ワーカーホリック 狡噛が須郷とともに任務につくことになった。
それ自体は珍しいことではないが、今回は彼らはとある新興勢力のギャングに潜入捜査することになっており、それは俺の胸を強くざわつかせた。自分の理性的な部分では、彼らの命を心配しているわけじゃないと思う。俺だって今回の任務以上に危険なそれについてきたし、そのどれもどうにか危険を回避し成功させてきた。けれどいつだって狡噛と離れる時、これが最後ではないのかと、感情が震えてしまうのだった。馬鹿げていると思う。けれどそれは本能みたいなもので、自分ではどうにもならないのだから困ったものなのだった。
「そんなふうに恋人の不在を仕事で埋めてると、中毒になって戻れなくなっちゃうわよ」
だから花城にそう言われた時、俺ははっとすると同時に、また彼女に見透かされたのかと自分が情けなくなった。そんなに俺は分かりやすいのだろうか? 幼い頃から長く伊達眼鏡をかけていた時も、自分の本心を覗かれるのではないかと恐れていたのを思い出す。自分の最も弱いところ、そんなところを誰かに見られるのではないか、そしてそこを突かれて自分は崩れてしまうのではないか、俺はそう長く恐れていたのだ。父を亡くして虚勢をはるのはなくなったが、芯の部分ではまだ変わりきれていないのかもしれない。仕事の上で弱みを作ってはならない。それは分かってはいるけれど、狡噛慎也という男は、俺にとって一番の何かで、一体何が一番なのかは今も分かっていない気がするけれど、彼を欠くということは、自分の手足をもがれるようなものなのだった。
「昔から仕事中毒なのは知ってるだろう?」
俺はデスクに置いたコーヒーを飲みながら言った。相変わらず行動課のコーヒーはまずい。どす黒くて、泥水のようで、苦味が強すぎて食欲がなくなるので有名だ。これに誰も文句をつけないのがすごいところだが(もし霜月がここにいたら人間の飲み物じゃないわと叫んでいただろう)、花城だけは余裕がある時は自分専用の紅茶を淹れていることを俺は知っていた。今もかぐわしい柑橘類の、ベルガモットの香りがしている。アールグレイを楽しんでいるのだろう。
「いくら仕事中毒だからって、こんな時間まで残ってるのは異常よ。……まぁ、私も人のことは言えないんだけどね。でも、今日ばかりは先に失礼するわ」
そう言って花城がデスクから立つ。課長室は俺たちのオフィスからは離れていたが、彼女はその扉を閉めることはほとんどなかった。ただ誰かと極秘回線で通信をする時だけ、その扉を閉めるのだった。ということは、今日は仕事が終わったのだろう。オフィスに掲げられた時計の針は、そろそろ十一時を誘うとしている。俺は無心に狡噛と須郷の分の事務作業をこなしていたが、それもそろそろなくなりそうだった。
「俺もこれが終わったらすぐに出るよ。気を遣わせてすまないな」
「あら、私は遊んでるんだけど、心配してるように見えた?」
花城が笑う。俺はそれに敵わないなと思って、最後の事務作業を終えて外務省のデータサーバーにアップロードして、今日の仕事終いにすることにした。花城は耳たぶにきらめく、赤い石がはめ込まれたひし形のイヤリングをいじって、セットバックヒールを履き直して、これも金の金具と取っ手のスカーフが美しい、ケリーバッグを腕に下げて俺の横を通っていった。オフィスのドアが自動で開く。
「あんまり仕事ばかり熱心にならないことね。今はセーフハウスにいる時間帯でしょうし、デバイスにコールでもしてあげたら?」
ピンク色の唇がにやりと笑って、そしてすぐに彼女は金髪をはためかせて去っていった。風のような人だ、と思う。
花城はどこか狡噛に似たところのある女だった。例えば笑顔の下に隠した、いや、隠しきれない誰かに対する復讐心などが、狡噛の過去を思い起こさせて、二人きりになると少し苦しくなってしまう。狡噛の復讐は終わった。俺はそう思っている。だったら俺は? 父を殺した槙島が死んだことで俺の復讐はなされたのだろうか? でも、父を殺したのは自分自身だと俺は思っている。多分、贖罪の日々を送ることによって、俺は誰かに復讐をしているのだろう。そしてそれはきっと、自分自身になのだ。
「仕事熱心か……」
俺はコンピュータの電源を落としながらつぶやく。仕事熱心なんて諌められたのはあの人以来だろうか。宜野座さん、たまには休んでください、ただでさえワーカーホリック気味なんですから——。そう言ったあの人は今は法定執行官だ。それが何を意味することか俺は知っている。彼女もまた、自分の正義のために家族を歪めた一人なのだ。俺が心配するまでにも及ばないのは分かっている。でも、それでも真っ向から悪と戦う正義が人を歪めることを俺は知っている。父もそうだった、狡噛もそうだった、そして俺もそうなのだった。
(もう、考えるのはよそう……)
俺は立ち上がり、行動課のオフィスを出る。
今は何より狡噛の声が聞きたかった。花城の言う通りもうセーフハウスにいる時間なら、少しくらい甘えたっていいだろう。恋人の声が聞きたい。不安定な時はなおさら、弱みを自覚させられることになったって、彼の声が聞きたかった。名前を呼んで欲しかった。あの煙草で少しかすれた低く響く声で、ギノ、と、世界で彼一人が呼ぶ愛称で呼んで欲しかった。
部屋に戻ると、俺はすぐにデバイスを立ち上げた。時刻は十一時を過ぎて、そろそろ世間は眠りの時間に近づいていた。彼はまだ眠っちゃいないだろうが、くつろいでいる時間かもしれない。それを邪魔するのは気が滅入ったが、それでも恋人と話したかった。デバイスの画面に隠された、秘匿回線を選ぶ。これは花城のはからいだった。本来は極秘捜査だから捜査官でしかない俺が彼と連絡を取ることは許されないのだが、それでも情報共有はしたいでしょうと、そんな建前で彼女は俺に許してくれたのだ。
「……ギノか?」
ザザ、と雑音が入ってすぐに狡噛の声が聞こえる。映像通信にしなかったのは、こんな情けない顔を見られたくなかったからだ。それでも声を出せば、きっとすぐに気取られてしまうのだろうけれど。
「あぁ。どうしてるのかと思ってな。捜査は順調か?」
俺はそんな曖昧な台詞を言って、ソファに腰かけた。手元のリモコンでカーテンを開く。出島の派手なネオンが見える。カラオケ店、マッサージ屋、飲み屋に、いかがわしい店の数々。それらは自分たちの生き方を主張するように輝いている。
「今のところは。もうギャングのボスに近づけたよ。俺より年下なんだからわらっちまったな。子どもの遊びみたいな組織さ。そんなんだからじきに捜査も終わるだろう。……いい子で待ってるんだぞ、ギノ」
「……まさか寂しがってるとでも?」
「そんな声がしたけどな。俺の気のせいか?」
須郷は? と聞きそうになって、俺は尋ねるのをやめた。甘い雰囲気を壊したくなかったし、彼にとっても迷惑だろうと思ったのだ。
いい子で待ってろか。狡噛が言いそうな台詞だ。俺をからかって喜んでいる。そういう男だった、狡噛ってやつは。
「いい子で待ってろはこっちの台詞だよ。そうしたら、ご褒美をやろうと思ってるのに」
俺は笑いながらソファに身を横たわせる。生地からは少しスピネルの苦く重い匂いがして、より一層彼が恋しくなった。
「嬉しいな。何をしてくれるか楽しみにしてる。俺としては……」
「須郷が聞いてるだろう、そこまでにしておくんだな。今さらだろうけれど」
俺は笑って最後に小さく愛してると付け加えて、彼の答えを待たず通信を切る。強く顔が火照っている気がした。自分からあんな大胆な言葉を吐き出せるなんて思いもしなかった。
「愛してる、ねぇ……」
自分から自然と出た言葉が面白くて、俺は酒も飲んでいないのに赤くなってソファについたスピネルの香りをまた強く嗅いだ。愛してる、愛してる、愛してる、いい子にしてるからお願いを聞いて、いい子にしてるから、今度はお前から愛してると言ってくれ。
まぶたを閉じる、明日に疲労感は残るのに、今日はここで寝ようかなんて思ってしまう。彼の匂いに包まれて、いい子にして眠るから、今度は直接声を聞かせてって思ってしまう。スピネルの匂いに混ざる狡噛の匂い。俺はそれに包まれて、段々と深くなってゆく眠りに、手足の力を抜いたのだった。