need to be in love なんとはなしに狡噛の部屋を訪ねることはよくある。それは時に友人としてであったり、時に恋人としてであったりしたが、気晴らしを求めてということも少なくなかった。何せ彼の部屋には多くの希少な古本があり(日本語翻訳されていないものも多く読めるものは少なかったが)、紙のスリーブに入ったレコードや父が残した酒に負けないくらいのブランデー、そして今や色相悪化を理由に流通していない映画のディスクがあった。俺はそれを旧式のプレーヤーで見るのが好きだった。最新の流行映画にはない砂嵐ですら、芸術のように思えたからだ。レコードもよかった。かすかな雑音が、まるで耳のすぐ側で囁いているようだったから。
今夜もドアを開けたら、レコードプレーヤーから耳に馴染むなめらかで軽やかな女の歌声が聞こえてきた。三オクターブの声域を持つ、アルトの声の美しさ。狡噛が気に入るには少し甘すぎる声。批評家にロマンチックすぎると評価されたにもかかわらず、何度もグラミー賞を取りやがて殿堂入りした兄妹のポップ・ソング・グループ。世界的人気を得た彼らだったが、けれどヴォーカルが無理なダイエットから拒食症になり亡くなり、活動は突然終わりを告げる。彼女の死は摂食障害を世界にしらしめるものとなった。
「その歌、繰り返し聞いてるな。そんなに気に入ってるのか?」
俺は手土産に持ってきた彼気に入りのハイネケンの瓶ビールをキッチンテーブルに置き、ソファに横たわっている狡噛の側に立った。甘い声が臆病な女の心情を歌う歌。やっぱり彼にしては甘ったるく、そして苦い。分かってる、こんな不完全な世界で、完璧さを求めていたこと、そんなものを探そうなんて馬鹿だったってことを――。彼がその歌を気に入る理由は分からなかったが、その歌詞はこの男に似合っている気がした。この世界は完璧に見えて不完全だ。シビュラシステムには欠陥があり、そして海外では紛争が絶えない。システムを輸出したって、そんな欠陥だらけの仕組みでは人は守られない。歴史を作るのはシステムではなく情熱だ。それをこの国の人々は知らない。生まれてこの方の変化を受け入れないからだ。それに俺だって、一度夢見た道をそれるまでは、完璧な世界に生きていると思っていた。
「ポール・マッカートニーにするか? それともジョン・レノンがいい?」
彼女の歌声を評価した歌手たちの名前を出して、狡噛はソファから立ち上がった。俺はそれに「このままで」と言い、キッチンに向かいハイネケンを二本つかんだ。彼はそれに口笛を吹く。まるで今日の仕事の疲れがなかったかのように。
今日の俺たちが担当した仕事は、マフィアと癒着した政治家の男逮捕だった。それは本来なら公安局の案件だったが、政治家が強く外務省と結びついていたため、こちらに回されることとなったのだった。しかし情報をリークした、政治家の昔からの友人でもあった準日本人の秘書は雇い主の手によって死に、手を下した男も執行はされなかったものの公安局に捕縛された。花城などは、事件を解決に導いた自分たちの功績を無視する公安局に憤っていた。けれど狡噛はそんなことを気にもせず、ビールの蓋を開け、美味そうに喉を鳴らす。
「殺人事件はやはり気分のいいものじゃないな。政治家を逮捕できたのはよかったけどさ」
俺がそう言うと、狡噛はうなずいて「そうだな」と言った。海外の事案もきついものが多いが、国内の事案もなかなかだ。けれどあれくらいの事件にやられて恋人を頼ってしまうなんて、俺も歳をとったのかもしれない。
「……俺たちの関係はシンプルじゃないな」
狡噛が言う。それは今も繰り返し流れるレコードの曲の歌詞をなぞっているのか、今日の仕事で受け持った事件に関わった人々ついて喋っているのか分からなかった。もしかしたらそのどちらもなのかもしれない。どちらにせよ、俺には理解できないけれど。
「混み入ってるのは誰のせいだか」
俺は笑って言う。そして耳をすます。
私はよく言ってた、約束なんてしないで、シンプルな関係でいましょうって。でもそんな自由な関係は、あなたが私にさよならを言いやすくさせただけだった。
そう歌い上げる女は、もうこの世にはいない。ただ歌声だけが残り、人々の記憶に残っている。俺はその彼女の歌に感情移入しているだろう狡噛が、俺にさよならを言ってほしくないと思っていると勘違いしそうになって、けれどすぐに思いなおしてビールを口に含んだ。
「俺のせいだな、分かってるよ」
狡噛が言う。俺はそれに笑ってしまって、でもさよならを言う日はいつか来るのだと思うと、たとえそれが取り出しにくい言葉であってもいつか扱わねばならないものだと思うと、どうしようもなくさびしくなった。狡噛は花城との約束を果たしたらどこかに行ってしまうかもしれない。俺だって外務省に移ったものの、公安局に呼び戻される可能性があった。それは自由のない俺には当たり前のことで、そして完璧を装うこの世界では当たり前のことだった。
「そんなに別れたいのか?」
俺は狡噛の隣にようやく座る。そう尋ねて、どう返されるのを望んでいるのか、自分でもよく分からなかった。
「まさか。俺は捨てられる方さ」
よく言うよ。俺は恋人の言葉が憎くなって、手の甲に爪を立てた。狡噛が呻く。少し強すぎたかもしれない。でも、勝手にセンチメンタルになって、勝手に別れを想像されてはこちらとしてはたまったものではない。俺としては、許される限界まで彼とともに過ごしたいというのに。
「だったらいいのにな」
俺を一度捨てた男の言葉にそう言うと、彼は言葉を間違ったのかと思ったのか、俺の手をつかみ、ビールを飲み干した。俺もそれにならって冷えた液体を口に含む。それは彼がスピネルを気に入っているわりにはさわやかなビールだった。単に嗜好の問題なのかもしれないが。
「なぁ、ギノ。俺の止まってた時間の中にもお前はいたよ。それがいいのかどうかは分からないが、別れられないってずっと思ってたんだ」
その告白に、俺は言葉を失った。海外でも俺のことを考えていてくれた? あの決別を別れだと思っていなかった? ずっと思っていてくれた? 俺は一方的に別れを告げられたと思っていた。そして自分からお別れをしたのだ。でも彼は違った。
「よく言うよ」
「昔からこうだったろ?」
狡噛が笑う。俺は彼の顔が見られない。恋人に背を向けて、レコードプレーヤーを見つめる。分かってる、私は恋に落ちる必要があるの。本当に? 俺たちは恋に落ちる必要があった? 俺たちはチャンスをつかんだ? 俺は何も言えない。ただこれからも残っていくだろう歌声だけを聞く。穏やかな、ミルクみたいな歌声だけを聞く。そして狡噛の手に指を絡め、静かに次の言葉を待つ。
「ギノ……」
名前を呼ばれて、俺は目を閉じる。口の中はビールの味がしている。俺はそれを煙草の味がついたそれで封じられるのを待って、ただただ、多くの人に愛された歌に耳を傾ける。