7月の観覧車 雨が降っていた。7月なのにサァサァと降る雨は冷たくて、顔にあたる雨粒が大きくて。睫毛に跳ねた雫が頬を伝って流れて落ちる。冷たい。冷たくて冷たくて、ぶるりと背筋が冷える。
なんでこんなに冷たいんだ。なんでこんな雨の中で、オレは、
「すまねぇ、遅くなった…!」
聞き覚えのある声に万次郎は振り返る。そこにいたのは雨に濡れた黒いツナギ姿の堅だった。
「…ケンチン…?」
「なんだよ、オマエ、傘くらい差せよ」
言って堅は立ち尽くす万次郎の隣に駆け寄って、ホラ、と万次郎に向けて傘を広げてみせる。堅の手には傘は1本。その傘は万次郎のためのもので自分は雨に濡れていた。そのくせ大事そうに万次郎の頭の上に傘を差す。そんな男だった。
「…ケンチンだって濡れてんじゃん。その傘、差せばいいのに」
「じゃあ要らねぇか。どうせもう濡れちまってるし」
ニカっと堅が笑うと手にした傘はすうっと消える。 濡れてしまったふたりには、もう傘は必要ない。大きく目を見開いて、驚きを浮かべる万次郎の手を掴み、堅は目の前にある遊具を指さした。
「行こうぜ、ほら」
「え…?」
「あれ、乗るんだろ。約束したじゃねぇか。乗りたいって」
堅が指を指したのは観覧車だ。
『こんど遊園地行こうよ。そんで観覧車、乗ろーよ』
『んだよそれ。それじゃなんか、』
『…だめ?』
『…いいけど』
万次郎が思い出した約束は、もう何年も前のことだ。ハハ、と俯く万次郎に、堅は万次郎の手を取って、行こうぜ、と笑う。万次郎は瞼を伏せて、ん、と小さく頷いた。
金色のゴンドラの扉を開けて観覧車に乗る。ホラ、と向ける顔になんだか少し照れくさくてむず痒くて、なんだか少し堅が憎らしい。万次郎は緩む頬をきゅっとすぼめて口元をムスリと絞める。扉を開けると正面には外を覗く窓と向かい合わせの小さなシート。万次郎が腰をかがめて窓際に詰め寄る後ろで、ごん、と痛い音がする。驚いて後ろを振り向けば、痛ってぇと漏らして頭を抱える堅がいた。思わずぷっと噴き出した万次郎に
「観覧車なんて初めてなんだよ」
と照れくさそうに口を尖らした堅が言う。
窓に手のひらを合わせて外を覗く万次郎の隣にどかりと堅が座る。ん?という顔をして万次郎が堅を見つめれば、なんだよ、という顔をする。別に?と緩む顔を隠すように小さく答え、そうっと堅の隣に座る。
ふたり並んで座ったことを合図にぱたんと扉が閉まり、ガタンゴトンと揺れて動き出す。ゴトン、ゴトンと小さな揺れに合わせて並んだふたりの肩がこつんと触れる。こつんと触れて、ふわりと離れ、またこつんと触れる。
触れて離れて近くなって。また、遠くなる。上に浮かんでいくにつれて外の景色が少しずつ離れていって遠くなる。さっきまで同じ高さにあった外灯はもう足元にあって、暗くなった空をぽわりと点す。
「ーーなぁ、怒ってるか」
言い出したのは堅のほうだ。
「待たせたこと?」
「それもあっけど」
「んじゃ、ドラ焼きもってねぇとか?」
「あー、ごめん。持ってねぇわ」
「だよな。会うの、久しぶりだし」
小さく漏らす万次郎に、うん、と堅は短く返す。
「…オマエ、殴ったこと」
それを言い出したのは堅のほうだ。万次郎は背中を向けて窓の外を向いたままだ。
「ごめん」
万次郎は窓の外を向いたままうつむいた。こつんと窓に額をあてて、窓に合わせた手のひらをぎゅうと握る。
「怒ってるよな」
ごめんな、と言って、堅は万次郎の腰に背後から両手を回し、うつむいた背中を抱いた。ぎゅうと隙間のないほどに抱きしめて、万次郎の肩に額を埋める。
肩のくぼみは堅の額を埋めるにはあまりにもぴったりで、万次郎のどんな窪みもどうしてこんなにもしっくりときてしまうのかと思う。
触れたからだはそこから溶けてしまえばいい。どうして互いが離れ離れでいれたのかがわからなくなる。きっと元はひとつのものだったのだ。きっとひとつでなくてはならないもので、離れてしまえばもうなにかが足りない。互いが欠けてしまえばそれは欠陥品に違いない。
互いに互いを欠いたなら、もうそれはなり得ない。生きては、いけない。
「オマエのこと、力任せに殴った。オマエがよけらんねぇことも殴り返せねぇこともわかってたのに。オマエのこと…オレは」
堅がいないと生きてはいけない。万次郎がいなければ、生きてはいけない。互いを失うのなら、生きてはならない。
「ちげぇよ…っ」
そんなんじゃない、そうじゃない。万次郎が伝えたいことはそんなことじゃない。
腰を捕らえる大きな手に触れたかった。背を覆う大きなからだを抱きしめ返したかった。こんなにも頼りなげにうずくまる堅を抱きしめたかった。ここにいるから。オマエと一緒にいるからと、伝えたかった。
会いたかった。会いたかった。ずっとずっと会いたくて、会ってはいけない、二度と会わないと決めて離れて、それでもいつでもオマエのことばかり考えていたんだと伝えたかった。
「…ケンチン」
コツンと肩に乗る堅の頭に万次郎はほんの少しだけ小首をかしげ、堅に触れる。
「ごめん、置いてっちまって」
ごめんな。ひとりぼっちにして。そう口にしたのは堅のほうだった。
堅の声が好きだった。低く通る声が集合を促す声が集会の始まりの合図。その声が響くと誰もが自然に背筋が伸びる。誰よりもチームを思い誰よりもチームを大事にして、そのくせ気安い顔でメンバーひとりひとりに当たり前のように声をかける。隊員は堅に名前を呼ばれてメンバーなのだと実感をかみしめた。名を呼ばれて晴れがましさと誇らしさとかみしめた。誰もが副総長を慕っていた。誇らしいと思っていた。万次郎はそんな男を好いていた。
誰よりも。誰よりも。きっと堅が思うよりも、ずっと。
「オマエ…、なんでっ。いっつも、いっつも、先にいっちまう…っ!オレんこと置いていく…!オレのこと…オレのことオマエ、」
(オレのことが好きなら、一緒に、ずっと一緒に)
こつんとあてた肩の感触を確かめるようにぐりぐりとこすり、腰を抱く腕に触れて掴まえて、ぴったりと寄り添って。
「一緒にいろよ…」
『一緒に いたいよ』
そう願いを込めたけれど、窓に映るのは夜に浮かぶおもちゃ箱のような遊園地。とりどりに浮かんで照らすあかりはオレンジ色に夜を灯し、深い藍色の空には綺羅星があちらこちらに散らばり光る。くるくると回るメルヘンカップ、軽やかに揺れるメリーゴーランド、ふわふわと上下に揺れるドリームバルーン、天にも届きそうな空中ブランコ。夢の世界を巡る遊戯が目の前に広がって、ひっくりかえしたおもちゃ箱のよう。
毎日が楽しかった。毎日毎日、朝から晩まで、次の日までも一緒だった。楽しかった。一緒だった。ずっと、ずっと一緒にいて、いつまでも一緒にいたい。そう思っていた。
好き。そのひとことが言えなかった。もしかしたら、今ならそのひとことが口にできるかもしれない。なのに、ひっくりかえしたおもちゃたちが反射して、窓に堅の姿は映らない。
窓に映るのは万次郎ひとりきりだった。
「…最後まで」
好きだとは言えなかった。言ってはくれなかった。
ガタンと地上へ到着の音がした。夢の時間は終わり、万次郎は自分の手で扉を開き、ひとりきりでゴンドラを降りる。見上げれば星なんてひとつもない。灰色の雨雲が幾重にも幾重にも重なって、さぁさぁと音をたてて雨が万次郎を打ち付ける。
白い特攻服に身を包み、背中には数百の兵隊を従えて万次郎は愛機に跨り雨に濡れる。
三天戦争と呼ばれた抗争は、7月、雨の降る夜だった。
からから からから ゴンドラはまわる
なんどでも なんどでも 円を描いてまわり続ける
なんど進んでも 同じ道の繰り返し
ゴンドラの外を覗いても同じ景色の繰り返し
遠く離れて見下ろす景色は違っても
過ぎてみれば 同じ景色だったと気づいてしまうの
自分の足で駆けているのに 止まることも辞めてしまうこともできないの
からから からから ゴンドラはまわる
あれは観覧車なんかじゃないの
カラカラ カラカラ回る あれはふたりを乗せた回し車