別れを惜しむそぶりを見せたつもりはなかったけれど。
同じ現場の仕事の後、各々の家まで送り届けられる車内でのこと。あと数分で凛月宅に着くという頃、いいものあげる、と不意に司へ差し出されたものは、凛月の写真――今度のライブツアーで販売するグッズのブロマイドだった。
「ス~ちゃんだけ特別だよ? 夢の中でも俺に会える権利」
真っ白なスタジオでただスツールに腰かけている、とてもシンプルな画だ。だからこそ凛月の佇まいが際立って目を引く。タイトなセットアップをさらりと着こなし、わずかに細められた紅いひとみは、どこか余裕に満ちた表情にも見える。今、司の目の前で柔らかく夜を囁く先輩とは、ちょっぴり遠い凛々しい騎士の姿。
「私も拝見しましたよ。さすが、とても素敵なお写真です」
確かにいい写真だけれど、わざわざ見せてもらわずともツアーグッズには司もひととおり目を通している。おおかたスタッフにもらった見本品を持て余し、今ふと思い出して司に渡してきたのだろう。
「押しつけられたって思ってるでしょ」
「思っています」
「ふふっ、素直。まあまあ、ス~ちゃんが今夜これを枕の下に敷いて寝るでしょ? そしたらさ……夢の中で待ち合わせ、できるかもねぇ」
またあとで、と歌うように言いながら、凛月は司の頭を一撫でして車を降りた。
去り際だけ妙にそっけなくて、司はおやすみなさいを言い損ねてしまった。
(気まぐれなひと。……ふしぎな、おひとです)
手の中で、紅いまなざしがじっと司を見上げている。
◇
司は以前、夜がちょっとだけ妬ましかった。憧れた先輩を独り占めしてしまうから。
今、司は夜がちょっとだけ後ろめたい。焦がれた先輩を、独り占めしたいと願ってしまうから。
(いつからでしょうか。私の夜に、当たり前に誰かが……あなたが、いるようになってしまったのは)
明日は早朝から個人での仕事が入っている。早々に眠る準備を済ませ、司はベッドの上で凛月にもらった写真を眺めた。さっきの何気ないやりとりが、頭に触れたかすかな熱を伴って司の中を巡りつづけている。
凛月と二人きりで過ごせる時間は、明日の夜までのお預けだ。
夢でも会えたら、なんて、根拠のないおまじないに縋りたいわけではないけれど。
「……おやすみなさい、凛月先輩」
夜そのもののように澄んで司を魅了する、美しい騎士の姿に向かって。それでいて世界中の誰にも聞かれない声で、司はそっとつぶやく。
ただの写真とはいえ下敷きにするのはなんとなく気が引けて。
それと、どうせなら見守っていてほしくて。
司は凛月を枕の傍らに置き、まぶたを閉じた。
◇
「ふぁあ、おはようス~ちゃん」
翌日、個人の仕事を終えた司が次の現場に向かうと、凛月だけが既に楽屋入りしていた。ソファでうたた寝していた凛月は、司の姿を見つけるとひらひらと気だるげに手を振った。
司の昨夜の夢に、凛月が現れることはなかった。
「おはようございます。ゆうべ車でご一緒して以来ですね」
司がわざとらしく言うと、凛月はぱちくりとひとみを瞬かせる。
それからすぐ、今度は愉快そうに目を細めた。
「うん、昨日はごめん。ちょっと道に迷っちゃってさ」
言いながら、凛月はちょいちょいと司を手招きする。導かれるまま凛月の隣に腰かけた。いきなり密着するのも気が引けて少し距離を空けて座ったのに、その意図は凛月のほうから潰されてしまった。
「どんな夢みたの?」
肩に触れる凛月のぬくもりを感じつつ、司は昨夜の夢を思い起こす。
しばらく考えてはみたが、思い出せる光景がない。
「見ていませんね、おそらく」
「ぐっすりだった?」
「そうですね」
「じゃあ、役目は果たせたかなぁ」
凛月の声はとても穏やかだった。もたれかかってきた黒髪へ司は無意識に頬を寄せ、凛月の匂いに抱かれながら息を吐く。思えば、夢を見ないほど深く眠れたのも久しぶりな気がした。
それが枕もとの写真のおかげかどうかなんて、司には分かりっこないけれど。
(私の夜に、たとえ離れていても当たり前に、寄り添ってくださるひと)
「……ええ。おそらく私の騎士が守ってくださいました、悪い夢から」
それはきっと、凛月の持つふしぎな力。凛月を思う司の心にいつしかすっかり根づいた、ふしぎで手放せない温かさだ。
「ス~ちゃんの騎士。そうだねぇ。うん……そっか、ちゃんとス~ちゃんの騎士してたんだ。よかった……だったら毎晩働かせてくれてもいいよ。写真だから俺は疲れないし、なぁんて」
「そうします。……本物が、いらっしゃらない時は」
凛月の優しい声と体温、それから匂いに包まれていると、たちまち気が抜けてしまうのも抗いがたいふしぎな力だ。急に眠気を帯びた口調で司がつぶやくと、触れた体が不意に揺れた。凛月が、ふふっ、と笑みをこぼしたからだった。
「あー、そっか。それはなんか、ちょっとかわいそうなことしちゃったかもねぇ」
「え?」
凛月がぱっと頭を上げて、まだ離れないでほしいと思ったのも束の間。
するん、とまだほんのり冷たい凛月のゆびさきが、くちびるの代わりに司の頬を掠める。
間もなく他のメンバーも到着するにちがいないから――この続きはまた後ほど。夜まで持ち越される、言葉のない約束だ。
「だってさ。今夜、さっそくお仕事なくなっちゃうんだから」