忠誠心の幻肢痛「君が死んだら戦争をあげる」
ビリーはそう言って微笑んだ。俺は頰を搔こうとして、両手が添え木と共に包帯でぐるぐる巻きにされていたことを思い出す。彼が怒っていることが分かったのは成長か、それとも怒っていることしか分からなかったから退化か、果たして今から考えても間に合うだろうか。
世界を救い始めてから、もう幾度目かの大怪我だった。でも負けてはいないから、俺は今日も生きていた。生きて、なんとかカルデアに帰り着いて、自室のベッドに寝られるようになったころ。そういうタイミングを狙い澄ますように、ビリーは現れる。特に挨拶なく部屋に入ってきて、デスクに備え付けの椅子をベッドの横まで引きずってきて、無言のままどかりと偉そうに腰をかけた。それで俺からかけた声を遮って、言うことには。
「戦争って」
「うん」
俺の声に、彼はいかにもとってつけたような完璧さで笑った。自然と眉間に皺が寄るのを感じながら、曲がった唇の内側で言葉をより合わせる。華やかな笑顔とは裏腹に、ビリーはそれきり黙ってしまった。そのくせ席を立つ素振りはないのだから、きっとまだ言いたいことがあるのだろう。
「戦争をあげるって、ビリーが、その、始めるの?」
「ああそうとも。馬小屋に火を放ち、勝手口以外の窓と扉を残らず壊してやる。そしたら誰もがひとつの出口に詰めかけるだろ? めくら打ちが捗るってもんさ」
「分かった、ごめん」
「ごめんだって! なんだよそれ。君、今なんで謝ったんだい?」
脱輪した勢いのままに回る唇を止めたくて口にした謝罪は、歯切れの良い嘲りに笑い飛ばされておしまい。ビリーの失望が剃刀のように首筋に押し当てられる。そうなってくるともう呼吸だって楽にできない。俺は存外、彼に嫌われたくないみたいなので。だから慎重に、けれど怯えては見えないように、充分な量を呼吸をした。
「今度こそ死んだかと思った?」
俺は確かにこう言った。だから本当は、ビリーに怒られるきっかけなんか明白だった。ただこんなに怒られると思っていなかっただけ。
「俺は正直、ちょっと思ったよ。笑っちゃうよな」
だって何気ない台詞だった。あるいはビリーには、必要以上にそう聞こえてしまった。安心してほしいとかいう下心は唇に過剰な油を指すらしい。あるいはアルコールを? なんて、お酒なんかまだ飲んだことないんだけど。
思わず溜息をつく。当然ながらただの人間の吐いた息には体温以上の熱は宿らなかった。息を吐くだけで炎が周囲を包む方がおかしい。火を吐く竜を、絵本以外で見ることになるなんて思わなかった。俺はどうしようもなく愚かなので、神話みたいなその姿に見惚れてしまう。カッコいいなって見上げて、自分の腕が燃えるまで動けなかった。こんなことは今に始まったわけじゃない。おかしな、常識であったことにまるで縋れない世界で、俺は生きてしまっている。
「マスター」
凪いだ重油の輝きで、彼の瞳は俺の返答を待ち侘びる。ほんの一瞬だけ、ビリーの言葉に頷いたらどうなるのだろうと思う。ビリーは、誰かの家に火を付けるのだろうか? 逃げ惑う人間を端から撃ち殺すのだろうか。まぶたに思い描いたその様は、荒れた筆先で描いたように、あるいは日に焼けた写真のように、とうの昔にぼやけていた。
それでも確信がある。きっと俺が首肯したら、あるいはそれも悪くないと笑えば、彼は実行してしまう。心底冷えた笑みを浮かべ、思う様に戦争を始める。そうして多分今度は捕まることはなく、どんな姿になっても戦い続けるのだ。
「ビリー」
彼の瞳が俺を眼差しながら、水晶体よりも奥でいつかの牧場主を見ていることに、俺はとっくに気がついている。せんそうをあげる。開き切らない口の奥で、アルファベットは牙を持つ。笑顔を装った皮膚の裏側で、朽ちた頬骨はナイフへ転変する。そうしてビリー自身を滅多刺しにするのだろう。
ビリーはいつか、死人のために戦争をしたという。だから今、彼の身にのこされた幻肢痛は、果たせなかった忠誠だ。もしくは欠損しか残っていない友情。あるいは塗り潰したつもりの悔恨。
俺は。
「俺はそんなもの、要らないよ」
彼は暫く俺を見ていた。光の下では冬の空のように鋭利な青をしている瞳が、白皙の頬の内で深海へ沈む。唯一そこへ灯ったハイライトは、探照灯よりも暗くこちらの真意を伺っていた。藍色に煙る灰。冷たく、暗い眼差しを、俺はただ見つめ返す。
「……あっそ」
長い沈黙の後で、ビリーはテンガロハットで表情を覆う。顔を隠したまま、吐息にそっくりの相槌を打った。その声を聞いて、俺は彼の呟きを鼓膜から逃す。きっとこれは、少年悪漢王の伝記には載らない台詞だから。
「そういや僕も、戦争なんか嫌いだった」
鼓膜から逃して、それから、俺は俺のともだちの言葉を脳裏に刻む。