夏の魔法ってことにして「ね、ビリー。こうやって会うの、今日でおしまいにしよっか」
僕はコーヒーを淹れたところだった。夏掛けに変えたばかりだという布団を羽織って、彼女は裸のまま微笑んでいる。頑是ない子供に、言って聞かせるように。
振られた。文意の咀嚼より先に理解がきた。
おしまいって、いやそんな決定事項みたいに、
なんで今。昨日、ぎりぎり今日? だってそんな素振りなかっただろ。数多の疑問の言葉は線毛に絡まり、舌でもつれて、唇に却下された。押し黙った僕は、よほど情けない顔をしていたのだろう。彼女はそんな顔をさせるつもりはなかったと言わんばかりに、ほんの少し慌てた表情で視線を迷わせた。
「あのね、ビリー。私、あなたを嫌ったわけでも、あなたに傷つけられたわけでもない。ただ、ふたりでは会わない友人に戻りたいっていう提案なの。可能であれば、すぐに。急でごめん。あなたが悪いんじゃ、ないんだけどね」
文末に逆接に留保された感情が、僕には読み取れない。彼女の声は昨日の夜の通りに優しくて、寝乱れた髪はカーテン越しの日光で柔らかく輝いていた。困惑だけしていれば良かったはずなのに、僕は頭のどこかで手に持ったコーヒーをどうしようか気にしている。心が、彼女から離れている。カラーコンタクトを外した瞳が、ぼけた輪郭で僕を眼差した。呆れるように、憐れむみたいに、心のままに。
「きっと今なら、帰りたいところへ帰れるんじゃない?」
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煙を吐く。
「どこだい、そこ」
独り言はぼやぼやと、僕の肺と朝の空気を汚した。かちん。相槌は自分が鳴らす、古いジッポライターだけ。
というわけでセフレに振られた僕は、大学の喫煙所で伸びていた。夏の太陽はこんな朝でも充分明るい。もしくは、僕が何でも眩しく感じられるくらいには沈みまくっている。彼女は朝食くらい食べて行けば良いのにと言ったけれど、さすがにそんなことができるほど図太くはなかった。そもそもどんな顔で飯を食えって言うんだよ。確かに空腹ではあるけどさ。
まっすぐにアパートへ帰らなかったのは、別れ際の一言が引っかかってしまったからだ。帰りたい場所。いかにもメランコリな単語選びだ。だからこそ、彼女のイメージにはそぐわない。あの人はもっと、しなやかにリリカルな性格だったから。
耳にこびりつく戯言。だから多分、あれはいつか僕が言ったことなのだろう。
「帰りたい、の、は」
地表の何もかもを育み殺す日差しが街を炙る。幾万の靴底に削られていくアスファルトは、その身に鬱屈と熱と諦念を溜め込んでいた。酷暑の気配は空気を舐め、生きとし生けるものの明日を揮発させていく。辛うじて喫煙所は日陰だけれど、生垣の常緑樹は端からしなびたようだった。木の葉はしおれ、それらの落とす影の方が明るい。明るい、黒。思わず水場を探したくなるけれど、そんなものは吸殻が身投げしたバケツしかないのだ。手元の煙はくらくらと喉を燻し、自然と息は荒くなった。耳鳴りは水分不足を発端に、砂嵐の音に混じって体内でのみ響く。聞こえないんだ。だって鼓膜は砂に埋まって震えなかったんだから。だから行き倒れたように、僕はベンチで伸びている。
まるで、荒野にでも、いるようだ。
荒野。見たこともない、ないのに。なのにこんなに適切な比喩もないと思うのは、荒野、僕の、僕が、それを本当に、知っているから。
慣れたラッキーストライクの匂いが、ぞりぞりと理性を削いだ。意識は酩酊の近似値まで落下していく。うすら寂しい夜の気配を背後に、視線は遠く、視界は広く、思考は古くなる。自分よりもなお古く、忘却よりも早く、速く、はやく! 僕は進まなくちゃならない。逃げ出さないと、早く、ここから。
でなけりゃ、追いつかれてしまう。
21を行きすぎてしまったら、僕は。
「ビリー?」
朝焼けの瞳が、僕を呼んだ。
「どうしたの、こんな早くに」
顔を上げれば、リツカが喫煙所の入口に立っていた。空から降り注ぐ光と熱をありったけ背負って、なのに逆光に潰されないほどの白々とした月を湛えた瞳。
彼女が、僕を、見ていた。
「待っていたんだ」
それは酩酊に引かれて落ちた言葉だった。意識の埒外から溢れた声で、逆説的に自我が覚醒される。あれ。リツカだ、リツカがいる。ゆるゆるしたカントリーミュージック研究会で同期で、僕とは違う学部の女の子。彼女はいかにも訝しげな顔で、喫煙所の入口からこちらを覗き込んでいた。
「リツカ? どうしたんだい、こんなところで」
「それ今私が聞いたでしょ。大丈夫?」
「……アー。駄目かも?」
そう嘯いてみたけれど、本当はかなり大丈夫になっていた。潮が引くように、焦燥を煽る迷妄は頭蓋から剥がれていく。剥がれる。最初から自分のものではなかったみたいに、もうあまり上手く思い出せない。荒野、どうして荒野だったのだろう。関わりもないのに。
僕がへらへらと適当なことを言っていたからだろう。リツカは眉間に皺を寄せ、粗末な喫煙所へ押し入ってくる。その肩には重そうなトートバッグが提げられていた。夏休みなのに。彼女はそのまま僕の前までずんずん歩み寄り、身を屈めてこちらの顔を覗き込む。顔色、瞳孔、爪の先まで見ようとしてくるから、僕は慌てて持っていた煙草を捨てた。そのまま顔を逸らす。
「熱中症じゃない? とりあえずどこか室内に入ろう。あと飲み物、あ、立てる?」
「分かった分かった。あいや、君の親切は嬉しい。ありがとう。でも大丈夫、ただの寝不足で」
振られて、自棄で、睡眠不足なだけ。
そんなことは言葉にできなかった。リツカは僕にまつわる事実も悪評も聞き飽きているだろうけれど、自分から彼女にそんなことは言えない。言いたくなかった。いつも見るより引結ばれた唇に、僕の様子を見逃さないよう開かれたまろいオレンジに、僕の自堕落な様を聞かせたくないと思ってしまった。
リツカは慎重に瞬きをした。それからもう一度、僕の顔をじっと観察する。
「寝不足?」
「そう。ていうか君は? 僕のこれは自業自得だし、ここに引き止めて君の用事に差し障ったら申し訳ない」
彼女は低く唸って、ほんのり諦め含ませた顔で笑った。
「私は暇、ていうか、暇になったところ。語学の講習だったんだけど、先生のお子さんが急に熱出しちゃったんだって。だから何の予定もなくなっちゃった」
「講習? 夏休みにわざわざ? 君、単位足りなくなるタイプじゃないだろ」
「おかげさまでね。希望者が受講できる講座があったの。……英会話の」
感嘆と驚愕とちょっと引いた感じの混ざった息が漏れた。クソ真面目だなこの子。大体、英会話って。言ってくれりゃ僕が教え。
「え?」
「いやその、パン屋のバイトも午後からだからちょうど良いかなって! いや今日に限っては時間ができちゃって良くないんだけど」
僕が言っていない言葉に躓いているうちに、リツカは誤魔化すように何かを捲し立てていた。おかげで思考は掴めないうちに流れていく。だって代わりに考えないといけないことができたから。
赤い頬を抑える彼女の腕をつついた。だらしなくベンチに腰掛ける僕を、リツカは驚いたように見下ろす。目が合う。どれだけ逆光にあってもその目から光が失われることはない。そうだ。初めて会ったときから、そうだった。僕はこの女の子の瞳がひどく美しく思えて仕方ない。時折僕にはちょっと、眩しすぎるけれど。いつか焼かれて溶けて、落ちていくとしても、視線を合わせずにはいられなかった。
「ね、彼女。暇なら僕と、出かけない?」
神話みたいに愚かだろ。愚かに、なっていたみたいだ。
「え、あ」
「大学の隣の坂あるだろ? 短い方の。その横道入ったところにある喫茶店がモーニングやってて、同じゼミのやつと一緒に行く予定だったんだ。ほら、待ってたって言ったじゃないか。でもそいつ、寝坊しやがってさあ。1人で行くのもあれだろ? 腹は減ったしこれからどうしようかって、とりあえずこんなところでぼうっとしていたんだよ」
でまかせがつるつる口から出ていくほど、気分が落ち着いていった。落ち込んだとも言える。まあ、今はどうでも良いことか。詐欺の最中だし。
モーニング。こんなところ。空腹。少しずつ言葉を積み上げて、僕のことを熱中症だと勘違いした善良な彼女が、この誘いを断りにくくする。ほら見て。このまま朝ご飯も食べずに外にいたら、ビリーはもっと体調を崩すかもって顔になった。とどめとして上目遣いで微笑めば、リツカは気圧されるみたいに小さく頷いた。あーあ、こんなに優しくって大丈夫かな。僕みたいな、悪いやつに騙されちゃうぜ。
「ま、まあ、暇だし。うん。涼しいところの方が良いし、うん! 行こう!」
「ありがとう。そうだ、こっちが無理に誘ったんだから奢るよ」
「いやそれは悪いよ、流石に」
「そう? じゃあ、モーニングの後にパンケーキに付き合ってくれないかい。美味しいらしいけど、多分甘くて食べきれないから」
「ビリー、甘いの好きなくせに。でもまあ、一緒に食べたいって言うなら良いよ。付き合ってあげましょう」
そうして僕らは、連れ立って喫煙所を出ていく。真夏の構内にはやっぱり人影はまばらで、セミすら熱にやられたのかどうにも静かだった。暑くて、明るくて、少し目眩がする。遠い記憶が、僕のものではない荒野と栄光と破滅が後手を引く。だから僕は大袈裟に後ろ足を蹴り上げた。勢いをつけて、リツカの隣に並ぶ。
「うん。一緒が、良いな」