それは、悪魔みたいな日差しが見せた、陽炎だったのかもしれない。
校舎のそばの木陰にうずくまり、凛月は頭を垂れた。またずいぶん眠っていたらしい。目覚めと同時に眩暈がして、建物の中へ逃げ込もうと思ったが、体が動かない。くびすじに手を当ててみる。脈が速い。
炎天はただでさえ凛月を蝕むばかりなのに、ここしばらく立て続けのライブで余計に体力を奪われている。王座を空けた手負いの騎士たちは、いつしか再びめまぐるしい日々に取り込まれていた。
ただ、誰にも邪魔されず、眠っていたいだけなのに。
最後の記憶では天頂にあった太陽が、わずかに西へ傾いている。もう放課後だろうか。夏の長い日はそう簡単に暮れようとせず、地平に近づいた分だけ、むしろ攻撃性を増して凛月の目に映った。
ふいに、足もとの影が濃くなった。重なった青へさらに重ねるように、穏やかな声が落ちてくる。
「顔色がすぐれませんね」
凛月が頭を上げるより先に、声の主が眼前にしゃがんだ。日陰に座る凛月に対し、ぎりぎり日向にいる彼は、光の金糸にふちどられていて、目がくらんだ。
学院の生徒ではない。そこにいたのは美しい青年だった。歳の頃は二十代半ばといったところか。片側の髪を耳にかけ、斜めに流した前髪はきれいな角度を保っている。そこから覗くなめらかな額と大人らしいシャープな輪郭、微笑を湛えた小ぶりなくちびるが、精緻な石膏像のようだった。深い森に降る静謐な雨を思わせる、濃紺にストライプの入ったスリーピースを上品に着こなし、上まできちんと留められた襟もとには、差し色の真っ赤なネクタイが目立つ。
真夏の午後にそんな格好で、汗ひとつかいていない。
「これを」
そう言って彼はミネラルウォーターを差し出した。未開封のボトルは露にくもり、見るからによく冷えている。凛月の喉が鳴った。
ちら、と重いまつげをわずかに持ち上げて、凛月は彼を見つめながら、ぼそぼそと口をひらいた。
「さすがに俺も子どもじゃないし、一応、アイドルだから。知らない人からもらったものを口にするわけにはいかないんだけど」
「よい心がけだと思います」
彼はおどけたように眉を上げただけで、手を引っ込めなかった。袖口に上等そうな腕時計がきらめく。
凛月は彼のことを確かに、知っていた。
夏空に映える鮮やかな朱い髪を。少し鼻にかかった、豊かな響きを持つ声を。大人びた気品と子どもじみた自信を同居させ、物怖じひとつせず凛月へ笑いかける、紫色の瞳のことを。
「……ありがとう」
凛月は彼から水を受け取り、すぐに飲んだ。ひとくち含むだけで、不快な火照りがいくらか冷まされ、胸まですっと冴えていく心地がする。勢いよく喉を潤したあと、ほう、と息をつく凛月を見て、彼は満足げに笑みを深くした。
「このお天気ですから。涼しいところに入られたほうがいいですね」
「そうする。おかげで動けそうだし」
「お助けできたのならば、何よりです」
凛月はボトルの蓋を閉め、地面にそっと倒した。シャツの襟をぱたぱた動かし、汗をかいた肌に風を送る。
「そんなに胸もとを開けていては、はしたないですよ」
くす、と彼が小さく笑声を漏らす。両手を伸べて、凛月の襟を正そうと引っ張った。他人にこんな距離で触れられるなんて、凛月は嫌いだ。けれど、暑さにやられかけていたせいだろうか、今は払いのける気が起きなかった。
「だって、暑いんだもん……」
「もっときちんとなさるように、と、口酸っぱく言われているのではありませんか?」
「どうかなぁ。そういう誰かさんはいるかも」
「ふふ。きっとその誰かさんは、あなたに、誰より凛とした騎士でいてほしいのでしょう。あるいは、」
彼はおもむろに自身のネクタイに手をかけると、しゅるり、と解きはじめた。すっかり襟から抜き取ってしまって、ただの細長い布になったそれを、凛月の首に回し、くい、と軽く引き寄せた。うつむいていた凛月の背すじはそのせいで起こされ、彼のまなざしが近づいた。
「あなたならそう在ってくださると、知っている」
祈りと呼ぶには信じすぎている。それはまるで、予言のような言葉だった。
ネクタイが凛月の胸の前で交差する。伏せた朱いまつげの先で、筋張った彼のゆびさきが器用に結び目をつくる。丁寧で洗練された所作に、凛月は抗いもせずしばし視線を奪われる。凛月の喉のすぐそばまでそっと締め上げ、それから、ぽん、とてのひらで胸を叩いて完成の合図を示した。優しい振動が凛月の心臓を揺すった。くちびるが柔らかな弧を描き、黄昏の帳が下りるみたいに、紫の瞳はきゅうっと細くなる。
なぜこんなに、大切なプレゼントを包むみたいに、凛月に触れるのだろう。理由が凛月には分からなかった。
「よくお似合いです」
彼は立ち上がり、凛月へうやうやしく手を差し伸べた。その手をとり、凛月も緩慢な動作で彼の後に続いた。
「くれぐれもお体は大事になさることですよ。また、お会いしましょう」
わたしの、と彼のくちびるが動いた。
にわかに、空間のすべてを激しく翻しながら、ぬるい突風が吹き抜ける。続きは聞き取れなかった。
誰かが早送りボタンをタップしたかのように、世界が少しだけ進む。
凛月はいつの間にか校舎の中にいて、昇降口に立ち尽くしていた。途端に肌を焼くような熱気が失せ、思わず安堵の息を漏らす。振り返って窓の外を見たが、人影はなかった。
「凛月先輩! 一体こんなところで何をなさっているのですか? ぼうっと突っ立って」
少し鼻にかかった、豊かな響きを持つ声。
それが今は鋭く凛月を呼び止めた。声の主の司は、廊下の端から凛月を見つけるなり、ずんずんと早足でそばまで歩いてきた。
「ス~ちゃん。おい~っす」
「おい~っすではありません。まさかまた授業にも出ず眠っていたのですか」
「夢を見るくらいぐっすりねぇ」
「まったく……こんな暑さの中、よくそれだけ寝ていられるものですね」
なめらかな額に皺を寄せ、司は大げさに肩をすくめる。凛月に言わせれば、この真面目な後輩こそ、よく飽きずに何度も同じお説教ができるものだ。
「褒めてくれてる?」
「いいえ。ですがちょうどよかったです。私もこれからLesson roomへ向かうところですから、一緒に参りましょう。探す手間が省けました」
「え~、めんどくさいなぁ……」
「我々には足を止めている暇などありませんよ。まだ盤石とはとても言えません。Leaderがいつ戻られてもいいように、精進を続けなければ」
凛月は返事をしなかった。行きますよ、と腕をぐいぐい引っぱられるのにも動じず、その場で立ち止まる。放課後のざわめきを急に聴覚が拾いはじめ、耳を塞ぐこともできずに目を伏せた。
ふと司がおとなしくなる。怪訝そうな表情で凛月をまじまじと観察した。
「なに?」
「あっいえ、これは失敬。何か違和感があると思ったら、凛月先輩、めずらしくTieをされているのですね。制服のものではないようですが」
「ああ。うん……」
真っ赤なネクタイが凛月を縛ったままだった。ちょうど司の髪とそっくりの色をしたそれは、完璧な結び目を誇りながら、凛月の首に垂れ下がっている。つるつるした布の感触を確かめるように、ゆびでなぞった。
ほどよい力加減で締められたそれは、呼吸を阻みやしないのに。凛月はなぜか、胸の苦しさをおぼえた。
まんまるのあどけない紫の瞳が、優しく細められる。
「よくお似合いです」
それは、悪魔みたいな日差しが見せた、陽炎だったのかもしれない。
今は想像もつかない、あの言葉の続きを、いつか未来で聞く日が来る。凛月の時間へ勝手に命をかよわせてしまう未来と、必ずまた出会うことになる。胸をよぎるこの不思議な確信さえ、きっと明日には、陽炎のように消え去り忘れてしまうのに。
そのことをちょっぴり残念に思うのは、なぜだろう。正体の分からない気まぐれを静かに抱きしめたまま、凛月はぐっと伸びをひとつして、司の後について歩きはじめた。司の目がたちまち嬉しそうに輝いた。
夏の終わりには、まだ少しだけ早い日のことだ。