つめあとふたつ季節外れに葉を落としてしまった大樹のように、彼はひとり立っていた。
日陰のうちに固い樹皮を晒す、寒々しい黒。陽射しのなかへ自ら動くことはできず、光を受けるための青い葉も持たない。枯死することを厭わないどころか、淡い納得すら覚えているような立ち姿であった。それでもまだ自然の中であれば景色に埋没できたであろうに、ここはアスファルトの上だから彼は根も下ろせない。ひとり、ただそうすることしかできないように、立っている。
もとより、彫像に例えられることもあるような人だ。こうして人波から孤立して見えるのだって、決して珍しいとは言えない。今も、この休日の温泉街の駅前でも、彼は周囲からは遠巻きにされている。
改札を出た私は、それをみとめて足を速めた。
「お待たせしました、カイさん」
私を見つけた視線が、カイさんを解凍する。目尻と唇がほどけ、伏せられていた黄金の瞳が光を帯びた。いつもより丁寧に、目立つところのないように撫でつけられた黒髪は、首を傾けたところで揺れもしない。
「……立花。すまない、急がせたな」
「いえ。予定より少し早く着く予定だったので、むしろ都合が良かったです」
「そうか。それなら良かった」
言葉の終わりに、綻びかけていた唇が固着する。固く引き結ばれたそこには、ありありと悔恨の色が浮かんでいた。
「ああ、いや。良いことは、ないか。こんな日に」
寒々しく、固い、終わってしまった黒をまとって、カイさんは首元のネクタイに触れた。当然ながらそれだって、準喪服と揃いの黒をしている。指先に力が込められたから、抹香の匂いが鼻についた。お焼香の名残だろうか。拾い上げられ、僅かに留め置かれ、手放されるもの。白く、赤い炭は櫁の粉末を燃やすばかりで、きっと彼の指先を暖めることはしなかったのだろう。そこにある熱はただ、平らかに香りを広げるだけのものだ。同様に炭に宿る火の明るさだって、何かを照らすために灯されたものではない。当然だ。当然の、ことばかりだから。
「行きましょう、カイさん」
だから私は、たまらなくなる。
悲しくて、悔しくて、寂しくて、カイさんを連れ去ってしまいたくなる。
「立花?」
まだ惚けている、けれど少し慌てた声には返事をしない。言葉の代償とするように、予想通り冷えていた彼の指先をきつく握り締めた。
今日くらいはもう、彼をひとりにさせたくない。そう思って、ここまで来たのだ。
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いつか、少しだけお世話になっていた家の方に不幸があったと、彼は言った。
「すまないな。揃って休みが取れる週末は久しぶりだと、話をしたばかりだったのに」
薄曇りの瞳は、正面に座る私を上手に眼差せない。ふたりきりの部屋に、ひたりと夜の気配が迫った。私たちがひとりと、ひとりだった頃の、夜の記憶。相似のそれらは、だからこそぴたりとは重ならない。ただ彼の染み入るような寂しさの気配だけを、理解してしまえる。
私は無理矢理に、口元を和らげた。
「いえ、謝るようなことではありませんよ。カイさんは、出席されるんですね」
「ああ。葬儀と告別式だけだが、出席するつもりだ。ユニヴェールへの入学の際も、書類に名前を貸していただいたからな。それにしては随分と、不義理を働いたが。それでも、だからこそ、出なければならない、と思うんだ」
浅い息でぶつりぶつりと断ち切られた文章は、理性による塗装が間に合っていない。けれど言葉は澱みなく紡がれ、血も滴りそうな剥き出しの感情が私には見えにくい。
カイさんは義務や、役割で動けてしまえる人だ。それがあまりに窮屈な鎧であっても、どれたけ高い踵であっても、自分がひとたびそうすべきだと思えば逡巡せずに身につけられる。そして彼はお仕着せられたものに肉を食い破られながらも、周囲にとって賞賛に値する結果を残せる。そう振る舞わなければ、カイさんはここまで歩んでこられなかった。だから湿った瘡蓋も歪んだ骨格も、迷いなく愛すべき彼の一部だ。
「……それなら」
けれども、カイさんの型に嵌ろうとする微笑みを見るたび、心がすうと冷めることを自覚する。この感情の正体に、私はまだ追いつかれていない。だって寂しさは長い友人だ。悲しみに浸りきるにはもう遅い。憤りとするには熱が足りない。望みを絶つ必要はここにはない。
追いつかれていない。奪われていない。
今は、まだ。
「せっかくのお休みでも、あるんです。お葬式の終わった後で合流するのはどうでしょう? 私は午後にそちらへ着くようにしますから、そのまま近くで1泊しましょう。カイさんが、良ければですけど」
気づけばそんなことを提案していた。今になって思えば、少し意地になっていたのかもしれない。何故って、私はこの話を聞かせたときの彼の顔を憶えていないからだ。きっと、逃げるように屁理屈を並べていたのだろう。
「旅行しましょう。一緒に」
忍び寄るやるせなさに、追いつかれないために。
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チェックインまではまだ時間があるからと、先に少し遅い昼食を食べることになった。
駅から少し歩いたところにあるお茶屋さんは、2階で喫茶店を営んでいるという。電車の中で調べておいたことを伝えれば、カイさんはいつもより少しだけ言葉少なにお礼と肯定を口にした。昼下がりの商店街を通って目的の店内に入ると、ちょうど昼食と喫茶の切れ目の時間だからかお客さんは疎にしかいなかった。
「わ、本当にお茶の葉の緑ですね」
「そうだな。いただきます」
カイさんは茶蕎麦、私は緑茶の葉を使ったクリームパスタを頼んだ。まだ湯気の立つスパゲッティをフォークで巻き取る。
「……美味しい!」
「うん」
見た目や味付けはジェノベーゼのようだけど、こっくりとしたクリームが口当たりをまろやかにしている。そこにお茶の風味が吹き抜けていく。平打ちの麺はもちもちと、振り掛けられたあおさに絡む。美味しい、美味しいけれど、何がどう美味しいのか悩ましいお味だ。
「すごい、どうやって作っているんでしょう……。あ、カイさんもぜひ一口食べてください。空いた小鉢のところに入れてしまっても良いですか?」
「あ、ああ。それは構わないが、その、そんなに美味しいなら立花が食べれば」
「だめです。一緒に食べてください。でないと家で再現できないじゃないですか」
わざとらしくはならないくらいに、私ははしゃいでみせる。きっとこんな薄い演技、彼には見抜かれてしまうだろう。そんなことは十全に理解した上で、なおも笑った。つられてくれたように、カイさんも笑う。少しの強張りを隠さないまま。
「それなら俺も、お返しに。流石名産地だな。香り高い、とても美味しい茶蕎麦だ」
演じて、装って、そうあれかしと体現した感情に、本心と呼ばれるべきものが存外引き摺られることを、私たちは身をもって知っている。いいや、こんな言い方は少し格好つけすぎているのかも。
ただ、微笑みたいの。
微笑んで、いてほしいの。
ああ、そうだ。
食後の柔らかに温まった声を上げ、カイさんは鞄を膝に乗せた。
「あの家の娘さん、と言っても俺より歳上なんだが、まあその方にこのあたりの観光地のパンフレットなどをいただいたんだ。クーポンが付いていると言っていた。せっかくこんなところまで出てきてくれたのだから、あんまり何にもないところだけど、良ければゆっくりしていってくれと」
食器を端に寄せた木の机に、ぱらぱらと色鮮やかな観光案内が散らばった。私はそれをひとつずつ目で追う。
トレッキングの案内の隣に、湾内を巡る遊覧船の写真が並ぶ。水墨画に重なるのはテディベアの微笑み、それからきらきらしいステンドグラス。よりどりみどりだ。山も、海も、美術館もある。パンフレットたちには普段の街では見ないような景色が切り取られ、いかにも行楽地といった風情だ。
「どこかへ出かけるなら、一度旅館で荷物を置いてからの方が良いかもしれない」
「はい。それにしても、こんなにたくさんあると目移りしてしまいますね!」
「そうだな」
長い指が紙を撫でる。彼がパンフレットをなぞるほど、その指に色が移るように思われた。ううん。そうあってほしい、のかも。カラフルに、鮮やかに、色めいたものに、可能な限り触れてほしい。あくまでさりげなく、彼の顔を窺う。白皙にかかる黒髪は、朝日に透かされる稲穂の瞳を額装する。みしりと骨と筋の質量すら感じさせるほど太い首、その喉仏が確かに上下する様にどきりとする。
彼に、それから自分にも言い聞かせるよう、私は深呼吸してから口を開いた。
「楽しみですね。カイさん」
「……ああ。楽しみだ」
演じて、装って、彩って。
ふたりでそう振る舞うのならば、これは本当ではなくとも、空想ではないと言って良いだろう。
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