3.おバカと子供 黒子は時々、本を読む。
だいたいは、いつもみたいに感情の分からない顔で字面を追っているのだが、今日は時々、何かを考えているかのように視点が止まった。
「なあ黒子、なに読んでんの?」
火神が手を止めて黒子に聞く。
「いいから、火神君はさっさとノート写してください」
顔を上げてそれだけ言うと、黒子はまた手元の本へと顔を下げた。
授業中に寝ていた火神は、当然ノートをとっていない。コピーすればいいわと考えていたら、まさかの提出しかも朝イチ、手書き以外は認めないという三重苦を負うはめになってしまった。
当然、泣きつく先は黒子である。練習後、片付けもそこそこに、黒子の手を引っ張って帰宅した火神だ。
マジバで写すという手もあったのだが、いつ終わるかも分からないものを延々イスに座って書き写す自信がなかったし、自宅というプライベートエリアで黒子を独り占めしたかったという下心も少なからずあった。おかげで、案の定作業は難航しているものの、火神の想像よりは捗っているという状況だった。
「本読んでっと眠くなんねえ?」
「なりません」
「あーそう」
余裕の出てきた火神は、ノートを写しながら黒子に話しかける。
飽きてきたのもあるし、これが終わったら黒子は帰ってしまうというのが、火神にはもったいなく感じられるのだ。終わらなければ困るのは自分なのだが(もちろん黒子も帰宅できないから困る)、黒子を少しでも長く引き止めたいという欲求にも抗いがたい。二律背反の間で揺れる火神は、結局、目先の欲求に負けた。
「なあ黒子、それなに読んでんの?」
休憩とばかりにノートの上にペンを転がした火神は、頬杖をついて黒子をみつめた。
「それ、さっきも聞きました」
「お前が答えねぇからじゃん」
「………………」
「なんかしゃべれよ! ……まぁいいよ。キリのいいとこまで読んでくれ」
読書に夢中な黒子の気を引くのは、なかなか難しい。火神は諦めて黒子の顔を見ていることにした。
「……火神君。終わったんですか」
視線に焦れた黒子が聞いてくる。こっちは見ていない。
「いんや、休憩中」
「早くしてください」
「んー、そのつもり」
そう言いながらも、火神は黒子をじっと見ている。
「……『こころ』です。夏目漱石の。じっと見るの、やめてください」
「おお、『ワガハイは猫』か!」
「『吾輩は猫である』です」
あいかわらず黒子は本から顔を上げないが、やっと会話らしくなってきたことが火神には嬉しい。普段、なにかと会話をしているはずなのに、思えばバスケ以外のネタで話し続けたことはあまりなかった。
「それってどんな話だったっけ」
「先生と私が出てくる話です」
「わかんねぇ」
「即答ですね」
黒子がようやく顔を上げた。火神と目が合う。
「……あんまり見ないでください。恐いです」
「それ、どんなことが書いてあるのか教えてよ」
火神は視線で本を示した。黒子は少しページを戻してから小さく息を吸う。
──しかし君、恋というのは罪悪ですよ。分かっていますか。
一瞬、火神の呼吸が止まった。黒子は読み終えて火神を見ている。いつも通りの、感情の読みとりにくい目で。
これは牽制なのか? 火神は内心焦った。
火神は黒子に、一方的な恋愛感情に似た何かをもっている。ただそれが、本当に恋愛感情なのかは判然としない。まだ、本人ですらあやふやなのだ。それが黒子にバレていた……?
それぞれが何かを思い、黙っている。黒子が先に口を開いた。
「ボクは少し、恋愛というものが怖いです。自分で制御できないほどの感情が、自分の中にもあるのかもしれない。その実感はまだありませんが」
黒子は目線を下げる。
「ただ、誰かを大切だと思って、それが好意だけなのか恋愛感情なのか……。すみません、なんか言いたいことが、うまく纏まりません」
……なんだ今のは。火神の動きがまた止まる。その間、火神は全力で考えていた。
なぜ黒子がその一文を引用したのか。なぜ読み終えた後、火神の顔を見たのか。なぜ今、黒子はこんなに気まずそうな顔をしているのか──。
「黒子……」
火神は四つん這いになって黒子のそばへと移動した。
「なあ、黒子……?」
首を傾けて、黒子を伺う。黒子は下を向いたまま何も言わなかった。
「黒子……?」
もう一度呼んでから、火神は黒子の顎に手をかけ、上向かせながら唇を重ねた。
「………………」
黒子はされるがままになっている。触れるだけのキスで火神が離れると、しばらくして黒子がぽつりと言った。
「そういうのじゃ、ないと思うんですけ
どね……」
火神は何も言えず、ただ黒子のことをじっと見ていた。