百桃田腿太氏に捧げる追悼『南野赤い実は稀代のワロロンハープ奏者である。』

　私がその一文を見たのは、ノンフィクション作家・百桃田腿太ももももだももた氏の遺作となった『俺たちには明日しかない』のあとがきだった。あとがきによれば彼は当時とある療養施設を取材していた。そこはたいへん美しい場所で、つい日常を忘れさせるような不可思議な魅力に満ちており、あらゆる生き物の共生が叶えられた理想郷だという。
　ある日、彼は帰りがけに一人の患者からチラシを受け取った。南野赤い実によるワロロンハープ演奏会のチラシである。彼は大層興味を惹かれ、演奏会の日にまた訪れることを患者と約束した。

『この奇妙奇天烈な理想郷において、音楽とはいかなるものであろうか。僕はそれを知りたかった。患者たちの持つ無垢なる魂の秘密は、理想郷のそこここに隠れているように思われる。例えば建物や草花、生活する人々。音楽も例外ではない。』（『俺たちには明日しかない』）

　しかしご存知のとおり、約束を果たす前に彼は亡くなってしまった。私はこの百桃田氏をして理想郷とまで言わしめた療養施設について、南野赤い実について、そして果たされなかった約束について、なんとしても探し当てたくなった。ジャーナリストとしての性が彼の意志を引き継げとがなりたて、到底抑えきれないほどに膨らんだのである。
　まず分かっている単語としては、南野赤い実。これは人の姓名であろう。ワロロンハープという言葉にはまるで聞き覚えがないが、ハープの演奏会というからには楽器のようだ。療養施設についてははっきりしないため、ひとまず私は彼（または彼女）とワロロンハープに迫るべく、あらゆる手段を尽くして情報収集にあたった。しかしなんの情報もないのである。百桃田氏の所持しているはずの演奏会のチラシさえ見つけることができない。
　一週間、一ヶ月と経ち、次第に私はあきらめとともに混乱し始めた。手がかりの一片、それどころか少しのヒントすらもない。糸口の糸くずさえも。自宅の資料も洗いざらい拝見したが（ちなみにファン垂涎ものの貴重な資料ばかり！）、依然として手がかりはない。療養施設も南野赤い実もワロロンハープも、すべては錯乱した百桃田氏の虚言に過ぎなかったのだろうか。そんなはずはない。ノンフィクションに忠実に生きてきたあの百桃田氏が、最後の最後で嘘や妄想にとらわれるなどということは信じがたかった。
　収穫のないまま、二ヶ月が経とうとする頃だった。何もつかめない暗闇のなかで無我夢中に手足をばたつかせることに疲弊してしまった私は、一度情報収集を中断した。すると、彼の葬儀が行われたときの様子がふと頭に浮かんだ。悲しみを共有する大勢の人々に、葬儀にはふさわしくないが彼にはぴったりのカラフルな供花、微笑む遺影の中の百桃田氏。そして私はこの瞬間、あの場ではまったく気に留めなかった事実に気が付いた。
　彼の棺がなかったということに。
　彼の遺体を見なかったということに。
　私は愕然とし、身震いした。百桃田氏よりも私のほうこそ狂気にとらわれたのではないか？　そう思いその場で知人に電話をかけたが、彼もまた「そういえば棺はなかった」と言い出す。
　事実ははっきりした。しかし、事実よりもっと恐ろしい問題がある。

　百桃田腿太は死んだ。
　それは、誰が言い出したことだったのか？

　百桃田氏は天涯孤独の身である。日頃人との交際がないことも知られている。にもかかわらず、彼の死は発表された。それでは一体誰が彼の死を確認したというのか。本当は、誰一人として彼の死を確認していないのではないか……。
　あくまでこれらは私の想像に過ぎない。彼が「死んだ」ことは動かしようのない事実だ。だがひょっとすると彼は死んでおらず、あの患者との、南野赤い実のワロロンハープ演奏会に参加するという約束を果たすために療養施設へ赴いたのかもしれない。療養施設の患者たちの無垢なる魂が脅かされないよう、そこへ至る情報や痕跡、自らの存在さえも一切消し去った上で。
　そんなふうに考えてしまうのは、私も稀代のノンフィクション作家・百桃田腿太の死を悼むファンの一人だからなのだろう。


（文・ジャーナリスト　箱根山天下剣はこねやまてんかけん）