この世には男女の他にα、β、Ωの三つの性別がある。
βは世界人口の八割近くを占める一般人型、αは優れた才能を持つ者が多く、Ωは男女問わず妊孕性が高い。Ωは数か月に一度ヒートと呼ばれる状態になり、αに繁殖本能を刺激する特別なフェロモンを放出する。ヒート時にαがΩのうなじを噛むことで、番という特別な関係が成立し、αは番のΩのフェロモンしか感知しなくなるらしい。
また、αΩにはそれぞれ運命の番と言われる特別惹かれ合う相手がいる場合があり、一度出会うとそれまで別の人間と築いた愛も絆も全て捨ててでも運命の相手を求めてしまう、とすら言われていて、愛だロマンだに弱い人々と、それに付け込んで金を得たいメディアはこぞって運命を崇拝している。
燐音はその運命の輪から外れた人間だった。そして、運命を心の底から妬んでいた。
平日午後四時の駅構内は、サラリーマンより若者や老人の姿が目立つ。
柱に体を預けてドリンク片手に談笑する男女、同じユニフォームを着て小突きあいながら横並びに歩く学生、会話を楽しみながらゆっくりと歩く老夫婦、ヘッドホンをつけ早足で改札に向かう青年。
皆それぞれの速度で通過していくなか、燐音は喧噪のすき間から聞こえる構内アナウンスに耳をかたむけつつ、大勢に追い越されながらゆらりと力のない足取りで改札を通り抜けた。
一日の仕事が全て終わった。いつもの燐音なら夜までの自由時間を利用しスロットでも打ちにいくが、今日はもう、早く帰りたかった。
アナウンスによると、燐音が乗る電車はトラブルの為二つ前の駅で停車しており、この駅には定刻より大幅に遅れての到着になるようだ。トラブル、と濁されるとき考えられる理由は大体二つのうちどちらかだ。人身事故か、電車内でΩのヒートが生じたか。
胸の内の黒いモヤが喉元にこみあげてきて、燐音は重い息を吐いた。
今日の仕事は、本当に疲れたのだ。
「運命が見つからないままって寂しいじゃないですかぁ」
そう言ったのは、燐音の髪をセットするヘアメイク担当の女だった。
Crazy:Bは紆余曲折ありながら、やっと知名度も人気もあがり、この度記念すべきファーストアルバム、そしてそれを引っさげたツアーライブを行うことが決まった。今日はアルバム告知のための雑誌撮影で、燐音とHiMERUが「夜」、ニキとこはくが「朝」とテーマを分けての撮影だったため、二日間のスケジュールのうち一日目に燐音たち二人が撮影に臨んだ。
「夜」と一口に言っても、高級ホテルのレストランでピアノでも弾いていそうな華やかなタキシードライクの衣装をあてがわれたHiMERUに対し、燐音はギラギラとしたネオン街を彷彿とさせる衣装だ。
「天城さんをイケイケな夜のお兄さんにしちゃいますね!」
「きゃはは、頼もしいなァ!」
ヘアアイロン片手に意気揚々と髪をさわる彼女は、ちらほら馴染みある顔ぶれが見える現場のなか、初めて見る顔だった。
ブロッキングした髪にヘアアイロンを通し、ゆるめのウェーブヘアに仕上げていく。手を動かしながらも「シングルマザーで大変」「毎日のように通うバーの店員が素敵」などいささか遠慮のないマシンガントークをする彼女を当たり障りのない相槌で受けながし、撮影でのポーズと表情づくりをイメージする。
「天城さんは運命の番、見つけました?」
聞き流していた「音」が急に「声」となって燐音に降ってきた。一瞬、質問の意味が認識できず思わず呆けたが、即座に表情を取りつくろった。
「オイオイお姉さん、結構グイグイくんなァ」
「だって気になるじゃないですか、人気アイドルの運命の相手」
いたずらな笑みを浮かべながら、ワックスを手に取り、燐音の髪全体にもみ込むようになじませる。
(運命の相手、ねェ)
彼女の言葉に、燐音はとっさに鈍色の長いしっぽを持つある男の姿を思い浮かべたが、すぐに頭から消した。彼女が聞いているのは遺伝子によって決められた混じりけのない純粋な運命のことで、燐音のうす汚れてすり切れた執着に似たソレではない。
ともあれ、彼女はどうやら燐音をαだと勘違いしている。よくある事だし今更わざわざ訂正する気もないが。
前髪をかきあげられ、顔が上に引っぱられる。いつのまにか少しうつむいていたらしい。
「俺っちと運命の番なんてロマンチックな夢物語は相性最悪っしょ」
茶化して答えると、「確かに!そうかも」とこれまた茶化した調子で返される。
でも、と彼女がつづけた。
「運命が見つからないままって寂しいじゃないですか」
燐音はその言葉にキシリと悲鳴をあげた己のなかの何かを無視し、ただぎゃははと笑って流した。
鏡に映る自分も、自分を見て、笑っていた。
撮影に入る直前。HiMERUは燐音の顔を見るなり思いきり顔をしかめた。
「酷い顔。今の天城にはネオン街より墓地の方が似合いますね」
「メルメルぅ~」
容赦のない言葉は、燐音への嫌悪からではなく、ユニットにとって大事な一歩の礎となる今日の撮影を成功させたいからだと、燐音にはわかっている。
年下に迷惑をかける訳にはいかない。HiMERUの懸念を吹き飛ばすように背中をたたき肩を組むと、心底嫌そうに顔を背けられたが突き飛ばしはされなかった。
「最高のCrazy:Bを見せてやろうぜェ」
「当然なのです。……話を変えますが、天城、あなたのヘア担当の女性、気づきましたか?」
「は?何を」
ことさら声を潜めて尋ねられた内容に首を傾げる。HiMERUは最初の挨拶以降、彼女に全く近づかなかった。なにか思うところがあったのだろうか。
「……いや、何ともないなら良いのです。ただ、香水の香りが独特で気になっただけなので」
そう言って無理やり話を終わらせたHiMERUに追及しようとしたが、スタッフの「撮影はいりまーす!」の声に遮られた。
(香水の香りなんてしたかァ?)
違和感が頭をかすめたが、今はただ、夢を売るアイドルを全身全霊でやるだけだ。
カメラが一人のアイドル天城燐音をとらえた。
その後、アイドルとしての矜持とHiMERUの存在が燐音を奮い立たせ、撮影はすこぶる順調に進んだ。
しかし、頑張って早く終わらせた結果が、電車の停車で立ち往生とは、今日はとことんツイてない。
手持ち無沙汰に携帯をいじり、SNSで検索するとやはりこの停車はΩのヒートが理由らしい。コメント欄にはΩを心配するコメントが並ぶ。燐音はそれらにざっと目を通し、画面を閉じた。代わりに通話履歴を開き、履歴の一番目から三番目、二つ飛ばして六番目を占拠する名前をタップし電話をかける。
長いコール音ののち、ようやく出た相手に「ニキこの野郎」と凄んでみせると負けじと「なんすか燐音くん」と返ってきた。
「俺っちの電話は三秒以内に出ろよ」
「お、横暴!買い物してたんだから不可抗力っす!」
電話の相手、ニキは夕飯の材料でも買っていたのだろう、まだスーパーにいるらしく電話の向こうからかすかに店内放送のBGMが聞こえる。
「あ、そうだ。今日はアパートに帰ってからあげ揚げる予定なんすけど、燐音くんも来るっすよね?」
「決まってンだろ。てことでニキ、迎えに来て」
「へぁ?」
「電車止まっちゃってさァ、帰れねえの」
実は先ほどから代替バスの案内アナウンスが繰り返し流れているが、燐音は何も知らないフリをした。ニキの返事を待つ。
「……今どこっすか」
「○○駅」
「結構遠っ……一旦買ったもの置いて行くから時間かかるっすけど、ちゃんと待っててよ」
(え、ほんとに来んの)
燐音が返す言葉を選びあぐねている間に電話は切られてしまった。
てっきり「タクシーで帰れ」「ニキくんひどォい」のパターンで想定していたのに、まさか本当に迎えに来るなんて。ただニキに構ってほしかっただけなのに思わぬ展開となった。
ニキは運転免許を持っておらず、仕事以外の移動はもっぱら歩きか自転車だ。だからきっと、今頃スーパーから急いで家に戻り、自転車にまたがっているに違いない。
燐音は『好きに駆け出せ』と書かれた旅行会社のポスターが張られた壁にふらふらと寄りかかり、喜びと照れで火照る体を冷ます。
ニキが着くまでに少なくともあと四十分はかかるはずだ。彼がガス欠を起こさないように売店でチョコバーでも買っておく必要がある。
燐音は本日二度目の重い息を吐いたが、先とは打って変わってほのかに甘さのにじんだものだった。
駅前の広場は空が暗くなり始めたにもかかわらず人であふれていて、皆思い思いに過ごしている。
「ひんへふんのへーでへとへとっふ」
「きゃはは、何言ってっかわかんねェな」
その中でも長身の男二人が向かい合って、一人が自転車で手がふさがっているもう一人の口にチョコバーを差し出し食べさせている光景は奇妙なのだろう、あちらこちらから視線が刺さった。
「むぐ、んぐ……ふう。そんじゃ、エネルギー補給も済んだし帰るっすよ」
ニキが愛車にまたがって早く乗れとばかりに燐音を仰ぐ。格好いいはずの仕草も、自転車だとどうしても面白さがでて笑えてしまう。やっぱりニキは人を笑顔にする才能があるなァ、と褒めてるのか貶してるのか分からないことを考えながら、後ろにまたがりニキの腰にそっと腕を回す。ニキがペダルを踏みだした。
「本当に来るとはな」
燐音は景色がビル群から公園、住宅街へとゆっくり移り変わるのを、風になびくニキの髪のすき間から眺めながら独り言のつもりでつぶやいた。しかしニキには聞こえてしまったらしい。
「恋人に呼ばれたら行くしかないでしょ」
ニキもまた独り言のようにつぶやいた。
――『運命が見つからないままって寂しいじゃないですか』
今日何度も燐音の中にこだました言葉。
(ニキの運命が見つからないままなら、俺は嬉しいよ)
向かい風に飛ばされないよう腰に回す腕の力を強めると、近くなったニキの耳が赤くなっているのに気づいてたまらなくなる。
ニキはαで燐音はβで、どうしたって運命にはなれないのに、今だけはこの自転車で二人どこまでも行けそうな、そんな気がした。