霧のなかで--
木々の根元が煙に浸かっているかのような濃い霧が森を覆っていた。音もなく白い空気が漂う様は、静寂の魔物がそこにいるのかと思わせた。じわりと足元が湿る。
「チッ」
ショウは舌打ちをした。
近頃、森に入った人間が行方不明になる――解決してほしい。そんな依頼だった。おそらく魔物が住み着いたのだろうという予測のもと、隊が編成され調査に赴いた。森に入るなり湧き出した霧はどう考えても自然のものではない。
団長達と分断されたのも良くない。すぐそばにいたはずの彼らの声すら聞こえないのだから、思っていたよりも厄介な状態だ。
「先公」
ショウはエルモートに声を掛けた。元担任教師である彼とまで離れ離れにならずに済んだのは幸いだろう。濃い霧のなかで揺れる彼のランタンに安堵を感じた。
「このまま森の奥を目指すのか?」
騎空団に入ってそれなりに依頼をこなしてきたが、それでもまだ慣れたというわけではない。ここは経験者に従うべきだろう。ショウが方針を伺うと、エルモートは「よくできました」というように笑った。
「あァ、そうだ。初めに予定した目的地を目指す。全員そこを目指して辿りつけりゃそれで合流だ」
「……もし難しそうなら、撤退か?」
「そういうこった。無理はしねェ」
ショウは「分かった」と頷く。
エルモートは進むべき方向を確認しているのか、周辺に視線を巡らせる。それにならってショウも周りを見回した。視線を足元に落とすと、地表を這うような濃い霧が己の靴すら覆い隠している。
顔を上げると、ちょうどエルモートがショウを振り返ったところだった。
「ン」
エルモートがこちらに手を伸ばしてくる。ショウはきょとんとそれを見た。エルモートは手を振ってみせる。
「離れ離れになるとマズイだろ」
差し出された手の意味を悟って、ショウは胸を高鳴らせた。この元担任教師は手を繋いで行こうと言っているのだ。
――こちらの気も知らないで。
ショウは指先を迷わせたすえに、拳を握った。
「……ガキじゃねェんだから、いらねェよ」
「ンなこと言ってる場合かよ」
呆れたように告げられて、ショウはぐっと息を呑んだ。羞恥に負けて事態に合わせた行動ができないことのほうが醜態だろう。
ショウは視線を泳がせた。迷った末に手を伸ばす。相手の掌に指先が触れ、思わず手を離そうとすると捉えられてしまう。そのままぎゅっと握りしめられた。
「うわっ」
エルモートが顔をしかめる。
「ダセェ声出すなよ。……そんなに嫌かよ」
「嫌じゃねェ!」
誤解されたことに焦って大声を出すと、エルモートの頭上の耳がびくりと震えた。でけェ声を出すなと睨まれる。
「Sorry……」
ショウは気まずく謝った。
歩き出すエルモートについて足を踏み出す。
ふたりは霧と木々を掻き分けるようにして進んだ。落ち葉の降り積もった柔らかい地面を踏む湿った足音だけが響く。
ショウはエルモートの背中を見つめた。彼は進むべき方角を把握しているようで、周囲を警戒しながらも足取りには迷いがない。彼に頼りにしてもらうのはまだまだ先になりそうだ。
ショウはひっそりと溜息を零した。そして、エルモートと繋いでいる手を見つめる。こんな光景を見るのはいつぶりだろうか。もう思い出せないような遠い記憶。己の手を引いていたのは父親だっただろうか、母親だっただろうか。
ショウは胸に痛みを覚え、記憶を振り払うように瞼を閉じた。再び目を開けてエルモートの背を見る。
「……嫌じゃねェ。慣れてねェから恥ずかしいンだ」
エルモートは振り返らなかった。
「……そうかよ」
それはショウの境遇を察した声だった。その声の優しさに縋りつきたくなる己を自覚して、ショウは首を振った。この元教師は親ではない。親にしたいわけではないのだ。
そう考えて、ショウは言葉を間違えたことに気づいた。慣れてないから恥ずかしいのではない。
もう一度、エルモートの背中を見つめる。肩に担いだ杖、耳元で揺れるピアス。柔らかく輝くランタンの炎。繋いだ手は自分の手より少し華奢だ。
行く手を遮る深い霧のなかで先を歩む灯火。ショウは眩しく双眸を細めた。
(……あんたのことが好きだから恥ずかしいんだ)
胸の内でそう告げて、ショウはゆっくりと息を吐いた。
声に出していたら、エルモートはどうしただろうか。
手を離そうとしただろうか。そのまま逃げようとしただろうか。あるいは、それでもこの状況で離れることは選べず、気まずく過ごすのだろうか。
「……ふっ」
ショウは苦笑を零した。どうやっても困らせてしまう。
そして、困った顔が見たいと思うし、困らせたくないとも思う。逃げられたくないと思うし、逃げられたなら追えばいいと思う。
「どうかしたか?」
ショウの笑い声を聞き取ったらしいエルモートが振り返る。ショウは薄く笑みを浮かべた。
「いや、あんた意外と優しいと思ってな」
繋いでいる手を揺らして示す。エルモートは目をしばたいた。じわじわと頬を染めて、気まずそうに視線を逸らす。
「べつに……」
必要だからだ、とエルモートは呻く。ショウは双眸を眇めて笑った。
「助かる。Thanks」
「……そうかよ」
エルモートは気まずそうに耳を下に向ける。それから彼は気を取り直すように首を振ると、前を向いた。
「先を急ぐぞ」
「Okay」
ショウは頷いて、再び歩き始めた。
繋いだ手に見入る。温かくて優しい。灯火が人の形になったようだ。
こちらの下心にも気付かず、ただ手を差し伸べてくれる。掴んだ手を離してもらえなくなるとは考えてもいないのだろう。その無垢な優しさに、かえって欲望を煽られるような心地すらした。
ショウは己の胸の内に火がつくのを感じた。この手を自分のものにしてしまいたい、と。
(今は無理だろうが……)
いつか。
胸を焦がすその炎を心に秘めて、ショウはエルモートの手を握り締めた。
終わり