、にしてはあまりに小さすぎる問題だな、と、大成は思った。
「……何でもいいんじゃない?別に」
「えっ……もう!真面目に答えてください!」
「真面目だよ。好き嫌いやアレルギーなんかはあるかもしれないけど……君から貰うなら、きっとどんなチョコでも嬉しいだろ」
一度は置いたスプーンを再び口に運び、舌の上でアイスを溶かす。
決して茶化した訳ではなく、面倒くさいと思った訳でもなかった。彼女はそういう興味の薄い自分から見ても可愛らしいと思うし、文武両道、才色兼備でおまけに人望もある。そんな彼女から好意を寄せられて、嬉しく思わない男は多分相当稀な存在だろう。
(……少なくとも、オレならそう)
まあ、こんな相談をされる辺り、相手はオレじゃないみたいだけど。
というか、『大人の男の人』とは誰だろう。今はまだ社会的に中途半端な位置にいる大成だが、彼女から見て自分は大人に含まれているらしい。ということは、少なくとも肩書きは関係ないだろう。大学を卒業している年齢、ということか。……バイト先の男?いや、彼女は毎日のように放課後もコンビニ塾に来ているので、アルバイトはしていないはず……そういえば、時折ウェブ版はばたきウォッチャーの記事を書いていると言っていたっけ。その取材の最中に出会った男や、編集部の人間、なんてことも有り得なくはないか。
ここ一年の自分にとって美奈子は一番近くにいる存在だったが、美奈子にとってはそうじゃなかったことに、チクリと胸が痛んだ……ような気がした。
(……ん?もしかして拗ねてるのか、オレは)
仕方がないだろ。この塾が無ければ今も無気力なまま何となくで日々を過ごしていたであろう自分と違って、彼女は多忙な高校生だ。人付き合いも多い。教育実習生としてはばたき学園に赴任していた僅かな間に見た限りでさえ、彼女の周りには多種多様な人間が集まっていた。『はば学の若様』だとか、『花椿ツインズ』だとか……あ、年上の男ってことは、あの若様じゃないんだな。可哀想に。
話半分でぼーっと考え込む大成に気を悪くすることもせず、美奈子は「やっぱりこう、洗練された大人っぽい感じですかね?」と聞いたり「いっそお酒が入ってるやつ……いや、そもそもお酒とか好きなのかな?」と独りごちたりと一生懸命だ。たかがチョコレートひとつにも真剣になれる、これが『恋をしている人間』というものなのだろう。自分には、およそ縁のなかった感情だ。
「……ん?」
その時、ふと、窓ガラス越しに見える向かいの歩道に知った顔を見つける。あの背の高い、特徴的な髪型をした人物は……教育実習の時に世話になった、生物教師じゃなかっただろうか。たしか名前は……御影先生。
どちらかと言えばお堅めの教師が多いはば学で、気さくで明るい雰囲気の彼は生徒にはとても人気があるようだった。大成が目標と慕う大迫先生とは、また違う魅力を持つ教師。比較的歳が近いということもあり、職員室でも、馴染めないでいる自分をよく気にかけてくれていた。
そういえば、彼は隣に座る少女のクラス担任ではなかっただろうか……そう思い出すと同時、何かを感じたのか、彼がこちらに目を向ける。
(…………?)
何となく飄々としたイメージのあった彼の表情は、何故だかとても驚き動揺しているように見えた。それでいて、身体と視線は動かさない。まるで氷漬けにでもなったみたいに、こちらを……いや、美奈子を、凝視している?
(………………あ、もしかして?)
どうしてか、無意識に『彼』を除外して考えてしまっていた。彼が教師という立場だからだろうか。そういう自分も、タマゴとはいえ似たようなものなのに。
「……そのチョコあげる人って、御影先生?」
「えっ!?」
ぽつりと尋ねると、美奈子は途端に頬を真っ赤に染めて狼狽えだした。どうやら当たりらしい。
(なんだろ。面白くないな)
鳩尾の辺りにモヤモヤとしたものが生まれ、自分でも戸惑う。
慌てふためく彼女の頭に手を置いて、宥めるようにポンポンと撫でる。チラ、と横目で確認すると、彼はまだこちらを見ていた。
(……ていうか、なんて顔してんですか)
とてもじゃないが、教師のする顔ではなかった。それは最早、敵に対する目だ。──まるで野生の狼のような。ただの一人の、男としての。
その凍てついた強烈な目に、少しだけ溜飲が下がった気がする。常々自分は大迫のような『いい教師』になるには性格が悪すぎるとは思っていたが、性格だけじゃなく、どうやら趣味も悪かったようだ。
「……ま、頑張りなよ」
「?ありがとうございます」
彼の視線を感じながら、不思議そうにしている美奈子の髪を撫で続ける。
その無邪気な表情にまた胸が軋んだ音を立てた気がしたが、大成は聞かなかったことにしよう、とそのまま蓋をした。
***
……こんなことなら、早く帰って明日の授業の準備でもするんだった。
休日を利用して生活必需品の買い出しを済ませた後、そういえば理科準備室の備品──主に休憩中にハーブティーと一緒につまむ菓子──が切れていたな、と思い出した御影は、久しぶりに訪れた気に入りの菓子店を出て、早々に後悔していた。というのも、通りを挟んで向かいにあるコンビニの店内に、男と一緒にいる教え子の姿を見つけてしまったからだ。……いつもなら茶菓子くらいなら自分で作るのだが、今日は時間の余裕も無いし出来合いのものにしよう、と妥協してしまったのが悪かったのだろうか。
普段の見慣れた制服姿でもなく、御影と二人で出掛ける時のような大人っぽい服装でもないどちらかと言うとフェミニンな装いではあったが、間違いなくあれは美奈子だ。毎日のようにクラスで顔を見ている『真面目ちゃん』を、御影が見間違える訳がない。
しかし、その隣にいるのは……、
(……確か、大成?)
そうだ。大成 功。一年半前、美奈子がまだ一年生の時にはばたき学園に教育実習に来ていた大学生。あの後、残念ながら教師にはなれなかったと中等部の大迫先生から聞いたはずだが、そんな彼が何故、美奈子と一緒にいるのだろう?
彼の実習中は、そこまで突出して仲が良かったという印象はなかった。けれど、今少し離れたところでガラス越しに肩を並べて座っている二人は、とても親密な関係に見える。……どう見ても、お似合いの恋人同士だ。
「──」
何やら真剣な表情をしている美奈子の耳に、内緒話をするように大成が顔を寄せる。すると、彼女はボッと火が出そうな勢いで頬を染め。彼はそんな初心な反応を返す美奈子の頭に、軽く手を乗せて──、
(………………)
──見たくない、と反射的に思ったのは、決して生徒のプライベートを覗き見してしまった罪悪感や気恥しさからではない。
かつては御影と同じ『教師』を志していた男が、いくらその道を行かなかったからと言って彼女のようなまだ大人が庇護すべき未成年とそんな関係になっていいのかという、倫理的な疑念……いや、それはただの建前で。──これは、羨望だ。自分がどれだけ欲しいと思っても絶対に手を伸ばしてはいけないその領域に、なんの枷もなく軽々と飛び込んでいける権利を得た一人の男への紛うことなき強い羨望と、そして。
(ははっ……なんか惨めだなぁ、俺)
自分は少しでも好意を向けられそうになる度のらりくらりと逃げているくせに、他の男への嫉妬だけは一人前か。
いつも真面目に頑張っている彼女へのちょっとしたご褒美にしよう、と浮かれて買った菓子の包みを持つ手が、震える。
胸の内が黒いものに焼かれ、このままだと爛れて腐り落ちていくと分かっているのに。けれど、足も視線も縫い止められたかのように動かせなかった。
***