マゼンタの獣マゼンタの獣
呼吸を遅くした。膨れ上がる熱量を、思うまま使い切るために。
増殖する心臓が視界を揺らし、思考の乱れを対消滅させる。左足に理性と衝動が爆発的に収束する予感があった。いいや、俺はそれを、確信へ変えたのだ。収束しろ。だってまだ、こんなところじゃ終わらない。終わりたくない! だから、地面に突き刺した右足を軸に体を捻った。ボールを見据えたのはたった一瞬で、あとはもう前へ、遠く、遠くない、ただ前へ、未来、違う、前、前に、遠くない、前、ぶち抜ける、前、俺の、前は、前、俺の、ゴールに!
ありきたりな体験談みたいに、スローモーションなんか見えなかった。ボールは当然のように、見知ったそれよりはやく、ネットを揺らす。
かあっと体温が上がる。眼球の奥、頭が、酸素を取り込んで燃える。
あれが、俺のゴールだ。
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「寝付けねえ……」
裸足で歩く廊下がやけに冷えて思えた。それだけ己の足が熱を持っているのだろう。足だけではない。体のどこをとっても、頭の中ですら、まだ熱を帯びている。食堂で水でも飲みゃマシになるかと思ったが、これじゃ正しく焼け石に水だ。とても寝付けはしないから、俺はひとり、監獄を徘徊する。
一次選考を終えたこの場所は、ひどく静かだった。これまでは姿は見えずとも人の動く気配がどこかにあったのに、それすらも感じ取れない。廊下には寒々しい常夜灯がぽつぽつと並んでいるが、その輝きは眩しさと呼ぶには程遠い。あんまり音がしないから、俺は自然と耳を澄ましてしまう。耳が勝手に、潮騒を探してしまう。ここにあるはず、ないのに。
けれど不意に、光を見た。
いくつかのブロックの先、細く開いた扉。そこから漏れるのは月にも太陽にも似つかない、人工的でカラフルな光だった。ここ窓ねえから当然だけど。それでも、見つけてしまった一条の光から目が離せなくなる。
後になって思い返してみれば、多分頭がかなり回っていなかった。でなきゃ誰がいるかも分からない部屋を覗き込んだりしなかっただろう。あの時の俺は静けさと、寒さと、疲労で随分ぼんやりとしていたらしい。緊張の糸がふつりと切れて、取り戻せなくなった凧みたいに漂って。だからその仮初の明るさに惹かれるまま、俺はその扉に手を掛けた。
「あれ、國神じゃん」
「……千切」
照明は落とされて、ただスクリーンばかりが煌々と部屋を照らす。その中央で、片膝を抱える男がいた。マゼンタの髪を揺らし、振り向いた千切は俺を見る。
「何やってんの?」
「寝付けなくてそのへん歩いてた。お前こそ何やってんだよ」
「俺も同じ。あんな試合やった後じゃ、寝落ちでもしなきゃ寝てらんねえな」
座るか? と手招きする面立ちは、少女よりも少女らしい。遠目に見れば、それこそどっかの可憐なお嬢様みたいだ。けれど俺は知っている。獰猛な隕石ように、グラウンドを切り裂くこいつの姿を。誰も追いつけない、追い縋る手も足も置き去りにする、孤高の背中を。
最初から行きたいところなんてなかった。だから俺は、部屋の中へと進んでいく。壁に投影されるのはいくつもの画面で、その全てにサッカーの試合の様子が映し出されていた。音声は切られており、試合の様子だというの「妙な寒々しさを感じさせる。
「何見てんの」
「うち以外のチーム同士の試合」
「研究か」
「そこまで真剣には見てねえよ。まあ、俺は2試合サボってたからな。せめて知識くらいはつけとかねえと」
歩み寄る途中で、その言葉に立ち止まる。意図せず止められたせいで、足裏が冷たい床に押し付けられた。決して深く知っているわけではない。けれど、吹っ切れた口調で語られた彼の傷をもう知っている。右膝前十字靭帯の断裂。それはサッカー選手にとって、比較的ありふれた死神の名前だ。手術と長いリハビリをこなす以外に復帰の道はない。そして千切は、2度目はないと宣告を受けたと言った。いやに流暢で、言い聞かせるのに慣れた声だった。
彼は立ち止まった俺を怪訝そうに見上げ、それからすげえ不機嫌そうに眉を寄せた。
「んだよその顔」
「あ、わり。その」
「俺の怪我のこと考えたんだろ」
図星を刺されてしまえば返す言葉もない。もう一度謝りかけたところで、千切は黙って自分の右隣を指した。座れということだろう。座るけど。
「お前が気にすることでもねえだろ。つーかここはブルーロックだぞ。全員が全員ライバルで、いつ自分のサッカー生命が絶たれてもおかしくない。他のストライカーの弱点くらい、都合が良いって笑えよ」
千切のまっさらな頬に、スクリーンの光が反射する。けれど瞳だけは、何色にも混ざらずに生来の色を残していた。原色の眼差しは、自らのいないグラウンドをただ見据える。その上で躍動し、蹲り、立ち上がり、駆け、ゴールを奪うことしか考えられない生き物たちを、彼はただ見つめる。
笑えよ。このイカれた監獄は、周囲にいる誰も彼もをぶっ潰せと囃し立てる。理解できないわけじゃない。共感すらしてしまえる。今まで言葉にはならなかっただけだ。言葉に、するべきじゃないと思っていただけ。本当はずっとこうやって、俺は俺の左足でフィールドの全員をぶちのめしたかったった。そう気付かされてしまった。俺はもう俺のためだけのゴールの快感を、何度も、味わってしまった。
それでも。
「俺は、同じストライカーとしてお前のことを尊敬している。だから笑わねえ」
それでも他人の傷を笑うものではなく、蹴落とす材料にするべきものでもない。俺はまだ、そう在りたくない。
千切は数秒の間スクリーンを見たまま動かず、それからがばりと俺の方を仰ぎ見た。何の気なしに見下ろしていた頭ごとこちらに向けられ、無遠慮にぶつけられる視線に身じろきしてしまう。やつはそのまま、目を逸らした俺をすみずみまで眺め回した。心なしか楽しそうですらある。何でだよ。
「あの、お嬢? 急にどうしたんすか」
「お前まじで、まっすぐなやつなんだな」
「うるせーな悪いかよ」
「いいや。悪かったのは俺」
あまりに晴れ晴れと言い切られたから、俺は頭の向きを元に戻す。彼は口元をいかにも面白そうに歪めていた。緩んだ唇からは、ふ、ふ、と抑えきれなかった笑い声まで漏れて聞こえる。
「つまんねえ八つ当たりして悪かった。本当はさ、お前に笑われなくて、ほっとした」
その口元は、確かに笑顔を象っている。濁りゆく瞳とは違って。
ふ、ふ、ふう、う、ふー。いつしか笑い声は、痛みを堪える吐息に似ていった。長く吐いた息で、体の熱を逃しすぎてしまったのかもしれない。細くしなやかに軋む背が小さく震えた。
「膝が痛むたび、腹の底が冷える感覚がある。そのまま全身が凍っていきそうなくらい、寒気がするんだ」
千切は言葉の切れ目で、深く短い息を吐いた。だから単語は文脈を無視して断ち切られ、そこに乗っかった感情ごとぶつぶつ地面へ落とされていく。彼は己の立膝を抱き竦めた。鼓動の熱を、傷口へ与えるように。あるいは、俺の視線からそれを庇うために。
「俺はいつまで走れる? 俺は、いつ、置いていかれる」
今、ここはひどく静かだ。真っ青な熱狂は一時的に使い切られ、エゴイストたちは眠りについた。次の戦場と掴むべき栄光の夢を見ながら。朝が来てしまえば、こんなことを考えないで済むはずなのに。グラウンドの上ならば、悩みも迷いも置いていける。けれど、足を止めた瞬間から体は冷めていく。醒めていく。自らがどれだけ速く、熱くなれるかを知っているからこそ、ひとりの夜はひどく寒い。千切の吐く声が白く煙らないことを不思議に感じるほど、どうしようもなく寒い夜だった。
「……俺は、その質問には答えられない」
ガチガチに固まった、みっともない声だっただろう。けれど俺の言葉に千切は笑った。聞く前から分かっていたって、ああまたかと言いたげに。それは紛れもない諦めから生まれた笑みであった。新品のチューブから絞り出したばかりのインクが乾き、褪せていくように、彼の瞳が固着する。
気に入らねえ。反射的にそう感じていた。他人の怪我の話だ。そんなふうに言うべきではないと知っている。でも、抑えきれなかった。
俺のことぶち抜いた選手が、そんな顔してんなよ。
「でも、今日の試合のお前は速かった。今のお前は、間違いなく熱い」
置いていかれる。それは確かに、いつか彼が迎えるべき終わりの姿ではあるのだろう。全ての熱を失い、力学的エネルギーは枯渇する。でも、それは今じゃないだろ。お前は今、凍ってなんかいないだろ。鎖に巻かれて、壊れるのを待つだけの置物じゃないんだ。だって憧れも焦燥も共感も、己の諦念すらぶっちぎって走っていた。落ちていくと理解しながら、過去にはもう戻れないと知っていながら、それでも振り返らずにボールを追い続ける姿を俺は知っている。
「光みたいに、熱い」
俺が知っている千切豹馬は、ストライカーであるために駆けていく、マゼンタの獣だ。
彼の瞳が見開かれた。スクリーンから反射される色彩全てをねじ伏せて、赤色は眩しく輝きを帯びる。薄暗い部屋の中で、それはまるで朝陽のようだった。朝焼けの始まり。夜明け前の暗闇をこじ開ける、小さくも決して後退しない光。地平線から落ちるあの輝きを、俺はよく知っていた。それをまだ知り合って間もない目の前の男に見出してしまったのは、なんでだろ。
「……そこは速い、だろ」
「あ。まあ、そうかもしんねえな。でも良いだろ、個人の感想なんだから」
「そりゃそうだ」
火が灯ったのだ。そのまま激しく燃え盛っていく。周囲から際限なく酸素を奪い、瞳は熱と光を生む。その爆発的な煌めきを、俺はただ見据えた。
「良いなあ、それ。お前にとって俺は、光みたいに熱いんだ」
目に、焼き付けたいと思ったから。