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    両片思い(片方無自覚)すれ違いニキ燐
    前半出来てうれしいのでアゲ 後半はこれから頑張る

     平日、午後七時。羽目を外すにはいささか早い時刻も、ライブハウスの扉をくぐればそこは既に無法地帯だ。思い思いに体を揺らし、ライトを振る。その振動は地面を伝いステージ上にまで響いた。ホール中の熱が塊になってとぐろを巻いている。
     ニキはその熱が好きだ。口いっぱいにほおばるように息を吸えば、肺だけでなく胃袋まで熱で満たされた気がした。イヤモニから聴こえる音に微かに意識をかたむけながら、ステージ上をそれこそ蜂のように動き回る。ここが自分達の縄張りなのだ、そう思えるほどには四人ともアイドルとして日々を重ねてきた。始まりは決して良いものではなく、一波乱どころかむしろ一瞬の静寂すらないような日々だったけれど。熱にうかされた客席の様子を見ると満たされたような、悪くない気持ちになる。
     視界の端にひらり赤色が散って、惹かれるままにその赤を目で追う。背を曲げて、前方にいるファンを煽る燐音の横顔は、遠目でもわかるぐらいギラギラしていた。ステージライトは四人を平等に照らしているはずなのに、燐音だけ特別光の縁が濃く感じる。髪の赤と瞳の青が光を吸い込んで閉じ込めているみたいだ。
     しばしぼうっと光の有り様を眺めていると、ニキの視線に気づいたらしい燐音がにいっと笑ってニキに駆け寄ってきた。近くで見ると一層ギラギラしていて、まるで野生の獣だ。野生の獣なんてテレビでしか見たことはないけれど、一瞬も隙を見せない本能むき出しの目は、この男と通じるものがある。「燐音くん」名前を呼ぶとその目がほんの少しだけ安堵をにじませ、ふっと緩んだ。
     「どうしたよ、俺っちに見とれちまった?」
     既に五曲以上歌い上げた声は普段より少しかすれている。ただぼうっとしてただけで、見とれてたわけじゃない。口を開こうとしたが、燐音が一層無邪気に笑うので、結局言葉にはならずうにゅぅと子猫の鳴き声のような音だけが漏れた。
     「本番にぼうっとしてっと怖ァい年下にどやされっぞ!なあこはくちゃん!」
     背中を叩かれ肺からすべての空気が漏れた。怒られるのは嫌だなあ。再度熱を吸い込み、次のステップに向けて足を踏み込んだ。





     「この間のライブ、本当に楽しかったです!」
     「本当っすか?それならよかったっす!」
     外は薄暗くまだ朝になりきっていないこんな時間でも、テレビ局内はあわただしく人が行きかい騒然としていた。朝の情報番組の料理コーナーを担当することになって早数月。決して穏やかとはいえない朝の光景にもようやく見慣れてきたころだ。
     ニキに興奮を隠せない声で感想を伝える彼女は、前々からライブに行きたいと言ってくれていた共演者だった。
     「ニキさん、共演してるときと全然違ってびっくりしました」
     「ん~、僕としては変えてるつもりないっすけど」
     「いつもは……ちょっとふわふわした料理のお兄さんって感じで、でもライブのときは本当にかっこよかったです。ギャップあるって言われたことありません?」
     「そうなんすかね~?」
     「あっほらふわふわしてる」と笑われ、笑い返す。そうこうしているうちに本番直前の時間になり、ニキはスタッフとともに料理設備つきの別スタジオに移動した。さあ、美味しい料理で皆を笑顔にする時間だ。今日のメニューの工程を頭の中で何度も繰り返しながら、腕まくりをした。

     「テレビの前の皆もぜひぜひ作ってみてほしいっす!それじゃ、また来週お会いしましょう椎名ニキでした!」
     料理コーナーはいつも通り問題なく終えた。ニキの残りの仕事は、スタッフロールが流れる番組終盤に本スタジオに行き、カメラに向かって手を振るだけだ。時間になるまで、料理スタジオのスタッフ達とその日作った料理を食べながら本放送を見るのが恒例になっている。
     『××さんは最近なんかあった?』
     『この間、ニキさんのライブにお邪魔させてもらって』
     彼女だ。ニキよりよっぽど宣伝上手な彼女は、ライブの見どころやニキのギャップについて熱弁している。主にニキのことを語られているのに、ニキが思ったのは「燐音くん、喜ぶだろうな」だった。だって、ニキが褒められるといつも自分のことのように嬉しそうにするから。「流石だなァニキ」そう言って宝物を見つめるようなとろけた顔で笑う燐音を思い出すと、だんだん心臓のあたりが苦しくなって、喉からじわじわと何かがせりあがってくる感覚に、指先を意味もなくこすり合わせてしまう。ニキはせりあがってくる何かを押し戻すように、料理を一口噛まずに飲み込んだ。
     「椎名さん、そろそろ本スタジオ向かいましょう」
     「了解っす」
     スタッフに呼ばれ本スタジオに向かい、他の共演者と合流する。ベテランの司会者に「よ、ギャップ萌えのニキくん」なんて囃されたので、頭に手をあて大げさに照れた仕草をとると周囲から笑いが起こった。
     最後、全員でカメラに向かって手を振って、収録は終わる。皆ほっと安心したように息をつき、口々にお疲れ様を言い合っている。ニキも全員と挨拶を交わし、ひと段落着いたのでよしそろそろ帰り支度をしようという時だった。番組ディレクタ―に声をかけられた。
     「ニキくん、お疲れ様。今ちょっと大丈夫かな」
     「お疲れ様っす。大丈夫ですけど……僕、何かしました?」
     「ああいや、お説教じゃないよ。むしろいいニュースだから」
     ニキくん意外と心配性だよね、とからかうように言ったディレクターは、スタジオ近くの談話室にニキを招いた。
     向かい側のソファに座るようニキに促すと、脂の乗った腹を揺らしながら彼もソファに座り、そしてニキに分厚い紙の束を渡した。その表紙には『合同特番・スペシャルドラマ』とあり、中をめくると登場人物一覧と大まかなストーリー、キャスト案などが書かれてある。ニキの名前は、登場人物一覧で上から二番目にある役名の隣に載っていた。
     「まだ少し先にはなるんだけど、局の人気番組合同でスペシャルドラマを録ることになってね。」
     「スペシャルドラマ」
     「そう」
     いまだに状況を飲み込めず、おうむ返しにしか返事を返せないニキに、ディレクターは何ら気分を害した様子もない。おそらくニキの反応は予想通りだったのだろう。アイドルとしてライブやイベントの経験はそこそこ積んできたにしろ、テレビドラマに出演。しかも名前の載っている位置からして決して脇役ではない。燐音やHiMERUはドラマ出演もすでに経験しているが、ニキはそういったものは初めてだった。
     「この番組からはニキくんを出そうって話になってたんだ。それで、ニキくんには、主人公の女性の恋人役をお願いしたいと思ってて」
     「……僕でいいんですか?」
     この番組でニキは一番業界歴が浅いし、合同特番ということは、いろんな番組に出演している芸能界のベテランがたくさんいるわけで。それなのに、準主役ともいえる役どころがニキで大丈夫なのか。最近は鳴りを潜めていた地の底を這う自己肯定感が久しぶりに顔を出した。
     ディレクターは笑いながら言った。
    「もちろん。ぜひ君にやってほしい」
     そんなこと言われたら、ノーとは言えなかった。


     さて。
     ドラマの仕事を受けてしまったはいいものの、ここで一つ問題が生じていた。
     「恋人役なんて無理っす……」
     一人きりのアパートで布団に屍のように横たわるニキの傍らに投げられた携帯の画面には、『恋人と友達の違いって?』という見出しのネット記事が映しだされている。
     実のところ、ニキは恋愛経験が全くといっていいほどなかった。遡れば小学生のころ、それこそクラスの女子からラブレターをもらったり、呼び出されて告白されたりもしたのだが、ニキには恋愛よりも食事の方が大事だったし、間食の許されない環境でいかに空腹をごまかして時間をやり過ごすか(あるいはいかにバレずに間食するか)に必死だった。中学もしかり。親と離れ、燐音と出会ってからは言うまでもない。浮世離れしたお兄さんが心配で目が離せなかったし、お兄さんから燐音くんに変わったところで、目が離せないのは同じだった。子供時代の一年の価値は単純な長さでは計れない。ニキの青春のほとんどは燐音に強奪されてしまったのだ。
     そんなこんなでまともに恋愛と呼べるものを経験する暇もなく、今日ここまで来てしまった。台本だって渡るはずだし、多少の演技指導はあるかもしれないが、それでも恋人に対するまなざし、温度、そういった言語化できないものは実際を知らないと再現しようがない。与えられた機会に、向けられた期待にできるだけでも応えたかった。が。
     『恋人と友達の違いは、ズバリ性的接触ができるかどうか』ネット記事によると、キスやその先ができるなら恋人、できなければ友達ということらしいが本当なのだろうか。「ネットの記事なんざ信じる人間が馬鹿っしょ」いつかの燐音の声が頭の中で響き、げっそりする。
     確かに、友達ならまずキスなんてしないだろう。いや、しないのか?本当に?しかし、そうなるとニキが過去に燐音にキスを迫った事実が異常事態として浮上する。感極まってつい口を出ただけなのに。そもそも燐音はまちがっても友達のくくりではないし、他の誰かにキスを迫った経験もないけれど。
     うだうだと思考の波を漂浪していると、玄関のドアが開閉する音、ビニール袋が擦れる音、そして聴きなれた鼻歌が順番にニキの耳に届いた。
     「その歌本当に好きっすね」
     転がったままごろりと寝返りをうって来訪者を見やる。燐音が歌っていたのは随分前に引退してしまったアイドルの歌で、燐音がアイドルに憧れて間もないころに歌われた歌だ。燐音があまりにも繰り返し口ずさむものだから、ニキもすっかり覚えてしまった。
     寝転がっているニキに、燐音は鼻歌を止め、不思議そうかつ少し馬鹿にした顔で尋ねた。
     「なにニキきゅん、アザラシの真似でもしてンの」
     「違うっすよぉ……」
     思った以上に情けない声が出た。分からないことを延々と考えるのは疲れるしお腹も空くし、ニキはすっかり疲弊してしまって限界だった。猫の手ならぬ、悪魔の手も借りたいくらいだ。
     燐音もニキが本気で参っているのに気づいたのか、買ってきたビールを冷蔵庫に詰めてから、ついでに買ったらしいチョコを片手にニキの横にしゃがみ込んだ。フィルムを剥いてニキの口に近づける。大人しく口を開くと、舌の上にやさしく置かれた。噛まずにゆっくり溶かして味わう。コクのあるまろやかな甘みが、考えすぎて疲れた頭と心に染み渡っていく。悪魔じゃなくて、天使かもしれない。チョコ一つで簡単に掌をひっくり返した。
     「燐音くん……」
     「なあに、ニキ」
     前髪を指の腹で撫でるようにゆっくり後ろに流される。普段は暴力的なのに、こういう触り方もできるんだからずるい。何度もそうされるうちに、喉がじわじわとするあの感覚がまたやってきた。吐き気とは違う、けれど喉の奥からせりあがってくるような。唾液を飲んで落ち着かせる。第二の波が来る前に口を開いた。
     「恋愛って、恋人って何すればいい?」
     瞬間、二人の間に緩やかに流れていた空気がぴたりと固まった。燐音の指がニキの髪を絡めたまま中途半端に止まっている。
     「…………は」
     燐音の口から漏れたのはほとんど吐息に近い声だった。燐音はニキの言葉が理解できないというように目を見開き、それから視線を迷子のようにさまよわせ、最後には静かに目を閉じて唇をそっと嚙んだ。睫毛が目元に影を落としている。一連の所作があまりに普段の燐音と乖離していて、ニキは息をのんだ。MDMの前日、ニキのもとに来たあの時を彷彿とさせる危うさがある。
     空調の音だけがしんと静まり返った部屋に響く。しばらくして、先に口を開いたのは燐音だった。閉じていた目をわずかに開いてニキを見つめるが、その瞳は依然弱弱しい。
     「ニキ。恋人、できたの」
     「……へ?え?で、きてないっす」
     「は?」
     「え?」
     つい今まであった重々しい空気が一気に霧散した。え?
     いまだ混乱するニキに対し、先ほどの沈黙同様、混乱から先に脱したのも燐音の方だった。突然襟元を掴まれ無理やり上体を起こされた。グエ、と蛙のような声が漏れる。
     「オラ、大人しく抱えてるモン全部吐きやがれ」
     燐音の表情は打って変わって生き生きしていた。

     今なら恋人役よりも、不良に脅される一般人役の方が迫真のある演技ができる気がする。
     「ふうん。ニキもとうとう俳優デビューかァ。大抜擢じゃん」
     「だからやばいんすよぉ……」
     居間に連行されたニキは、いまだ儚げに唇を嚙む燐音の残像に頭を侵されつつも、燐音にドラマ出演のことを報告した。
     「で?なんであんなこと言ったンだよ。『恋人って何すればいい?』だっけ」
     「燐音くん、僕の物真似笑えないほどヘタっすね……あだっ」
     テーブルの下から足を蹴られた。ごまかさずに早く言えという催促だろう。
     ニキは今更、燐音に助言を求めたことを後悔し始めていた。いくら疲れて限界だったとはいえ、燐音相手にいわゆる恋バナを振るなんて。当たり前に今までそんな話をしたことはなく、二人には全く縁のない話題だった。なるほど、燐音が異様に動揺したのもおかしくない。もしニキが燐音に恋バナを振られたら、同じぐらい動揺するかもしれない。猛烈な恥ずかしさがニキを襲った。
     とはいえ、今更「なんでもない」が通用すると思えないし、言わないと永遠に追及されそうだ。ニキは腹をくくった。
     「僕の役って主役の女の子の恋人役で。それで、恋人ってどんな事したらいいんだろうって。ドラマだから基本は台本通りやればいいっすけど、それだけじゃだめだと思うし」
     「……へえ、ニキが恋人役ねェ」
     「恋なんて誰かさんのせいでしてる暇なかったっすから、どうしたらいいかわかんないっす」
     開き直ったニキは「誰かさん」をことさらに強調して言ってみせた。どうせノーダメージだろうけれど。案の定、燐音はただ嬉しそうに笑みを浮かべるだけだった。
     「それはそれは可哀相だなァニキくん」
     「その誰かさん、今目の前にいるっすけど」
     「きゃはは、人違いじゃねェの?」
     「分かってるくせによく言う」
     本当に嬉しそうだ、人の気も知らないで。ニキがむくれればむくれるほど、燐音の機嫌は上昇していく。たまらずニキは言い返した。
     「でも燐音くんだって、どうせ恋愛とかしたことないでしょ」
     片手の指が埋まるほどの歳月を、一緒に過ごしてきたのだ。キスすら結婚してからだし、これまで燐音に恋人らしい人がいた様子はない。燐音から知らない誰かの匂いがしたときも、それは大抵後のイベントで顔を合わせるスタッフの匂いだった。
     恋愛初心者が恋愛初心者に恋愛を問うとはこれいかに。燐音に反撃したつもりが、自分でダメージを食らう。
     燐音はニキの言葉にぱちりと一つ瞬きをした後、考えるように視線を右下にやり、それからまたニキを見て、一音一音確かめるようにゆっくりと声に出した。
     「俺はあるし、してるよ。今も、お前が知らないだけで」
     ニキはまじまじと燐音を見た。相変わらず笑っている。瞳から燐音の内を暴こうと覗き込む。嘘をつくとかすかに曇る、夏の青天を連想させる透いた青色はいつもと変わらず痛いほどの彩度を放っていて、それは燐音が嘘をついていないことを意味していた。
     ――誰、僕の知ってる人? 
     ――いつの間に。知らせてくれたっていいじゃないっすか。
     返す言葉は、いくらだってあるはずだった。しかし、どれも声になる前に口の中でほどけていき、ニキの口は薄く開いては閉じてを繰り返すだけで、何も音にはならない。ニキはそこで初めて、自分がものすごくショックを受けていることを知った。
     「なあ、ニキ」
     動揺するニキを茶化すことなく、まるで愛しい幼子に対するような柔い声色で燐音はつづけた。
     「デートしようぜ」
     その響きに、チョコはとっくに胃の中に溶けてしまったというのに、じゅわり、口の中に甘味が広がった気がした。





     遊園地。水族館。動物園。
     デートスポットとよばれる場所は数あれど、燐音と行くとなるとなんだか全部しっくりこず、だんだん投げやりな気持ちになってくる。
     あの日、ニキに恋愛を理解させるという大義のもと突然デートに誘ってきた燐音は、自分で言っておきながら「プランはニキに任せるわァ」とまるっと全部ニキに押し付けた。だってお前デートプラン考えたことあるじゃん、とのことだが、そのデートプランに尽く駄目だししたのは他でもない燐音だったのをニキは忘れない。
     まさか再びデートプランに頭を悩ませる日が来るとは思いもしなかった。そもそも燐音とデートする日が来るとも思っていなかったけれど。
     「速報はいりました!」
     「内容確認、テロップ準備して!」
     あわただしく指示する声、そしてバタバタと忙しない足音がニキの目の前を通り過ぎる。その騒がしさが、ニキをようやく現実に引き戻した。
     早朝、テレビ局。ドラマの話を持ちかけられた日から早くも一週間がたち、今週もニキの出番がやってきた。料理の打ち合わせはすでに済んでいる。用意されたエプロンを身につけ、あとは移動の合図を待つだけのそんな少しの時間にも、頭を占めるのはドラマ、ではなくデートと燐音のことばかりだった。
     『ニキ。恋人、できたの』
     『俺はあるよ。お前が知らないだけで』
     あの日から、何度もニキの脳内で再生される声、表情、仕草。フィルムならとうに擦り切れてしまっているほど繰り返しているにも関わらず、記憶にこびりついたそれは依然変わらぬ苛烈さでニキを殴る。どうして燐音はあんな表情で、あんな目で、ニキに問いかけたのだろう。いつ燐音は恋を知った?どうしてニキは知らないままでいたんだろう。考えたって分かりっこないのに、どうしても考えずにはいられなかった。
     「ニキさん、大丈夫です?」
     気遣うように声をかけてきたのは、先週ライブについて熱く語ってくれた彼女だった。彼女の心配そうな様子を見るにニキは相当思いつめた顔をしていたみたいだ。腐れ縁の男について考えてただけです。考え事が考え事なだけに、気恥ずかしさと気まずさで目を合わせられない。
     「なはは、大したことじゃないっす。心配かけてごめんなさい」
     目をそらしたままニキは笑った。
     「うーん、ならいいんですけど……」
     まだ心配そうにしているが、ニキがこれ以上踏み込ませないことを察したのか、すぐに話題を切り替えた。
     「そうだ。さっきの速報、女優さんの結婚ですって」
     「おめでたいっすねぇ」
     「ねえ」
     結婚。恋愛といい結婚といい、最近ニキの周りではその手の話が多いものだ。ニキには全く馴染みのないそれらを、他の人達は当たり前にこなしているらしい。あんなにニキに対して運命、結婚とうるさかった燐音でさえ。ニキの知らないうちに誰かに恋をしている。
     「新婚旅行、きっと豪華ですね。どこ行くのかな」
     「……どこがいいとかあるっすか?」
     「私ですか?ええ~……なんだろう、どこがいいってよりかは、その人としたいことができる所、ですかねぇ。たとえば、泳ぐのが得意な人となら南の島で一緒にダイビングやってみたいなあとか」
     その人としたいことができる所。彼女と結婚する人は幸せだろうな、そう漠然と思う。
     「ニキさんは、どこがいいですか?」
     「う~ん……少なくとも、海外っすね」
     日本じゃ結婚もできないから。なんて。誰を想像したかは考えないことにした。

     ドラマの台本が、番組収録後に手渡された。顔合わせ兼読み合わせが十日後に行われるので、それまでになるべく大まかにでも頭に入れておく必要がある。
     ドラマは前後編、ストーリーは簡潔に言うとハートフルコメディ。明るく物怖じしない性格の主人公が周りを巻き込みながら、成長していく。ありきたりなストーリーだけれど、ありきたりと言われるほどたくさん作られた理由は、皆が好きなストーリーだからだ。
     ニキの役は、俗にいうヘタレで、常に主人公に振り回されている。それでも、いざ主人公が落ち込んできる時やピンチの時には真っ先にかけつける憎めないヤツ。なんだか、燐音とニキみたいだと思った。いや、燐音はああ見えて性格は明るくないし、ニキもいつも燐音がピンチの時になぜかたまたま隣にいるだけで、かけつけている訳じゃないから、全く違うかもしれない。恋人じゃないし。
     燐音の好きな人。きっと彼の片思いだ。恋人がいたらニキが気づかないはずがない。ずっと一緒にいるんだから。もし、燐音とその誰かが結ばれたなら、ニキは燐音の相方として祝福しなきゃいけないんだろう。特大のケーキを焼いて、ほら、ケーキ入刀っすよ、なんて言って茶化して。燐音くんの相手なんて大変だろうけど、僕も相談のるっすから。そう言うと、おいニキ手前この野郎と罵声が飛んできて、顔のない燐音の恋人が困ったように笑う。そんな未来が遠からず来るかもしれないというのに、ニキの頭は『燐音に好きな人がいる』ことのショックから脱け出せていないままだ。
     いつか、弟に己の夢と自由を託してアイドル天城燐音を殺そうとした日。燐音は最後に共にいる相手にニキを選んだ。あの日の空気の湿り気、突き付けられた刃物の鈍い煌めき、抉るように吐き出す燐音の声と、全てが終わった後の憑き物が落ちたような顔。細かいことはもうあまり覚えていなくとも、それらだけは確かにニキの記憶の底に沈んで『燐音はニキを選ぶ』というのを不変の真理たらしめていた。燐音がニキ以外を選ぶなんて考えてもいなかったのだ。
     だから、そう、びっくりしただけ。燐音の声が頭から離れないのも、えも知れぬ焦燥も、予想の範疇を超えた事態にエラーを起こしているだけで、だから、どうってことはない。時間がたてば、そのうち事態を受け入れて『燐音はニキを選ばない』が新たな事実としてニキの中に根付く。それだけのこと。
     そこまで考えて、ふう、と細長く息を吐く。燐音のことを考えるとき、しばしば喉奥からこみあげてくる何かの塊は、ほんの少し前まで決して不快なものではなかったのに、新鮮なジャムが空気に触れて酸化していくみたいに、あの日から時折どろどろで酷い味がするようになってしまった。この感情を何と形容すればいいのか、どこに捨てればいいのか分からないでいる。
     デートの日付は明日に迫っていた。
     



     したいこと。ニキはずっと、したいことを言う側ではなく言われる側の人間だった。相手の「したい」「してほしい」にできる限り沿うように、ニキが被るものがたとえ皆がいやがることでも、報酬が見合っていなくても、仕方ないの一言にすべてを無理やり押し込んで、これが椎名家の一員として自分ができる贖罪だと思っていた。最近は、ニキに「したい」を言わせたがる奇特な人達が周りにいて、ニキの独りよがりな贖罪ではなくなりつつあるけれど。
     昼前の太陽は薄い雲をまとって、その光線をにじませていた。曇り空は外を歩くには絶好の天気だ。風は穏やか。草花の色が濃くなる春と夏の境目では、普段は花に見向きもしない人間も、土と緑の生々しい香りと花弁の折り重なる曲線に感嘆の息をつく。
     アパートの最寄り駅から数駅。入る前から既にたくさんの花々が来客を出迎えるこの植物園ができたのは、ニキが燐音と暮らすようになって少し経ったころだったと思う。まだアイドルになる方法を二人で模索していたころだ。テレビで開園のニュースが流れるのを見た記憶はうっすらあるけれど、その時燐音とどんな話をしたかどころか、燐音がその場にいたかさえ朧げだ。あってないような記憶の滓から、ニキはデートの舞台に植物園を選んだ。
     売り場でチケットを購入する燐音の隣でマップを広げる。思った以上に広い。
     「ゴミさえ持ち帰りゃ飲食オッケーだと」
     燐音は言いながらニキにチケットを手渡した。二人並んで入り口の蔦に覆われたゲートをくぐる。
     「にしても、ニキのことだからどうせ食べ歩きかと思ってたンだけどよォ」
     「前にそれでダメ出ししたの燐音くんじゃないっすか」
     「いやまァそうだけどさァ……何でココ?」
     燐音は心底不思議そうにしている。花を美しいと思う気持ちはあれど特別熱心でもなく、初めての場所で思い出もない。だから、ここにした。
     「ほら、僕達って今まで色んな所に行ったっしょ?」
     驚くくらい何も知らない燐音を連れて街中を歩きまわったのが懐かしい。図書館は特にお気に入りの場所だった。燐音は意外と、穏やかな空気が静かに流れる場所も嫌いじゃない。アイドルの肩書を手に入れてからも、色んな場所に行って色んな景色を見た。
     「だから、初めての場所に行きたかったんす」
     今日がなければ、恐らく今後も、仕事でもプライベートでも来ることがなかっただろう。初めては何だって記憶に残る。美しいものを見た記憶と共になら尚更。
     「初めてがどんどん減っちゃってたけど、探せば意外とあるもんっすね」
     ニキのしたいこと。燐音の残り少ない初めてを一つもらうこと。ニキの初めてを一つ使って。
     燐音はニキの言葉に「ふうん」とだけ返した。音程が上ずらないよう意識したぎこちない「ふうん」だった。
     細かい砂利が敷かれた道を、音を立てながら歩く。前方にバラ園が見えた。ニキ達より先にいた、遠方から来たのだろう団体客は口々に「きれい」と顔を見合わせ、写真を撮っている。
     バラは見事に満開だ。巷にある人工のものよりもずっと瑞々しく柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。花弁の端は甘くよじれてひだを作り、何枚も重なりあって一輪の花を成している。綺麗なバラには棘がある、の格言通り茎には太い棘が生えていた。華やかな真赤と物々しい棘のアンバランスさこそ、バラが愛される理由なのかもしれない。
     「ッ痛」
     隣から聞こえた小さな呻きに顔を向けると、棘に触れたであろう手をプラプラ振っている。
     「何してんすかぁもう」
     ニキが呆れた声で咎めると、燐音はわざとらしく肩をすくめた。
     「ニキが止めてくれねェから」
     べっと舌を出し、ニキの言葉を待たずにその小指をニキの小指に絡めた。ぴくりと震える指をやわく握られ、肌が粟立つ。熱くなった指先が燐音の冷えた指をぬるくしていく様が、ニキの熱をさらに煽った。
     「押さえてくれねェとまた触っちまうかも」
     愉悦をはらんだ声が恨めしい。一度指を振りほどいてから、手のひらを合わせて指全体を絡ませる。ニキが行き場のない苛立ちを込めてぎゅう、と握れば、燐音はけらけらと子供のようにはしゃいだ。バラの香りが呆れたように二人の間を通り抜けていった。

     結局、二人が手をほどいたのは、園内を半分ほど見終わって、そろそろ昼食をとろうと東屋のベンチに座るときだった。数刻ぶりに空気にあたった手のひらがやけに涼しい。腰を下ろして空を見ると、雲がさっきより厚くなっていて、そういえば今日は『所により雨』だったと昨朝スタジオで聞いた予報を思い出した。もしかするとこの地点が『所』なのかもしれない。
     手提げバッグから包みを取り出す。二人分のおかずを詰めた特大サイズの弁当箱の中身は少し左に寄っていて、隣から小さく笑う声がした。今日はなんだかうまく決まらない。
     ニキの好きなものと燐音の好きなものが半分ずつ入ったお弁当はあっという間に空になって、そこそこに満たされた胃のあたりをさすりながら、眠気覚ましに口を動かす。あの花は綺麗だった。冬に咲く花もあるらしい。へえ、じゃあ今度は冬に来よっか。また、この二人で?半笑いで返された言葉にはたと我に返る。これはニキの恋人演技のためのデートであり二度目は無いこと、燐音には他に好きな人がいること。忘れていたわけじゃない。けれど、夢うつつの所を冷水で打たれたような、まさに水を差された気持ちになる。
     「で、演技の参考になったかよ?ニキくん」
     不服とばかりに唇を引き結ぶニキに構わず、燐音は前のめりに頬杖をついて尋ねた。
     「ううん……よく分かんないっす」
     今日したことといったら一緒に色んな花を見て、手をつないで(つなぐと言うより握りしめると言った方が正しいけれど)、ニキは時折お菓子をつまんで、片手で食べるのに苦戦してたら燐音に横からかぶりつかれて悲鳴をあげて。デートと言い張るには、間が抜けているというか、キラキラが足りないような。本当の恋人じゃないからなのだろうか。
     「なんか、恋愛ってもっとキラキラしてるはずっすけど、僕と燐音くんだと日常の延長っていうか」
     先の言葉は燐音の噴き出す音にかき消された。
     「きゃっはは!いいねェニキきゅん、青いなァ」
     心底楽しそうな声にウゲ、と顔を最大限にしかめるも燐音は全くお構いなしだ。演説家のごとき語り口でニキに説く。
     「確かに巷にあふれるフィクションの恋愛は大体が極端にキラキラしてるかドロドロしてるかの二択だ。でもよォ、世の中の女子高生皆がクラスの王子に告白されるか?冴えないリーマン皆が美人妻と不倫するか?しねェだろ。現実にあふれてる恋愛はフィクションよりずっと地味で、お前の言う通り日常の延長にある。だから、演技で気をつけるべきはその日常を無かったことにしねェことだ。お前が演じるのが御曹司でも王子でもない普通の男なら、いや、そいつらだろうと、どんな奴にもドラマのネタにもならねェような日常があって、その中で恋してる。彼女と出会ってから恋人になるまで、恋人になってから。急に恋に落ちたのか、時間をかけて恋をしたのか。それ次第で彼女への態度も変わっし、どう演じるかは演者の腕の見せ所ってか?」
     演説が終わった。かくも見事な語りに、この人無駄に多彩だよなあと頭の中でごちる。まあ、でも。語られた内容は確かに、と思うものだった。ニキが演じる、弱気で押しに弱くて、でもピンチの時は真っ先に彼女を助ける彼氏。よくやるなあ、なんて思ったけれど、彼は彼なりの信念に基づいて行動していて、その信念はドラマ外の日常で築かれている。彼女に昔助けられたことがあるのかもしれないし、ただ心底惚れているだけかもしれない。
     そして、もしかすると。彼らも燐音とニキのように一緒に花を見て、手をつないだのかもしれない。そうやって、恋を紡いできたのかもしれなかった。
     「燐音くんは」
     屋根からぽつ、ぽつ、と音がする。雨がこぼれてきたようだ。地面の緑が濃くなり、土の匂いが増す。
     「どんな風に恋したんすか」
     話の流れに沿った何気ない問いかけのはずなのに、変に喉につっかえる。ぎこちなさを雨の気配に紛れさせてごまかした。別に、大したことじゃない。単純な好奇心からの疑問で、それ以上でもそれ以下でもない。自分に言い聞かせた。
     燐音はぱちりと瞬きをして、それから、ニキの肩越しに見える雨の軌跡に視線をずらした。五秒に一滴だったのが二秒に一滴になり、流星のように線を引く。すん、と鼻を鳴らして雨の匂いを嗅ぎ、視線を景色に向けたまま話しだした。
     「別に、特別な何かがあったわけじゃねェよ。フツーに一緒にいたらフツーに好きになってた、それだけ」
     「何それ」
     「現実の恋愛なんてンなもんっしょ」
     燐音の視線の先に結ばれる肖像の正体を暴こうと追ってもそこには何もなく、かといって直に聞き出す気にもなれなかった。知りたいのに知りたくない、たゆたう感情に足を攫われる。
     「……燐音くんが普通とか、らしくない」
     その結果口からまろびでたのは拗ねた子供の駄々みたいなもので。本当、バカみたいだ。どやされるかと思いきや、燐音は目を緩めるように細めただけだった。ニキを見る。目が合った。
     「らしくなくなっちまうの。怖いくらいに」
     燐音の表情は、熱したフライパンの上でバターが溶けていく様子を連想させた。溶けて、泡立つ。風がそよいだみたいに穏やかな声だった。胸がざわめき、喉が渇く。
     ずるいと思った。燐音にそう言わしめる誰かが、死ぬほど。ずっと隣にいたニキですら侵せなかった、燐音の殻の内の脆い部分に触れて変容させる存在が。
     「ニキが恋したらどうなるかねェ」緩みきった調子でのたまう燐音に、そんなの知らない、と心の中で噛みつく。そんなの知らない。知らなくていい。振り回されるのは、一人で十分なのに。
     「ニキに愛されるやつは幸せだな」
     雨音にかき消されそうなほど小さな声で言われた独り言じみたそれはとても嬉しそうで、けれど少しだけ寂しげで、それでいて、どこまでも他人事だった。自分事にするのを諦めている声にも聞こえた。
     ニキは顔の筋肉がひきつるのが分かった。雨の音が、匂いが一気に遠ざかる。背中がじっとり汗ばむのに反して体の熱は急激に冷めていき、胃がきしむように痛む。胃酸の匂いが鼻を抜けた。
    「なんで、そんなこと言うの」
     かすかに声は震えていた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方なのかもしれなかった。燐音の言う「ニキに愛されるやつ」に燐音はいない。それが異様にニキの心をざわつかせる。
     「お前は、人を幸せにできるし、幸せになれるよ」
     「今、僕とデートしてるのは燐音くんっすよ」
     腕が伸ばされる。指がニキの頬に触れる直前で止まり、そのまま下ろされた。
     「だからだよ」
     燐音は、途方に暮れた声で笑った。
     ニキはどうすればいいか分からなくなった。知らない場所で急に一人きりにされたみたいに、進み方も戻り方も分からず立ち尽くすしかできない迷子と同じだった。
     何も言わないニキに、燐音は確かめるように繰り返した。「ニキに愛されるやつは幸せだな」それから、とってつけたように言った。
     「雨、長そうだなァ。今日はもう帰ろうぜ」





     ニキは、一人で立っていた。
     辺りを見渡し、すぐにこれが夢の中であることを理解した。いわゆる明晰夢というやつだ。後ろには、下駄箱と、標語の書かれたポスター、防火装置。遠くからはしゃぐ子供の声。小学校の昇降口の外にぽつんと立つニキの靴は子供用のスニーカーで、マジックテープの端がめくれて土がついている。目に映る色々なものが一回り大きく見える。体も小学生のころに戻っているらしかった。
     明晰夢ではあるが体は全く動かない。動かせるのは首より上だけだ。
     どうすることもできずぼんやりと立ち尽くしていると、急に雨がこぼれだした。ぽつり、ぽつりと黒のインクを垂らすようにアスファルトを濡らし始める。粒は大きく、すぐに本降りになりそうだった。目の前を子供たちが横切る。いやそうな顔をしながら傘を取り出す子、急ぎ足で歩く子、誰もが突然の雨に濡れるのを避けようと動いている。そんな中ニキは、強まった雨に濡らされながらぼうっとしていた。
     このころ、ニキはよく傘を持ってくるのを忘れた。朝は詰めるだけ胃に食べ物を詰めないといけないから、忘れ物がないか確認する時間の余裕がないのだ。そんなときはランドセルを頭の上にかかげ、息を止めて家まで走った。息を止めれば少し空腹が紛れるような気がして、お腹が空きそうなときはいつもそうしていた。けれど今は体が動かないから、濡れたまま目が覚めるのを待つしかない。
     水を吸った衣服が重たい。靴の中にも水が入って靴下がむれて不快だ。髪が首に張り付いてかゆい。
     もし、ここにユニットの彼らがいたら。きっと、こはくもHiMERUも、傘をさしながらニキの所に来てくれる。一緒にはいろう、片方の肩が濡れてもいいからと、ニキに傘をかたむけてくれる。でも、燐音は。燐音はきっと自分の傘を、傘を持っていない誰かに押し付け、それからニキに近づき笑うのだ。一緒に濡れて帰ろう、とは言わない。ざまあねェなァニキくん。燐音はそういう人だった。掬い上げるのではなく、一緒に同じところまで落ちてくれる、少なくともニキにとっては唯一の存在だった。
     「燐音くん」
     僕の知らないところで勝手に変わらないでよ。ねえ。
     
     目が覚めたとき、一番に感じたのは錘を乗せられたみたいに重い頭の痛みだった。寝返りをうつとグワンと視界が揺れて、脈拍に合わせて鈍痛が響く。こめかみを通る血流の感覚がいつもより鮮明だ。
     昨日、弱まったころを見計らって動いたとはいえ、雨の中を駅まで歩いたから風邪を引いたんだろう。歩いている間も、電車に揺られる間も、アパートに戻ってからも。ニキと燐音はあの東屋でのやりとりなどなかったかのようにいつも通りだった。小突かれて、小突き返して。ただ、ついぞ手をつなぐことはなかった。恋人ごっこはあの時、確かに終わっていたのだ。
     頭を極力揺らさないように体を起こし、並んだ布団でこちらに背を向けて寝る男を見やる。
     「……振られればいいのに」
     好きな相手がいるというのにニキとデートをした燐音の真意は分からない。けれどニキには、ニキとデートしたところで己の心は揺るがない、という燐音の覚悟というか、ある種の余裕に思えてしまって、それが無性に腹立たしかった。ニキとデートした姿を見られて振られてしまえと思った。そして、悲しみに暮れる燐音にニキが笑いながら手を差し伸べる。「僕とデートしたばっかりに、馬鹿っすねぇ」そう言って、手をつないで家に帰って、燐音の好きなオムライスを作る。ふわふわの卵と一緒に、燐音の恋の残骸を食べつくしてしまうのだ。
     『人を幸せにできる』らしいニキが、それを言った当の本人の不幸を願っているなんて、滑稽で、喜劇的で、どうしようもなく醜い。こんなの、らしくない。らしくないのに。
     頭を押さえてふらつきながらキッチンへ向かった。冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに割る。綺麗に丸い黄身の真ん中に、ぶすりと箸を突きたてた。
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