『事務所?』と送ったのが一時間以上前。『はい』とだけ返事があったのがつい十分前。このパターンか、と思う。いつ来た、もいつまでいる、も何もない。おそらく結構な長時間、事務所に張りついている――そして、このあとも張りつく予定と見える。
凛月もESビル内での打ち合わせに参加しており、それが今しがた終わったところだった。もし司が事務所に来ているなら、ついでに顔を見ていってもいいし、帰れそうなら一緒に帰ってもいい。そんな意図で前もって入れておいた連絡だ。タイミングが合うほうが稀なのであまり期待はしていなかったけれど、反応の遅さのせいで、司の頑張りすぎが容易に想像できてしまう。
ついさっきまで拘束されっぱなしだったか。あるいは、連絡に気づかないくらい業務に没頭していたか。
(仕方ないから、お兄ちゃんがガス抜きしに行ってあげようかなぁ)
それが自分の役目だと、凛月は思っている。前ばかりを向きつづける決して器用でない人、その隣に立つことを許された自分の。
七階でエレベーターを降りると、ガラス張りの事務所を突き抜けて、すっかり闇に落ち込んだ冬の夜空が目に入った。通路からも見える談話ルームのテーブルに、ノートパソコンを開いたまま、腕を枕にして突っ伏す朱い頭がすぐ見つかる。
(めずらしい……)
棚の死角になりオフィス側からはちょうど見えにくい角の席に、司はいた。この時間になると、オフィスに残るスタッフも少なく、人の出入り自体が減る。そんな油断も、司らしからぬ気の抜けた姿を誘ったのだろうか。
この時点で、あまりいい予感はしない。
スタッフからの挨拶にはなんとなく小声で返事をしつつ、凛月は一目散に談話ルームへ向かった。熟睡しているとも思えないから、司も意識のどこかでは人が来たことを察しているはずだ。声をかけたら、きっと身構えて姿勢を正してしまう。凛月は忍び足で司の後ろに立つと、体温を移すように、伏せた司の背中へ上半身を乗っけた。
「うわ!」
「わっ」
司の体がびくんと跳ねた。予想よりリアクションも声も大きかったので、凛月もつられて驚く。
「びっ……くりしました。凛月先輩……おつかれさまです」
「ごめん、俺もびっくりした。おつかれ」
苦笑して凛月は身を起こし、司の横顔にかかる髪をくしゃくしゃ揉みながら掻き上げる。司はかたく目を瞑り、眉間にもしわが寄っていた。わざと髪を乱したのは司の反応を窺うためだったけれど、軽くむずがるだけであまり抵抗はしてくれない。
どうやら本調子でないと、一目で分かった。
「すみません、連絡、すぐ気づかなくて」
「いいけど。しんどい?」
「……少し、だけ。頭が痛くて……」
いつも健やかな血色に満ちている頬が、心なしか白かった。司の体は深い呼吸を忘れ、肩がほとんど動かないので、なおさら生気を失って見える。
「とりあえずちゃんと息しよ。深呼吸」
凛月は司の隣に座ると、静止した背中に左手を這わせ、大きく上下にさすってやった。そのリズムに合わせ、司の体がゆっくりと、懸命にふくらんではしぼむ。
「はあ……」
意識して呼吸を繰り返す様子が見えたので、今度は司の両耳をつまみ、引っぱったり折り曲げたりしてマッサージする。耳も冷えていた。司はこれにも、おとなしくされるがままになっていた。
本当なら寮に帰すべきだ。体調がすぐれないなら休むに越したことはない、なんて、本人だって百も承知だろう。ただ、現実はそう簡単ではない。ユニットのことに事務所のこと、事業のことに家のこと。放置できないタスクから強引に引き離したところで、結局は司が余計に気を揉むことになりかねない。司の「お兄ちゃん」として、一番理解している立場のつもりだ。
「うう、これだけやってしまいたいのですが」
顔はまだうつぶせたまま、パソコンのタッチパネルを弄くってはカーソルをふらつかせ、司はなんだか悔しげにつぶやく。
「一応聞いとくけど、誰か手伝える感じじゃあ」
「ないですね」
「だよねぇ」
「でもさっき、」
「うん」
「頭、撫でてくださった時……ちょっと楽でした」
静けさに、ぽつり、と落ちる声。温度だけならひとりごとのようで、けれども絶対にそうではない声。かすかな人の気配が空調の音に掻き消える、透明な夜の内側で。凛月にだけ届けられた、ちょっぴり素直でないおねだり。
それがお望みとあらば、応えない理由なんて凛月にはない。
さっき乱した髪を整えてやるように、司の頭を何度も撫でつけた。つらさを肩代わりすることもできなければ、たちどころに治すことだってできない、この手が――せめて司の心細さを、わずかでも和らげられるよう願いながら。
「元気になあれ、じゃないからね。すぐ元気になんなくても、大丈夫、大丈夫~」
ぽん、ぽん、とやさしく繰り返しながら凛月が言うと、うう、と何やら唸って司は頭を抱え込んでしまった。頭に触れなくなってしまったので、凛月の愛撫も中断を余儀なくされる。
「あれ」
「今ちょっと……泣きそうになりました」
予想以上に堪えたのだろうか。自分の弱い部分に抵抗をおぼえつつも、感じたことはちゃんと教えてくれる素直さが、司らしいなと凛月は思う。
「いいじゃん。俺だし」
「凛月先輩だからです。弱って甘えてきたと思ってほしくないのです」
「違うんだ?」
「凛月先輩の、……あなたの、司は。あなたに甘えるのに理由がいりますか」
そこで初めてちゃんと目が合った。
折り重なった腕の隙間から、ちらり、紫のひとみが凛月を窺う。気怠さにうっすら潤んではいるものの、ただまっすぐに寄越される視線は、共に突き進む時、あるいはそれを楽しむ時、凛月を信じて向けられるものと同じだ。
強がりな俺たちの王さまが。強がりのままで、俺にきちんと凭れてくれること。
「んーん。いらない」
ふらついた時だけ支えるのではなくて、ただいつでも寄りかかれるもの。望む時、そこにいるもの。そんな存在が自分にはいるのだと、もし司がそう感じてくれているのだとしたら。こんなに「お兄ちゃん」冥利に尽きることなんて、凛月にはない。
(ねぇ、それは、俺の手柄って思ってもいい?)
凛月が席を立つと、司はようやく少し頭を浮かせて、名残惜しそうな視線で凛月を追いかけた。微笑みで返したのは安心させるためだったけれど、少し、きっとほんの少しだけ、凛月自身のうれしい気持ちもあったにちがいない。
「飲み物とってくるけど、なんかほしい人」
「あ、では……あたたかいものを……」
「ココアにしよっか?」
「はい。ありがとうございます」
本日の業務はもう終わりだけど、特別サービスで、ココア一杯分は付き合ってあげることにする。
だって俺が――ス~ちゃんの俺が、ス~ちゃんを甘やかすことに、理由なんていらないんだから。