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    とりあえずここまで書いた……こっそり
    前半はほぼ前と同じです※168話後if

    #ニキ燐
    nikiPhosphorus

     そばは五分以内に食べる。それがニキのポリシーだ。
     つゆで伸びてしまう前に、美味しいものは美味しいうちに食べなきゃ罰が当たってしまう。とはいっても、サービスエリアで提供されるそばなんかは、事前にゆでられた麺を温めてつゆを注いで作られているから、既に伸びてしまっているんだけれど。
     サービスエリアは静と動が絶妙な距離感で共存していた。夜を吸収した静かな空気のなかを時折漂うように人が行き来している。自販機の前でどの飲み物にしようか迷っている人、コンビニ内をうろつく人。この短い休憩時間でそばを食べようとする人はあまりいないみたいだ。いかにもトラックの運転手といった様相の人が丼を食べているのを発見し、勝手に親近感を抱く。
     止まる事なく麺を吸うニキをじっと見つめていた燐音が、視線をニキの背後の時計にうつし、立ち上がった。目で問うと、「トイレ」と一言。
    「ひとりで行ける?」
    「俺っちのことなんだと思ってンだよ。てめェこそ俺っちが起こすまでバスの中でずっとぐっすりだったくせに」
    「誰かさんのせいで無駄に疲れたっすから。そうだ、バス出発ってあとどのくらいっすか?」
    「ん~……あと十分くらいだなァ。そば食べきれそ?」
    「十分あればニ杯はいけるっすね!」
    「……きゃはは、頼もしいねェニキくんは」
     席を離れる燐音に、意識をそばに戻して箸で円を描き麺をつゆの中で踊らせる。それから麺を持ち上げ口に運ぼうとすると、「ニキ」と再度声をかけられた。蛍光灯の光が眩しくて、少し遠くにいる燐音の表情はよく見えない。
    「がっつきすぎてむせんなよォ」
     心配ご無用っす。ずずず、麺をすする音で答えた。

     おかしいなと思ったのは、それから数分ほど経って、そばの器を返却台に戻す時。立って周りを見ると、さっきまでちらほらといた人がほとんどいなくなっていた。いるのは丼の人とニキと、あと数名だけだ。
    (あれ、もしかして燐音くん時間間違えてる?)
     燐音はまだ戻ってこない。心配になってトイレまで探しに行くと、そこには誰もいなかった。おかしい。
     不安で浅くなる息に苦しくなりながら外に出ると、目的の人物はいなかった。
    「……はぁ?」
    バスもいなかった。

     燐音くんに置いてかれた。
     ニキが気づいたのは、確かにこの場所に駐車していたはずのバスが消えていて、代わりに横の地面にニキの荷物が無造作に捨てられているのを目の当たりにしてからだった。
     悪い夢かと目をこすっても、頬をつねってもちっとも変わらない光景――嘘だろ。
     いつからいたのか、斜め後ろから感じるこちらを気遣うような視線にかまわず、ひざから崩れ落ちた。
    (トイレって言ったじゃん、確かに戻ってくるとは言ってなかったけど、つうか出発時間嘘ついたんだ)
     血が下がっていくのがわかる。コンクリートの硬さに膝が激痛を訴え、それが毒のようにじわじわ全身に広がって、胸のあたりまで傷みだした。塞がる喉からグウと音が漏れる。
    「その……大丈夫か?」
     ずっとこちらを微妙な表情で見ていた男――どこかで見たことがあるアイドルに声をかけられた。大丈夫、な訳ない。
    「燐音くんの馬鹿野郎……」
     最後の言葉が「むせんなよ」って、そんな「さよなら」があるか。
     淡い夜空に亡霊のように浮かぶ月が虚しさを湛えながら座り込んで途方に暮れるニキを見下ろしていた。
     

     こはくもHiMERUも嘘をついて二人を捨てて去ろうとしたニキを怒らなかった。
     ニキではないもう一人にひどくご立腹で、逆にニキにはすごく優しいから、ニキは大丈夫のサインとしてなんでもないように笑ってみせた。不快で恥ずかしくて申し訳なくて、何よりみじめでたまらなかった。燐音に向ける怒りをニキにも向けて欲しかった。なんでそんなことをしたのか、馬鹿じゃないかって罵って欲しかった。見捨てられた人間の烙印を押さないで欲しかった。なお心配そうにニキをみる二人に「ステージ上がる前に腹ごしらえしてくるっすね」と伝え場を離れる。
     燐音くんもこんな気持ちだったのかな、ふと至った。一緒についていくと言われて、みじめに思ったのだろうか。故郷に帰るという彼を怒って引き留めればよかった?そうしたら、今も隣に立ってくれていたのだろうか。
     血の味がする。知らぬ間に噛んでいた唇から血がにじんでいた。

     三人のCrazy:Bで立つステージ。リーダーの不在、暗い表情を隠しきれないこはく、うつむく一彩に会場は一時どよめいたが、それがおさまると次には拍手と歓声が沸き起こった。
     それはまるで悪からの解放を祝福するような、祝祭を彩るファンファーレのような。
     「やめえ!やめろ!」こはくが叫ぶがもう手遅れだった。観客はすっかり正義が悪を滅ぼした瞬間に立ち会ったという虚構の事実に酔いしれて、こっちのことなんか見えていない。
     歓喜している人たちは皆物語の正しさを愛しているのであって、単なる一キャラクターの感情などどうだっていいと思ってる。今後どれだけこはくやHiMERU、ニキが燐音の弁明をしたって強がりとして一蹴されるだろう、世間にとっては脅されていた方が面白いし都合がいいから。
     「おめでとう!」いつまでも鳴りやまない拍手が弾丸のようにステージに降り注いだ。会場に笑顔が並んでいる。
    (まさに、あんたが望んだとおりっすね)
     よく見ると、笑顔の中にぽつりぽつりと泣いている顔があった。燐音のファンだろうか。捨てられちゃったね、可哀想に。
     どこからかあの特徴的な笑い声が聞こえた気がして、眉を歪める。
     俺っちの一人勝ちだなァニキ、うるさいうるさいうるさい!
     人生で一番最悪な夏が、終わった。

     ーーはずなのに。
     蝉の声がやみ、カフェで南瓜や栗を使ったメニューが登場するようになってからも、ニキは八月に閉じ込められたまま進むことができずにいた。瞼の裏にはいつだって夏の白日の強すぎる光があって、時折気まぐれに光線を屈折させては赤色の後ろ姿を蜃気楼にうつした。
    「お先に失礼しまぁす」
    「ニキくんお疲れ、そこのパン持ってっていいよ」
    「え、ありがとうございます!頂くっす!」
     裏口からゴミを出し、そのまま帰路につく。店長はアイドル活動を休んでいるニキに配慮して厨房のみを任せてくれていた。余ったパンも譲ってくれて、感謝してもしきれない。
     バイトが終わる頃になると辺りはすっかり暗くなり、冷えた風が街路樹をゆらしている。薄手のコートにマスコミ対策のため帽子もかぶり、なるべくうつむきながら急ぎ足でアパートに戻った。
     鍵をあけずに中に入ろうとしてドアを無駄にゆらしてしまうのももう何度目かわからない。少し前までは、この時間にはもう鍵があいていたから。小さくため息をこぼし、気を取り直して鍵をあける。中に入り明かりをつけて上着を脱ぐと、さっそく貰ってきたベーグルサンドを取り出した。感情の削がれた顔でベリベリとビニールを剥がし、齧りつく。咀嚼し、飲み込み、齧りつく。ひたすらその繰り返し。
     ふいに携帯が着信を伝えた。とっさに顔を繕い耳に寄せる。
    「もしもしこはくちゃん、元気にしてたっすか?」
    「ん、まあぼちぼち。ニキはんも元気しとった?」
    「ん〜僕もぼちぼち?そうだ、この間雑誌に載ってたの見たっすよ。二人とも決まってたっす」
    「なんや照れるわぁ。おおきに」
     電話の相手はこはく。彼はMDM後も時折ニキに連絡をくれる。最年少とは思えないほどしっかり者で他人を気遣える優しい人。
     ニキの見た雑誌にはALKALOIDの四人とこはくとHiMERUが載っていて。写真の良し悪しがニキにはよくわからないが、それでも間違いなく良い写真だった。
    「……わしらはCrazy:Bや言うたんやけど」
    「あ〜、なはは、まあ仕方ないっすよ」
     ALKALOIDには個人と別にユニット紹介コメントがあったが、こはくとHiMERUには個人の紹介のみだった。ニキからすると、そりゃそうだよなぁくらいの感慨だが、こはくはそうじゃないらしい。本当に、呆れるくらいに優しい。
    「ああそうや、ニキはんに聞きたいことがあって。いや、本人に聞くんも格好がつかんのやけど」
    「んぃ?どうしたっすか?」
    「ほら、ニキはんあとちょっとで誕生日やし、欲しいもん何か教えてほしい。ほんまはサプライズっちうのがええんやろけど、あのアホならともかくわしには向かん」
     誕生日。あのアホ、は聞き流してニキは壁にかけられたカレンダーを見た。八月から捲られていない。
    「今って何月何日っすか?」
    「……はぁ、そっからかい…………今日は九月三十日、明日から十月」
    「え?うわ、もうすぐっすね僕の誕生日!」
    「はぁ……」
     いつの間にかそんなに時が経っていた。日にちなんてシフト表を確認する時に記号として見るくらいだったし、一日一日を終えている実感がなかった。何かに感動することもなければ絶望することもない、振り回されて疲れることのない平穏な日々が久しすぎて頭が少し混乱しているのかもしれない。昨日何をしたかと聞かれても思い出せないくらい、毎日がまっ白だった。唯一ニキをゆさぶるのは、瞼の裏の蜃気楼と、夏の記憶だけ。そうか、あれから一月。
    「ニキはんには心配してもし足りんわ」
    「こはくちゃんは意外と心配性っすよね。んで、欲しいものですっけ。ん〜特にこれってのはないんすよねぇ……食べれるものならなんでも。別にプレゼントなんてなくても、気持ちだけでも嬉しいっすよ」
    「それじゃこっちの気がおさまらんっちうか……大事なメンバーの誕生日はちゃんと祝いたい。ニキはんバースデーイベントもやらへんし。誕生日の日は一応わしもHiMERUはんも夕方以降空けてある」
    「……はは、すごいっすねぇ」
     大事なメンバー。頭の中で反芻する。
    「あ、そうだ。なら僕が作った料理を久しぶりに食べてほしいっす!よければHiMERUくんも一緒に」
    「それ、わしらは嬉しいけどニキはんそれでええん?」
    「うん、誰かと食べるご飯は美味しいっすから」
     そう、誰かと食べるご飯は美味しい。『誰か』に名前をつけようとする頭を軽く振ってごまかした。
    「五日の夜、ごちそう作るっすよ!仕事以外で作るの久々なんで腕がなるっす」
     人目を考えると寮の旧館かニキの部屋か。こはくとHiMERUは寮の新舎で生活しているが、入寮を断ったニキが入るのは気まずい。旧館よりはニキの部屋のほうが調理道具は揃っているし、二人なら一度くらい部屋にあげてもいいかもしれない。前菜にメイン、誕生日祝いならケーキも。
     少しの間黙っていたこはくが口を開いた。
    「……なあ。ニキはんは今のまんまでええの」
    「へ?」
    「あ、いや、責めてるわけやのうて。ただ……ニキはん、今日が何日かわからんかったし、前はほぼ毎日作ってた料理も久々言うし、無理しとるっちうか、今を生きとらんっちうか」
     なんかこう、幽霊みたいで、と続けたこはくに被せて少し遠くから桜河、と咎める声が聞こえた。近くにいたんだろう、HiMERUの声だ。仲が良くて何より。前髪をかきあげる。
    「心配ばっかかけて申し訳ないっす」
     だから、ほっといて。言外に含めたのが伝わったようで、それ以上こはくは何も言わなかった。

     おざなりに話をまとめて電話を切る。ふう、大きく息をはいて床に転がり、目だけで辺りを見回すと、テレビ台に置かれたうさぎのぬいぐるみと目が合った。いつだったか「ニキに似てるから」と言って彼がゲームセンターで取ってきた灰色のうさぎ。正直色しか似てないな、とずっと思ってた。
    「幽霊、かあ」
     カレンダーもうさぎもその他のものも、この部屋にあるもの全部が全部、時が止まっているみたいだった。色違いの食器、ニ本立つ歯ブラシ、缶ビールの入った冷蔵庫。目を閉じればいつだって真夏の日差しがニキを迎えて、八月に連れて行く。赤をなびかせた後ろ姿は、いくら呼んでも振り返ることはない。言うならば、八月の亡霊だ。


    「ゔあ〜……」
     それからまた数日経って、誕生日まであと三日。ニキはテーブルに突っ伏して唸っていた。
     誕生日パーティーはニキの部屋で行うことになった。しかし自分から料理を振舞うことを提案したのに、三日後に迫った今まだ何の準備もしていないどころかメニューすら決まっていない。
     これまでの誕生日はどうしてたっけ。記憶を遡るとニキと燐音でそれぞれ食べたいものを出し合ってメニューを決めていた。ならそれに倣ってこはくとHiMERUに食べたいものを聞けばいいのに、なんだかその気も起きない。
     「ゔ〜」唸り声とともにゆらりと上体を起こし、のろのろと四つん這いでテレビの隣にある小さな本棚に向かう。本棚には料理本やグルメ雑誌から燐音の読んでいた政治の本、はたまたニキの中学時代の教科書まで、本の形状をしたもの全てを放り込んであった。その中から一冊の料理本を取り出す。ニキの父が書いた本で家庭料理から少し凝った料理まで初心者向けに丁寧な説明で紹介されているこの一冊は、ニキが初めて手にした料理本で、料理人椎名ニキの教科書のようなものだった。
     四つん這いからごろりと仰向けに寝転んで、『はじめに』のページから一枚一枚捲っていく。ところどころに油の跳ねた跡やこぼした醤油のシミ、そして鉛筆の書き込み。各メニューに自分なりのアレンジや注意するポイントが書き込まれているほか、燐音の書き込みもいくつかあった。『美味しかった』『美味いけど舌がヒリヒリする』『また食べたい』綺麗な字で書かれた感想を目でなぞる。ニキの料理を一口食べると途端に目をキラキラさせるところ、月日を経てすっかり暴君に育ってからもそこだけはずっと変わらなかった。そのキラキラを間近で見れることがニキにとって何よりも特別で。いつかテレビで見た南の島の海みたいな青色の目が、光を吸い込んで閉じ込める。その目に映ると、なんだか自分も綺麗なものになれた気がして、ニキは少しだけ自分のことが好きになれたのだ。
    「くそ……」
     本越しに見える天井の明かりが眩しくて、目をつぶっても眩しくて、光がしみて涙が出る。ぼやけた視界で最後のページを捲った。『難しいと思ったら、料理を楽しめなくなったら、簡単なものに戻りましょう。進めなければ戻ればいいのです。』料理と全ての料理人を愛する父の言葉がそこにあった。



    「やはり椎名の料理は絶品ですね」
    「ニキはんさすがやなぁ」
    「ありがと〜!嬉しいっすね〜」
     エビフライにとろとろ卵のオムライス、ポテトサラダとミネストローネ、デザートはロールケーキ。父の料理本を参考にメニューを決めたが、二人の皿の中身がみるみる減っていくのを見ると正解だったみたいだ。あまり食欲がなく、ポテトサラダだけ食べ箸を置いたニキは二人から渡された紙袋を抱えこんだ。
     二人が事務所から持ってきてくれた紙袋いっぱいのファンレター。ニキに届いたたくさんの『おめでとう』と『頑張って』に嬉しさと気まずさが綯い交ぜになる。ファンの前に姿を現したのはMDMが最後だったのに、いまだにニキを忘れない人がいる。そして、燐音のことも。『燐音くんに伝えてください』に続く愛の言葉はところどころ震えていて、水滴を吸ってにじんでしまっている。きっとこの人も八月から進めなくなってしまった人だ。ニキと同じ。
     『進めなければ戻ればいい』あとがきの父の言葉が三日前からずっと頭の中にあった。料理じゃないけれど、ニキもずっと進められないでいるから。進めないまま、歳を重ねてしまったから。料理じゃなくても、進めなければ、立ち止まっているのがつらいなら、戻ってもいいのだろうか。
     ニキはん、突然こはくが心配そうに声をかけてきた。
    「全然食べとらんけど……」
    「あ〜、あまり食欲なくて。二人は遠慮せず食べてほしいっす!」
    「そう言われると余計気になってしまいます。椎名、何かあるなら誕生日くらい話してみてはどうです?事によりますが力になれるかもしれません」
     え〜?と流そうとしても、二人の視線が厳しくニキを突き刺す。ニキが話すまで沈黙を貫くつもりらしく、シンと耳の痛む静けさに外の車の音が一段と大きく聞こえる。こはくHiMERU対ニキではニキに勝ち目がないのは一目瞭然だ。
     何もないっすよ、と言えればよかった。戻りたいと思ってしまった。
    「…………燐音くんに」
    「はい」
    「燐音くんに、会いたい」
     ずっと、サービスエリアで膝から崩れ落ちたあの日から言わないようにしていた言葉。蓋をしていた願いが口を出る。
     言ったきりうつむいたニキに、二人分の大きなため息が届いた。
    「やっと……ようやっと言ったなぁニキはん」
    「もう少し早く言い出すかと思ってたのに長くかかりましたね……」
    「用意したプレゼントが無駄にならんで何よりやわ」
     ニキの前に何かが置かれる音がした。おずおず顔をあげる。こはくがニキの前に置いたもの。
    「明日出発。急いで準備せえ」
     夜行列車の乗車券だった。



     緑に挟まれた細い道を列車が暗闇を切り裂きながら進んでいく。長いトンネルに入ると、トンネル照明が車内を照らして、ニキの足元に一筋の光の線を引いた。
    『なんで列車なんすか?』
     できては消えるその線を見つめながら、昨日の会話を回想する。
    『僕たちが乗ったのは深夜バスだったけど』
    『天城の弟に聞いたところ、列車のほうが早く着く、と』
    『あれはむしろ遠回りだったらしいで。燐音はんのことやから、わざとやろうけど』
     ボツンとマイクの入る音がしたあとに、ぼそぼそとしたアナウンスが流れた。車内の照明が暗くなる。
    『なぜ天城がそうしたかはわかりませんが』
     カーテンを閉じて外からの光を遮断する。座席を倒して目を閉じた。
    『椎名がいたからだと思いますよ』

     朝六時。寝起きでぼやけた頭のまま列車を降りる。改札がないこの駅では駅員が直接乗車券を回収していた。ここで降りたのはニキだけで、駅を出ても人っ子一人見当たらない。見渡すかぎり緑以外何もない場所。ここからは燐音の故郷に通じる『秘密の道』を歩いていけばいいらしい。一彩による手書きの地図によると、駅の脇、線路を横断した先にその道はあるらしいが、ここから見ると一見ただの雑木林で、道なんて一つもない。しかし近づいて地図と照らし合わせながら目を凝らすと、線が引かれたように草が刈り取られている所があった。
    「これかぁ……」
     道と呼べるか怪しいそれ。なんとなしに携帯を取り出すと『圏外』の文字。燐音くん、異世界とは聞いてたけどどんな所に住んでんの。一つ息を吐いて、足を踏み出し周りの草をかき分けながら進んでいく。

     どれだけ歩いたのだろうか。坂になっている山道をひたすら登る。木々に日を遮られて薄暗い周囲に、昨晩雨でも降ったのかぬかるんだ地面がニキの足に縋るようにからむ。リュックの重みが次第に増していくような感覚、全身から流れる汗、警告するようにガンガンと響く頭。まるで揃ってニキをこの場所から追い出そうとしてるみたいだ。クソ野郎。ギリ、と歯を鳴らし地面を睨んでひたすら足を前に出す。
     ふいに、視界がひらけた。ずっと登ってきたのは集落の周りを囲む丘だったようだ。見降ろせば家と畑が並んでいて、人の姿も見える。ここだ。本当なら燐音と一緒に来るはずだった場所。やっとたどり着いた。
     燐音くんは王様になる人だから、きっと一番大きな家に住んでいる。ここより少しばかり低い丘に、屋敷が見えた。他の家とは比べ物にならないほど大きな本殿の奥に、小さい神社のような小屋がある。見つからないように丘の上から近づいて、裏からこっそり侵入した。それから本殿を一瞥し少しだけ立ち止まって、小屋の方に向きを変える。王様なのにそんな所にいるなんておかしいし、確証も何もないけれど、きっと、あそこに燐音くんがいる。
     小屋の周りは古寂びた木の柵で囲まれており、読めない何かが書かれた御札が柵に貼りつけられている。御札が貼られたのはそう前のことではないようで、真新しさがどこか白々しい。辺りに人がいないのを確認して、よいしょ、気にせず柵をまたいだ。入口階段をのぼり小屋の扉をノックする。返事はない。
    「燐音くん、いる?」
     中まで届くよう顔を近づけて呼びかける。扉に耳をつけると、かすかに衣服が擦れる音が聞こえた。扉の真ん中には大きな板が横断していて、内側からじゃ開けられないようになっている。ギギ、と音を立てる板を慎重に金具から引き抜き、宝物をしまうには随分お粗末な鍵を開けた。わずかに動いた扉の隙間から見える中は暗く、空中を漂う塵が漏れた光に照らされてキラキラしている。ぬるい空気、カビの匂い。そろりと中に忍び込んだ。
    「燐音くん」
     まるで牢だ。畳が敷かれた室内に布団が一つ、それより他は窓すらなく光が遮断された部屋の真ん中、伏せられた青がのろのろと開かれて侵入者の姿を映し、揺れた。相変わらず綺麗な目。見開かれたその目の内に自分が映っているのを見て、カチリ、秒針の音が頭の奥に響いた。
     呆然とニキを見上げる燐音の前にしゃがみこむ。言いたいことはたくさんあった。たくさんあって、ありすぎて頭がぐるぐるする。燐音くんの嘘つき、置いていきやがって、なんでこんな所にいるの、王様じゃなかったの、僕の誕生日もう終わっちゃった、あの時一緒に行くって言わなきゃよかった?燐音くん、嘘つき、ずっと会いたかった。頭がパンクしたのかチカチカと視界が点滅し、喉の奥が熱くなる。止まっていた時間が急に動き出したような、はたまた止まっていた分を取り返すような勢いで駆け巡る諸々の感情を逃がすために深く息を吐き、震える声で名前を呼んだ。
    「燐音くん」
    「ニ、キ」
     燐音の声はカサついていて、ほとんど吐息に近かった。喋りづらそうに喉をおさえて、あ、あ、と声が出るのを確認してから言葉を続けようとする燐音を静かに待つ。
    「ほんとうに?ニキ……?」
    「正真正銘ニキっすよ、馬鹿な燐音くん」
     喉をおさえる燐音の手に重ねるように手を置くと、燐音は覆いかぶさる手の熱と目の前のニキを結びつけるように何度も視線を行き来させた。顔には「信じられない」とありありと書いてある。
    「どうして、ここに」
    「どうして……それを燐音くんが言うの。置いてったくせに」
     ニキの言葉に気まずそうに口をつぐんで目を伏せた燐音の、記憶より少し伸びた髪にそっと触れた。少しびくついた燐音をなだめるように耳の脇の髪を指ですく。指の間をさらりと通る赤い髪に、この場所で完全に見放されている訳ではないことを知って今日幾度目かの息を吐いた。吐いた息の延長上に言葉をこぼす。
    「おめでとうくらい言ってよ」
    「……?」
    「誕生日、忘れたなんて言わないっすよね?」
     冗談交じりに言おうとした声が予想より本気の色を帯びてしまい焦る。取り繕うにも言葉が出てこず、「たんじょうび」とオウム返しに唱える燐音を前に、どうしてか罪名を言い渡される犯罪人の気分だった。燐音はそんなニキに気づいているのかいないのか、もう一度噛みしめるように「たんじょうび」の言葉を転がした。
    「そっか。もうそんなに経ってたンだなァ」
     小さな声で呟いて、ひどく暗い部屋の中で眩しそうにニキを見るから、なんだかおかしくて鼻の奥がツンとした。
    「十月五日、十五時十五分。わざとかってくらい揃ってっから、初めて聞いた時『やっぱりニキは幸運の持ち主なんだ』って思ってさァ。懐かしいな。そうか、てっきりまだ九月だと思ってたから……十九歳になったんだな、ニキ」
    「……うん」
    「ニキ」
    「うん」
    「おめでとう」
     やめてくれ。無性に叫びたくなった。置いてったくせに、僕のことを捨てたくせに、なんで。愛しいものを見るような、そんな目で見るんだろう。これが怒りなのか何なのかわからない、ただ、空腹時の衝動に似たなにかが腹の奥でふつふつと沸いている。
    「許さないから」
     気づいたら声に出ていた。言葉とは裏腹に懇願しているみたいな、自分の声とは思えないほど弱々しい声。
    「許す必要はねェよ。俺も謝らない。だから」
    「帰れって言うんでしょ?」
     言葉を被せて言うと、わがままな子供に向けるような仕方ないなという顔でニキを見る。またそうやって歳上面して、大事なこともくだらないことも触れられたくないこと全部ごまかす、燐音の悪い癖がでた。いつもならごまかされてあげるけど、今日は。
    「帰るならあんたも一緒っすよ」
    「……ニキの帰る場所と俺の帰る場所は違うだろ。俺はここ。おめェはあっち」
    「なんで僕の居場所を他人の燐音くんに決められなきゃなんないんすか。そもそも僕がついてくって言って拒否しなかったのに、なんで?僕、なんかやらかした?もしそうなら」
    「違ェよ。ニキは何も悪くねェ。違う、違うんだ」
     燐音は頭をおさえて短くうなり、それから自嘲じみた笑みを浮かべた。
    「……なあ、俺がなんでこんなトコに入れられてるかわかるか?ハハッ聞いてビビンなよ、『都会で汚れた魂を浄化するため』だとよ。面白ェよなァ、魂なんて誰にも見えやしねェ、汚れてようがお綺麗だろうが価値に違いなんてあるわけないっつうのに。しかもタチ悪いのは、俺をここに閉じ込めた奴らの中で悪意があるのはほんの一握り、あとはみ~んな俺を想ってやってる。馬鹿なんだよ、どうしようもなく」
     渇いた笑いが虚しく響く。
    「まあおそらくは俺ら兄弟が揃って出ちまったのが原因だろうな。アイツは俺を引き戻すためだとはいえ戻るのが遅すぎて、連絡手段もねェから都会に染まったと思われてるしよォ。もう戻らねェから合ってっけど。それでただでさえ良くなかった都会のイメージがもう最底辺までガタ落ち。そんな中、都会生まれ都会育ちの人間が受け入れられるかっつったら可能性ほぼゼロっしょ。……嬉しかったんだ、ニキがついてこようとするなんて一ミリも予想してなかったから。だから舞い上がっちまった。ニキ、俺はさ、あの時おめェを置いてってよかったって思ってる。俺のせいで不幸だった分、俺を忘れて自由に生きて欲しい」
    「……馬鹿じゃないの」
     馬鹿だ。燐音も燐音の故郷も、登場人物全員馬鹿。もちろんニキ自身も含めて。皆救えない大馬鹿だ。
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