ああ、またですか。
テーブルの上のカップやソーサーを片づけながら、司は浅くため息をついた。
ダイニングチェアの一脚の上に見覚えのない白い物体を見つけ、伸ばしかけた手が、ふと止まる。
(またか、で済ませるには、いささか様子が違って見えるのは)
そこにあったのはエンボス加工の施された、真新しいちいさな紙袋。
(私の思い過ごしでしょうか? 凛月先輩)
持ち主は、さっきまでこの部屋にいて、司とぬくもりを分け合ったひと。
*
凛月は司の家に、毎度と言っていいほど忘れものをする。
最初は確かハンカチだった。いつの間にかポケットから落ちてしまったのだろう、忘れたことに凛月自身も気づいていなかった。幸い顔を合わせる機会には困らない。アイロンをかけ袋に入れて次回の現場で返したところ、わざわざごめんね、と凛月も恐縮していた。
それがいつしか取るに足らない方向へとエスカレートしていく。たとえばコンビニで買ったドリンクについていた、よく知らないキャラクターのマグネット。届けるほどもないように思えるが、かと言って勝手に捨てるのも気が引ける。本人に対応を問うと、取りに行くから置いといて、と言う。その繰り返しだ。素直に従ううち、宣言どおり持ち帰られるものもあれば、けっきょく司宅に居着くものもあった――洗面所の、トラベル用だったはずの歯ブラシだとか。
凛月が必要としているのは口実だろうか。あるいは、口実を用意するため司が毎度アクションを起こすこと、それそのものだろうか。
(苦にしない私でよかったですね。つくづく)
司は己の律儀さを自認しているし自負してもいる。凛月なりに甘えているつもりか、もしくは試されているにしても、どちらにせよ司にとっては放置する据わりの悪さのほうが勝る。
生得的な相性と呼ぶには時が経ちすぎているし、時とともに互いが変化した結果だと断じるには、旧い思い出が多すぎる。今となってはどちらでも同じことだ。
(私はきっと、あなたが喜ぶ反応をしますよ)
さて、この度の『忘れもの』は、いつものお戯れとは毛色が異なりそうである。
ぴっちりと角張ったきれいな白い紙袋に、シンプルなブランドロゴだけ描かれている。つや消しの金のシールで封がしてあって、店で購入したそのままの姿に見えた。持ち上げると軽く、揺らしてみると中でことこと動く。ちいさい箱がひとつだけ入っているようだ。
いつもそうしているように『忘れもの』の写真を撮り、メッセージアプリで凛月へ送る。ちょうど家に帰り着いた頃合いだろう。返信はすぐにあった。
『またお忘れでしたよ』
『中見た?』
『いいえ』
『開けていいよ』
プレゼントなら初めからそう言ってくれればいいものを。
(開けていいよ、ではありませんよ……)
それでも司は、ちゃんと踊ってあげてしまうのだ。
ぴり。金色のシールをそっと破く。紙袋には予想どおり、真紅のリボンでラッピングされた小箱がひとつ入っていた。
ここには司しかいないのに――司の手つき、息づかい、心のたなびきを、じっと逃さず拾い集めるあのまなざしをすぐそばに感じる。そして、あの目と同じ色のリボンをゆっくり解いていった。なめらかなサテンは音もなくこぼれ落ちる。箱のサイズにぴったりの蓋は、持ち上げようとすると、司の手をぐっと引っ張り返す。その抵抗感と、胸にころりと詰まるむずがゆい心地とがシンクロする。悪くない憎たらしさだ。やがて、お祝いのクラッカーが弾けるみたいに、ぽこん、と蓋がひらいた。
やわらかい布の台座の中心に、シルバーの輝きがちかりと熾る。華奢で上品なネクタイピンだった。
(これはちょっと、『ガチ』ではないですか)
司はすぐさま通話ボタンをタップした。いやに長く思える軽快な呼び出し音の後、凛月の応答があった。
「もしもーし」
文字ならば完全に、かっこわらい、がついている声色だ。司はわざと刺々しく応じた。
「お疲れさまです。今お電話よろしいですか」
それでいて、丁寧に定型句をなぞる。凛月のかっこわらいが濃くなる。
「うーん、今はちょっと……」
「そうですか」
「ふふ。うそうそ。大丈夫だよ、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもありませんよ。これは何ですか?」
「開けた?」
「開けました」
「何だと思う?」
「Tie clipですね」
「あ、へぇ、そう言うんだ……当たり~」
司の持つ顔は大きく二つある。アイドルとしての顔と、朱桜家当主としての顔だ。
プライベートを除けば、凛月に見せるのは専ら前者のほうである。そして、ネクタイピンをつける機会と言えば、おそらく圧倒的に後者。長い年月を過ごしてなお、凛月のほとんど知らない姿であろう。
(まったく、贈りものを選ぶのがお上手ですね)
「ス~ちゃんに似合うと思ったんだけど、どうかなぁ」
「ではこちらはス~ちゃんのものということで、頂戴してもよろしいのですか」
「そういうこと。だって、ほら……そういう時期でしょ」
やけに濁す凛月の言い草に、しかし、司は心当たりがちゃんとある。
誕生日ではなく。クリスマスなど季節の行事でもなく。
記念日、というやつだ。
世間一般にそう呼ばれるのは、たとえば。付き合ってください、と告白し、よろしくお願いします、と返された日だろうか。それとも、誰かと誰かが共にあることを、公的に認められ祝福された日だろうか。
司と凛月のそれは、どちらでもなかった。誰にも紐解かれることなく、どこにも飾られることなく、ただ、隣に互いがいたことを、いることを、いつづけることを認識し合った。そんな密かでささやかな、約束の日だ。
すこしずついびつに傾きながら、いつしか外れないほど嵌まっていったピース。
凛月が司に残したものが。司が凛月に暴いたものが。ひとつずつ、記念されていく日々。その一片。
「……お礼は直接言わせてくださいね」
「うん。そうして」
凛月からの贈りものをそっとつまみあげて眺める。光を纏う静かな銀色がまた、司の日々の隅に灯ってくれる予感がした。
「はあ。どうしてふつうに目の前で喜ばせてくださらないのですか」
「ス~ちゃんの喜ぶ顔って簡単に想像できちゃうもん」
「ちょろくて誠に申し訳ございませんでした」
「ふふ。それよりもさ。俺のこと考えて、んも~ってなってる顔がね、面白くって好きだから……」
「どのみちその顔も見えていませんよね? どんな顔して渡せばいいかわからないだけでしょう、あなたが」
「あは。ス~ちゃん。勘がいいのってかわいくないよ」
「結構です。そういう言い方なさる時のほうが、あなたって私に……」
「なに?」
「ふふ。教えません。ではまた、あす現場で。おやすみなさい」
間髪入れずに別れを告げると、ふう、と観念したように息を吐くのが聞こえた。
「ん~……じゃあね、いじわるな王さま」
「私もね、凛月先輩のそのお顔が好きですよ。では」
通話終了を押す瞬間、はらり、とかすかに揺れる空気の熱を、司のゆびさきは確かに拾った。
顔色はちっとも変えないようでいて、すこしだけ眉を持ち上げて、薄いくちびるをかすかに波打たせて。もどかしさにそっとくちづけを贈るような、面映ゆさに目配せして抱き寄せるような、その表情を。
(私に混ざったあなた自身を、あなたが愛していることを、私は知っています)
知っているから、あした面と向かって文句を言わせてくださいね。