溶けかけのチョコレートをあなたに(仮)「チョコレートほしい」
聞き間違いだろう、そう判断して一条シンはあっさり無視を決め込んだ。
勉強の邪魔はしないでほしいといつも言っているのに、丸い頬を膨らませてノートと教科書を交互に見やりながらノートを少しずつ埋めていく。
「ねぇ、聞こえてるの?チョコレートがほしいんだよ、もうすぐバレンタインデーってやつでしょ?手作りだなんて贅沢は言わないからさぁ」
無視をものともしない押しの強さに、シンはいっそ感心して目を瞬かせた。が、同じくらいやっかいな予感にすぐに半眼になる。
自称プリズムの使者であり、きらめきを広め、全てを愛するのだと豪語する男は、勉強机へ向かうシンの背中にわざとらしく一段と大きい独り言を投げつけた。
「シンってばー」
突然何を言い出すのだろう、いや、それはいつものことだ。だけど、プリズムの使者なんだ、だから尊敬しろだとかそう言う存在がそんな俗っぽいイベントに興味を持つってどうなんだろう?でも、こういうイベントから人間の心とか考え方とか、学んでくれたりとか。勉強に対する集中力というものが足りていないシンの意識は、やすやすとノートから剥がれた。
淡い期待にお人好しのシンは、そろりと振り返ってベッドに腰掛けているはずのシャインを見る。シャインは確かにベッドに座っていた。いたが、手足を投げ出して壁をぼんやりと眺めている。
あ、これは碌なことにならない。
経験と本能から、明らかに退屈しているシャインにシンは眉をひそめた。と、シャインがこちらに顔を向ける気配がしたので、慌てて再度勉強机に向かう。
じいっと擬音が聞こえそうな強い視線。さすがに居心地が悪くなって一言だけ。
「嫌ですからね」
開いていたノートに視線を落としてシャープペンシルを握り直す。数学は苦手だ、特に応用問題。
「なんでさ」
顔を見なくても分かる不機嫌そうな声にため息をつきたくなる。なんでもなにも、前提として自分とシャインは男同士で、尚且つチョコレートを送ったり貰ったりする関係ではない。いくら、ヤることはヤッていても、それは単なる処理と少しばかりの興味の上に成り立っているものであって、世間一般のバレンタインデーとは無縁の関係だ。シャインだってそんなことは百も承知だろうに。
「あのですね」
仕方ないとばかりにシンはシャインと向き合うように椅子を体ごと動かした。これはきちんと言って聞かせなければならないだろう。きゅっ、と眉を意識して釣り上げる。
「この時期に女の子に混じってチョコを買うなんて、そんな勇気ありません」
それに、と続けようとしたシンを横目で窺いながらシャインが首を傾げた。
「この僕が本命チョコもらってあげるって言ってるのに?」
うわぁ、とシンは顰めた眉をそのままに椅子ごと後退った。ガツン、と机の縁に背もたれが思った以上に派手にぶつかってダメージを受ける。うぐ、と変なところから声が出て、このまま流せやしないだろうかとシンは背を丸めた。
が、そんな程度で流されてくれるようならシンはシャインにこうまで手を焼かされていない。
「今週の土曜日、24時間、完全に君の中で眠っててあげる」
「え」
慌てて身を起こしてシャインを見ると、不服そうなその顔が、何よりもシャインの言葉を裏付けているように思えた。
魅力的すぎる取引に、シンは先程までの態度から手のひらを返して現金にも身を乗り出して目を輝かせる。
「ほ、ほんとですか?」
シャインの存在を感じ、観察し続けられる毎日にはすっかり慣れてしまってはいた。
慣れているからこそ、時たまこうやってシャインが持ちかける自由な時間という餌にシンは釣られずにいられないのだった。シャインの誘いにのるなんて自分でも馬鹿なことだとは思うが、毎回おかしな結果につながるわけではない。むしろ、シンの望むような展開だってあった。何より、今回は自分以外に迷惑はかからない。
うぐ、とシンは言葉につまる。
「だって、どんなのを選んで買ってくるのか、最初からわかってたら面白くないだろ?」
勢いよく食いついてきたシンに気を良くしたシャインは、口の端を上げて自分にも利があるのだ、とさらに決断を迫る。
だめだ、誘惑に負けちゃ!とは思うのに、シンの体は知らず知らずのうちに前のめりになっていく。
「これ見よがしに安いのとか用意されるの、いい気分しないし」
暗にコンビニ程度で買えるものでは許さない、と言うのだ。チョコレートの価値など本当はどうでもいいくせに「こういうことを言ってみたかったんだ!」という雰囲気が如実に伝わってきて、シンは頭が痛くなった。なんてわがまま。しかし、シンは理不尽という言葉を喉の奥で噛み殺す。シャインが言って聞くような素直な性格だったならば、二人の生活はもっと楽だったことだろう。
「……わかりました、チョコレート贈らせてください」
「仕方ないなぁ、もらってあげる!」
自由という餌の前に、背に腹は変えられない。
シンは顔を覆い自分の意志の弱さを嘆きながら、結局今回もシャインの誘惑に屈したのだった。
※
バレンタインデーがチョコレートメーカーの経営戦略のひとつだと教えてくれたのはカケルだった。百貨店の特設コーナー、その明るい喧騒を目の前に、シンは距離を取って立ち尽くしていた。
バレンタインのチョコを買うというやっかいなリクエストをクリアするのは大変だろうとは予想していた。しかし、目の前の騒々しさはシンの予想を遥かに上回っていた。カケルに教わるまで渡すチョコに種類があることだって知らなかったくらい縁のない日だったのだから仕方がない、と思う。そもそも自分は貰う側で渡す側ではないのだ。現実逃避気味にシンは落ち着きなく指先を擦り合わせた。
本命、義理、自分用、友達用、会社用…挙げればキリがないとカケルは苦笑していた気がする。
(確かに笑っちゃうほどすごいや)
シンは、変装のつもりでかけているいつもの黒縁眼鏡のブリッジをズレてもいないのに眉間の皺を隠すように押し上げた。
誰も自分のことを見ているはずがないだろう、とか。今時は自分用のチョコを買う男の人だってたくさんいるだろう、とか。いろんなことを考えたが、実際に女性で溢れるチョコ売り場の前に立つと圧倒されてしまう。恥じる必要はないと頭では分かっていても、どうにも慣れないものは慣れないのだ。スーテージに立つのとは全く違った緊張感にシンはこくりと喉を鳴らした。
「……やっぱり、ルヰくんかレオくんについてきて貰えばよかったかな」
小さくこぼして即座に首を振る。もしそのことがシャインにバレたら碌なことにならない。あ、鳥肌が立ってる。以前、『お仕置き』と称し嬉々として行われたアレコレはそれなりに酷かったし、できれば避けたい。
シャインは普段の自由人然とした振る舞いとは別に、執念深く根に持つところがあるのだ。そういう子供っぽい部分こそ、シンがシャインを嫌いきれないところでもあるのだが。子供と違うのは、シャインの行う意趣返しが目を覆いたくなるようなもので、尚且つ被害を被るのが自分だというところだ。
早くこの難関をクリアして練習場にこもりたい。シャインが見ている前で練習をすると、後々嫌味を交えたダメ出しを受けるのが恒例となっているのだ。今日は、それがない。自由に気にせず滑ることができる。シャインの言葉はためにはなっているし、感謝している部分もある。あるにはあるが、完全に上から目線で『呆れて物も言えない』とでも言いたげなダメ出しに、温厚なシンでもフラストレーションが溜まるのである。
シャインが大人しく眠っている間の自由。シャインが利益を得るための駆け引きで嘘をつかないことをシンは知っている。合理的で無駄を嫌う思考は、必要のない嘘をついたりしない。信頼というよりは経験則から今回のシャインは自分を騙そうとはしていない、とシンは思う。だからきっと今日も静かに眠っているのだろう。確かに気配も何も感じない。それは滅多にない思いのままに振る舞える貴重な時間だった。
「……よしっ」
シンは女性で埋め尽くされた戦場を前に、わずかな自由のために小さく気合を入れる。
常に束縛され続ける環境を受け入れてしまっている現状が、人から見ればどれほど異常なことなのか、思いもしないままに。