楽園で待ち合わせ楽園で待ち合わせ
「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公」
まほうのじゅもん、を、唱えた。
「四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
特異点F、いつか冬木と呼ばれた街を踏破し、カルデアへと帰還したわたしに手渡されたのは、小難しい言葉の並んだルーズリーフだった。
「告げる」
ご丁寧にふりがなまで振られたそれは、久しぶりに見る日本語だった。カルデアに来てから英語ばかり聞いていたわたしには、ひどく懐かしい。だから耳慣れない単語の羅列を嬉々として読み上げた。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
それが何のために紡がれる言葉か、ろくに考えもせずに。
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応ェ」
不意に喉が燃えた。驚きよりも早く、唇から血が伝う。内臓が、魔力が? 欠損する気配があった。召喚室と銘打たれたばかりの部屋に置かれた、あの頼もしいマシュの盾から金色が溢れていく。光は一筋、二筋と弾け、みっつめの奔流の前で明るさを失う。失う。代わりに暗く、夜のような何かが現れて、わたしはその場にへたり込んだ。視界が奪われるほど暗い。マシュとドクターの声が聞こえないほど黒い。そのはずなのに、一瞬前までそこにあった熱量は失われていない。
子供のような比喩が脳裏を過った。これは、これはまるで。
「サーヴァント、アサシン。テスカトリポカ」
黒い、太陽みたいだ。
「お前の望みは?」
太陽みたい。獣みたい。炎みたい。煙みたい。地面みたい。作物みたい。地獄みたい。武器みたい。利器みたい。安らぎの国みたい。嵐みたい。濃霧みたい、みたい、ようだ、如く、例示、比喩、形容を無限に許容する情報の濁流。後から思えば当然だ。わたしが喚んだのは、確かに存在していた文明の象徴。文字通り、何でもできるし何にでもなれる。目の前の彼にかかれば、破壊も想像も過去も未来もそのスイッチングも呼吸より自然に為されるのだろう。
やぶれかぶれの脳味噌でも、たったひとつだけ確信を得られた。
これが、かみさま、だ。
望み。鼻から垂れた血の冷たさで、僅かに自我が回帰する。望み? 寄る辺ないわたしは、ただ投げられた問いかけを無様にも掴んだ。わたしの、望み。散り散りのシナプスは爆発的に洗練され、ちくちくと意識の前提を励起させる。
「わたし、は」
そして奇跡というものがあるとすれば、わたしはきっとこの瞬間に使い切った。
「ころしたく、ない」
導かれるように望みは口をつく。
殺したくない。誰も、何も、ひとつも、殺したくない。
それは確かにわたしの本心で、芯から願っていることだ。殺したくない。死にたくもないのだけど、それよりもずっと、殺したくない。何かを殺すことだけは、絶対にしてはならないことだ。意識するまでもない、なかったはずの、望み。だって、だって殺してしまったら。
黒衣の男、おとこ、の形をした神様、は、名乗りも立ち上がりもしない私をただ睥睨した。銀に、灰に、青く燻る瞳が、ゆるりと細めらる。
「そうかい」
そうして彼は、わたしから視線を逸らした。そのままひどくつまらなそうに、コートのポケットに手を入れる。奪われたままの視界が更に色を失って、わたしは彼に背を向けられたことを理解した。
「それならばオレは、お前を見ない」
眉間に軽い衝撃が走る。わたしを撃ち抜き損ねた、小さな何かをわたしは無意識にキャッチした。何か、髑髏、キャンディ? 茶色の眼窩と目が合って。
そのまま天井を仰ぎ、自分の目蓋の色を知る。つまり、ぐるり。眼球は回って、自我は眠った。
「なんだよ。それが戦う気のないガキを前線に立たせる司令官のツラか?」
だから知らない。気を失ったわたしとマシュは、残されたドクターに神様が何と言ったのか知らない。どのような裁定を下そうとしたのか、知らない。
「…の………ぃ……………だ」
「あ? 驕りだろうよ、それは」
「それでもーーーーは……………。それなら………」
知らない。わたしは結局、ロマニ・アーキマンが彼に名乗った名前も、使命も、密約も、ぜんぶがおしまいになるまで知らなかったのだ。
「…………。であれば、この場は見逃してやろう。世界の滅亡なんて当然のことだと思うがね、オレ自身が今ここで終わらせてやる義理もまあないわな」
教えてって、言わなかったのがいけなかった?
#
殺したくない。
それからのわたしと、かの神様の間に語られるべき事項はない。わたしは7つの特異点を修復し、彼はシャドウサーヴァントとしてわたしに召喚されることすら拒否した。その一方でカルデアの総力をあげる必要のある戦いの際には、ドクターの指示のもと戦場へ駆り出された。もちろんわたしには一瞥もない。わたしも、彼の鏡のような瞳から逃げてばかりいた。
見殺しにしたくない。
そう思って、望んで、わたしが掴んだマシュの手は、カルデアの外で太陽に柔く赤の血を透かす。あの子はいつだって博識で、それなのに何もかもを新鮮に瞳へ映した。それが微笑ましくて、だからこそキャメロットから帰還した後に明かされた事実が許せない。既に完遂された、手の届かない悲劇。その途上に立つわたしにできることは、きっとないのだ。だけど変わらず先輩と、そう呼ばれるたび、わたしはせめてその言葉に恥じぬように生きたいと思った。あのときの出会いを、マシュにとっての間違いにだけはしたくないと。
思った、のに。
終局に流星雨が降る。
少女はそっと、蒸発する。微笑みを湛えて。
雪花の盾はあまりに眩く、網膜が痺れるほど白かった。しろい、てのひらだった。そんなことをどこかで思っていた。礼装はわたしの体を守るため、外部からの衝撃を遮断する。だから、いつの間にか、あの子の温もりすら取り零していた。蒸発する。彼女が人としてここにいた証は、置き忘れられた無骨な盾がひとつ。わたしはそれを、それに、手を沿わせて、自らの体温がただ奪われていく感覚を追いかけようとする。
蒸発する。喪われる。死んでしまった。
目の前に立つ人類悪が何か宣った。わたしには聞こえない。魔術王は怒っているようであった。わたしには届かない。ゲーティアは皮肉と悲しみの区別すらついていない表情だった。わたしには理解できないし、したくないし、もうどうだっていい。
ただ謝りたかった。許されたくなかった。ごめんね、マシュ。わたし、結局あなたをひとりで死なせてしまった。手を、取っていたはずなのに。
ぼろぼろと、わたしの安くて甘い唯一の矜持が崩れる。いつか口をついた望みは腐食した。道徳と人倫は剥がれ、極めて動物的な地金がぎらぎらと思考を尖らせる。傷だらけの円卓に縋りついて、わたしはいつかの呪文を思い出す。これが魔法じゃないと、もう知っていた。教えてもらった魔術だって、結局少しも使えない。それでも、わたしにしかできないことがあるとすれば。
「告げる」
かの神様は、召喚時にわたし自身の魔力を喰らっている。つまりわたしたちの間には、他のひとと比べて強力なパスが通っている。
わたしは彼を、引き摺り出せる。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
忘れかけのでたらめな呪文が喉を破った。魔力を掻き集めるほど血は突沸し、眼球から口腔から吹き溢れる。膝から脚がはずれそうで、必死に円卓へしがみついた。ああ、わたしまだ、マシュに守られてるね。ごめん。頼りない先輩で、ごめんなさい。それでも、だからこそ、ねえ。ねえ神様。かみさま、かみさま、わたしのかみさま!
「降し、降し、裁きたまえ。天秤の、守り手よ!」
流星雨のおしまい。黒い太陽はおちた。
いつかと同じように時間すら平伏させて、黒曜石の鏡の下で神様はわたしを睥睨した。いつかと違うのは、わたしがまだ膝をついていないこと。そして、彼から目を逸らさないこと。
「お前がオレを喚ぶのか。 星見の塔で自他の生存のため戦う者ではなく、たったひとりの凡愚に光を見た少女ではなく、唾棄すべき臆病者のお前が」
「はい。あなたは、わたしの知るひとの中で最も強いもの、だから」
「そいつは重畳。掴まり立ちじゃなきゃ口説かれてやっても良かったんだが」
褪せた色硝子の向こうで、鈍色の視線が円卓を撫でた。惜しむように、敬意を示すように、密やかに、眉がひそめられる。けれどそれは一瞬のこと。彼はまた青い瞳でわたしを見下ろした。何もかも死に絶えた地平で、不意に風が強くなる。赤く、黒く、真白な嵐の気配だ。心臓を食い破る蛇のように、手の甲で令呪が脈動した。
「では召喚者よ。もう一度だけ聞いてやろう。命を賭けて答えろよ?」
奇跡はもうない。守ってくれるひとはいない。返答を誤ればただ死のみが下賜される。
「お前の望みは?」
武器を持たないわたしが掴んでいるのは、つめたい金属だけ。二度と熱を帯びない、あの子の盾。
「殺したく、なかった。だけど、殺されてしまったもののために怒ることは、生きているものにしかできない。わたしは、許せないものを許したくない!」
それだけで充分だ。
「戦って。戦って殺せ! アサシン!」
高らかに、獣の声が夜を裂く。激励にも鎮魂にも聞こえる天高い咆哮が、神様からわたしへの返答だった。空に浮かんだ太陽は鏡のようにひび割れ、落下しながら鋭くなる。無数の欠片たちは創造主の唸りに従い最適化される。あるものは灰に、あるものは羽飾りに、そしてあるものは槍に、ひとを殺す形に。地平線が伸びる裁定の場は開放され、滞っていた時間の流れは融解し、わたしたちは時間神殿へと立ち返っていく。
「良いだろう、マスター! いいや、藤丸立香よ。望みは確かに、このテスカトリポカが聞き届けた」
黒衣は翻り、その姿を戦士のものへと変容させていく。金の髪だけは変わらない。とうに失われたはずの、けれど、だからこそ蘇る太陽のように。
「これはひとりのために、世界を滅ぼす戦いだ」
神様の眼前で、わたしの望んだ戦いが始まる。
#
「まあ座れよ、お嬢。ひとつ、聞きたいことがあったんだ」
夢を見ている。背中ばかり向けられていた、眺めていたはずの神様は、今わたしを見ている。
「お前さん、どうして殺したくないんだ?」
曇天の下で、焚火はもくもくと煙を上げる。迷いも躊躇いもふわふわになってしまったわたしは、ここがどこかも、どれほど歩いていたのかも、ここに来るまで自分が何をしていたのかも忘れて、ただ呼びかけられた声に従った。放り出されたまま朽ちる倒木に腰掛け、向かいの彼が吐いた煙を吸い込む。ぼんやり肺に落ちていく香りに連れられて、思考はやわやわと解けていった。
「殺したくない、理由はきっと、単純です」
煙った空。今ここに、太陽はない。生命の生まれる余地もない大地で、わたしは思考以前の意志を掘り起こす。
「だって、生命は可能性だと思うから。様々に分岐し、きらきらと伸びていくもの。わたし以外の何もかもから繋がれてきたもの。その行く末を理解しえないわたしが、どうしてそれを断ち切ることができるでしょう」
彼はサングラスの奥で目を瞬かせた。焚火の不規則な煌めきは硝子を乱反射させる。煙草を吸って、吐くほどの時間を開けて、神様は僅かに顎を引いた。
「そりゃ確かに殺せないわな。最新の人間の考えそうなことだ」
「最新の人間?」
「ああ。理解しようとする前から、知ってしまっていることが多すぎる。絶滅を知らない世界において、キャリーオーバーされる累積知と責任の重力はさぞ厳しかろうよ」
朗々とした声に理解が追いつかず、ひとりでに首が傾く。分からんでも良いと言わんばかりに手が振られた。だからわたしは、ひとつだけ自らと結びつけられた単語を手繰る。
「殺せない、ひとつも殺したくないと、思っていました。それでもわたしは、ひとを殺しました。望んで、選んで、戦って、殺した。だからここにいるのでしょう?」
「そうだ。オレはお前を戦士と認めた。だからここにも招けたってワケ」
戦士。魔術王の、ひととなった魔術式の、怨嗟と惜別が蘇る。それからわたしを理由に死んでしまえた女の子の微笑みが。手の甲を見れば、まだそこには令呪が染み付いていた。罪人の証の刺青ならば、死後へも持ち越せるのかしら。おかしいの。なんて、そんな感傷はほどほどで止めにする。それからただ背筋を伸ばした。ようやっと、彼の瞳を正面から見られたように思う。
「わたしの戦いを見届けていただき、声を、聞いていただき、ありがとうございました。本当に、感謝しています。……お礼が言えて良かった。これで地獄へ落ちられます」
「あー。色々言いたいことはあるんだが、お嬢死んでねえからな?」
「え」
それはおかしい、帳尻が合わない。そんな反論が口をつきそうになって、不意に右手を強く引かれた。右手、動かした覚えもないのに、腕は安らいだ薄曇りの空へと引っ張られていく。いつか乞われた手。重力なんて当然無視して、体は上へ上へと釣り上げられた。右手。いつか、また、伸ばしてもらった?
「な、え、どうして!?」
「残念だが時間切れでね、詳しくはそっちのオレに聞いてくれ。ああでも、そうだ。最後にひとつ」
空は近くなる。地上が遠くなる。人影は小さくなる。熱量が大きくなる。天空から一本釣りされるわたしを見て、彼は小さく肩を揺らす。そうしてサングラスをずらした神様は、随分人がましく薄い唇を歪めた。
「ここまで来ておいて、地獄に落ちるなんてつれないこと言うなよ。オレは、お前と話をするときを待っているんだぜ」
#
目を覚ましたわたしを迎えたのは新しい年と、青い空と、喪ってしまったと思っていた女の子。それから、座る人のいない所長席。
「おかえりお嬢」
「……ただいま、戻りました」
再会のパーティーを終えて戻った自室で、神様はわたしを待っていた。しかも当然のように、部屋にあるたったひとつの椅子に腰掛けている。もちろんわたしはお呼びしていない。
「なあマスター」
長い長い脚組み替え、彼は煙草を掌で揉み消した。熱そうだと思う間もなく、煙草は煙だけとなる。熱い、訳ないか。このひとは煙そのものでもあるのだから。ぼうと自分を眺めるわたしに気づき、神様は緩やかにサングラスを外した。
「いつかオレがやった砂糖菓子があったろう」
「ええ? はい、憶えていますけど……」
「返せ」
「ヒッ」
「なんだよ、食っちまったのか?」
「まさか! ちゃんと保管してます、けど」
「じゃあ出せ」
横暴! 傲慢! こんなひとだったっけ!? 話したことあんまりないもの分からない!
そんな妄言はもちろん唇の裏に隠したままだ。これまで通り眼差しから逃れるように、マイルームに備え付けのデスクへ手を伸ばした。書き物をするときくらいしか使わないライトの下には、小さなアクセサリー入れがある。ダ・ヴィンチちゃんに貰った、水晶を切り出した宝箱。きらきらした、小さな贈り物だけしか入らないような箱だ。わたしはその中から小さなビニル袋を取り出した。
「こちらでしょうか?」
「そうだな、なに袋詰めしてんだ早く出せ」
「どうなさったんですか本当。はい、出しま」
わたしはジッパー付きの食品保存袋から、そうっと小さな髑髏の砂糖菓子を取り出す。そのまま差し出しように彼に見せつけた。キャンディを摘んだその指ごと、私の神様は喰らった。くらう、くら、くらっ、くらくら喰らう?
彼の歯の隙間から、わたしの魂の欠ける音がした。
「甘やかしは終わりだ。これはもう必要ないだろう? なあ、オレの戦士よ」
だからわたし、頑是ない子供時代はこれで終わり。
ありもしない欠片すら残さぬよう、彼はわたしの指を舐る。害意なんてとんでもない、労りすら感じさせるほどの柔らかさに、産湯にすら例えられそうな温もり。どこまでも拡散していく細い金の髪を揺らし、神様は眼差しひとつでわたしを量った。
喰らわれる。だってこの獣のような、機構のような、あらまほしき万能神は、生きたまま引き摺り出される心臓を希求する。人間のために、求めてみせる。溢れたそばから死んでいく血液を甘受する素振りで、けれどそれ自体を顧みず、ただ死んだ戦士の魂を彼の国へと導くのだ。
血の赤。血の熱。ミクトランパに揺れる、あの焚火。わたしは、戦士として眼差されたわたしは、それを知っている。だから辛うじて、微笑みの欠片を頬に浮かべた。
「……死ぬまで戦士でいられるかは、分からないですけど」
「ほう?」
「でも、ですね」
いつか再び、あそこへ迎え入れられるとしたら。
「待っていてくれる方がいるから、地獄の誘いくらいは足蹴にしますよ」