ヨナカーンは愛を拒む これはもう処分してしまわないとならないな。気にいった靴だったのだが仕方がない。稀咲は自分の足元を忌々しく見下ろした。
長く隠し持っていた感情そのままに蹴り上げたそれは、今や稀咲の足元にごろりと無力に横たわる。足元に転がる醜悪を憎々しくも見下ろして、くいと視線ひとつでそれの行き先を促すと、これが最後だとでも言うように稀咲は吐き捨てた。
「さぁ、最後の茶番です。しっかりと努めてくださいよ、ドラケンくん」
◇
拒むことは許さない。背に回された手が佐野を扉の前に促して逃さない。向かい合った鉄の扉は佐野のためにギイイイと耳障りな音をあげて開かれた。その音が悲鳴のように聞こえたのはどうしてだろう。立ちつくす佐野に、こちらですよ、とくすぐるような低音が囁いた。
薄暗いコンクリの壁は伽藍として肌を差す。けれど佐野の肌をざわりとさせるのは煙る冷気だけではない。部屋にあるのは姿を覆われた彼が眠るベッドただひとつだけ。あれはーー、そう視界に入ったその時を狙ったようにぽんと背中を促され、おぼつかない足取りでベッドの前まで押し出された。
目の前に横たわるものを見下ろしたまま、手足をだらりとして立ちつくすさまは吊るされた操り人形を思わせる。そうだ、それが目的だったのだと思い出せば、佐野のありさまも愛しい。稀咲は丁重に目の前の覆いを取り上げる。
「さあ、」
促す声が浮かれ上ずってしまわないように。どうせそれすらも気がつくこともないだろうけれど、演じるならば滑稽であるほうが興味深い。
覆いが取り払われて現れたのは、血気の抜けた精悍な顔。眉間に苦悩を住まわせて尚も美しい、確かに佐野の好いた男の顔だった。
薄く開いたくちびるの形は佐野の愛称を口にしたそのままだ。釘づけになる佐野のさまに稀咲はこみあげる嘲笑を飲み込んで、佐野の重い指先を持ち上げて男のくちびるにあてがった。触れた唇は枯れかさついて、咥内からひゅううと音が抜けていく。
「…いき、てる…?」
血の抜けた灰色のくちびるの僅かな振動に歓喜する佐野を稀咲は小さく制してたしなめる。それにはまるきり反応を示さない佐野に、稀咲は内心で舌打ちをする。けれどそんなことは今さらだ。努めて静かに慎重な声で稀咲は告げる。
「しっかりなさい。あなたが動揺しては、駄目だ」
人の声というのは一種の呪いのようなものだ。心に刻んだ恋しい声音はどうしたって心が揺れる。佐野にとっての龍宮寺の声は佐野を揺るがし鼓舞させる、禍福をもたらすただひとつの音。ただひとつ佐野に響く音。
その声音を真似て佐野を諭す。静かに、そしてより鋭利に深く抉るように。
「彼がどれだけチームの結束に必要か、あなたが一番わかっているはずだ。彼無くして我が東京卍會はあり得ない。彼を無くした動揺を抑えられるのは、あなただけだ、マイキー」
龍宮寺がどれだけ佐野にとってかけがえのないものなのか、そしてそれが失われたのだと突き付ける。唸る声で睨みつける佐野が恐ろしいとは思わない。失くしたものがどれだけ佐野を蝕み腐り朽ち堕ちるのか、思い浮かべるだけで喉が鳴る。
龍宮寺の亡骸から佐野を無理やりに引きはがすのは思いのほか容易い。浮いたからだを振り向かせ、その細い顎を持ち上げて額と額をぶつけるように向かい合う。
「しっかりなさい。あなたは東京卍會そのものだ。例えどんな時であっても乱れることは許されない。毅然となさい」
もう目の前に転がるものは抜け殻に過ぎない。それをじっくり教えるのが楽しくないはずがない。
「聞こえるでしょう。あれは空洞になった器官から持ち上がる空気の音だ。臓器も血流も動きを止めて機能を失った証です」
さあ、触れてみるがいい。稀咲は佐野を促した。
震える声を押し殺したのは佐野のためでもましてや龍宮寺のためでもない。こみあがる嘲笑を飲み込むためだ。副総長という名のもとに、無敵を掲げた男の傍らで降りかかる火の粉を片っ端から蹴散らした邪魔な番犬をついに引きはがしてやったのだ。腹の中から土豪のごとく歓喜の震えが競り上がる。可笑しくて可笑しくて、せせら笑いで喉が焼ける。
「御覧なさい」
ほら、と閉じた龍宮寺の瞼を無理やり指でこじ開ける。伸びた皮のような瞼を剝けば、露わになったマナコは白く濁ってひらたになってぶよぶよとした膜が異物でも見やるように佐野を見返した。もうそこには佐野が好いた鋭利なまなざしの欠片も残っていなかった。
「ドラケンくんがあなたをそんな目で見るはずがない」
佐野に向けられた龍宮寺の眼は今にも流れ落ちそうにどろりとして薄く幕を張る。
「もう閉じてあげましょうね」
ヒトの形から崩れ落ちる様を佐野から遮断するように、稀咲は龍宮寺の瞼をおろす。
どうか少しでも甘やかに聞こえるように。佐野に浸みこむようにと稀咲は努めてゆっくりと呪いを囁いた。
ドラケンくんはあなたの中にいる。あなたの中に生きている。あなたのために、死したのだ。さぁ、これでーー、
「ドラケンくんはあなただけのものになりましたね」
佐野に甘い呪いが降りかかる。
「オレ、だけの…?」
初めてその声が届いたような顔をして佐野は顔をあげた。その幼い顔つきは出逢った頃の無邪気さを忍ばせる。腕力と俊敏さと己の器量を武器に輪郭も朧な幼稚な夢を語った頃の。
まじないはいちど浴びればあとはただ無力に受け入れるだけでいい。身を任せるだけでいい。
美しい男だと、物を言わなくなった龍宮寺に思う。中でも美しいと好んだのは鋭い眼光を放つ目だ。その目は佐野への情を隠さない。
この目に写る自分は愛されていた。そう信じられた。触れることも抱きしめることも、そんなものは最早不要なのだと思えるほどに。
なのにその瞳は濁り腫れて膜を張り、もう佐野を写さない。
ならばいっそ、その目玉をくりぬいて白玉を切り裂けば、龍宮寺の中にある自身を確かめることができるのか。
チームを大きくしたかった。そうすることがふたりで思い描いた夢に繋がっているのだと思っていた。なのに16になって17になって、20になる頃にはもう法の囲いからはとうにはみ出して、描いた道筋が見えなくなっていた。龍宮寺の説く言葉が遠く煙たく感じ始めると、佐野は引き返すことも立ち止まることもできなくなっていた。
龍宮寺の瞼は佐野を拒むように閉じられている。閉じた瞳に佐野はもういちどだけ、と思う。答えてほしいのだと。もういちどだけ答えてほしいのだと。
オマエの中のオレは果たして共にあったオレのままなのか。オマエはまだ、オレだけのオマエでいてくれるのかーー。