「凛月先輩。私を叱ってくださいませんか」
玄関にうつむく背中が不意につぶやいた。司のゆびさきは靴紐をきれいに結び終え、そのまま所在なげに膝を抱え込んでいる。
「なぁに、どんな悪さしちゃった?」
見送りに出た廊下は冷え込んでいた。扉に嵌まった磨りガラスから、夕暮れの手前のくすんだ空色が透ける。穏やかな夜と朝のあと、次の夜の、なんと早く来てしまうことだろう――遅らせられればいいのに、なんて、いつかは考えもしなかったことを、たびたび思う今の自分が凛月にはまだ少し慣れない。
「今から行くのは、今後の活動にも繋がるありがたいお仕事で。かねてから楽しみにもしておりまして」
「言ってたねぇ」
「楽しみなのは、変わりません。ただ……少しだけ、少しだけ……行きたくない。と、思ってしまっています」
司にとっても言いにくい感情である、と、わざわざ凛月に向かって語るように、司の口調はゆっくりだった。
「一応聞くけど、どうして?」
ここでとぼけるほど、意地悪するつもりはなかった。ただの確認だ。仕事そのものが司の足を重くしている可能性もゼロでないなら、聞き出してやるのも自分の役目のひとつだと、凛月は理解していた。果たしてそれは確認のままで終わり、司から返ってきたのは察しどおりの理由だった。
「凛月先輩と、離れがたいからです……」
つまさきを見つめたままの横顔が、またゆっくりと言う。
「ス~ちゃん。それは俺には怒れないじゃん」
凛月は司の隣にしゃがんだ。肩をぴったりつけて体重をかけると、司の体は向こうへちょっと傾いて、それから戻る。揺れた髪から嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いがする。
「わかってて言ってるんでしょ?」
「はい」
「悪い子」
肩に手を回し、両腕で拘束するみたいにぎゅっと抱き寄せた。くびすじにひたいを寄せてぐりぐり擦りつけると、弱ったような声が凛月の名前を呼んで、かわいそうだけどちょっぴり口もとがゆるんでしまう。
「りつせんぱい、」
「ほらほら。ねぇ、ス~ちゃん。ス~、ちゃん……ふふ。かわいいこと言ってくれるんだねぇ」
司の髪をくちびるで掻き分けて、耳に直接ささやきを注いだ。つめたい耳たぶを吐息で温め、頬と頬とをくっつけると、触れたところがゆるゆる溶け出して、ひとつになってしまいそうだった。まるでそうなれることを、互いの肌がもう知っているみたいに。
「今どんどん行きたくなくなってるでしょ」
「うぅ……」
「それが悪い子への罰。で、こっちが……良い子への、お兄ちゃんのエールだよ」
膝の前でぎゅっと組まれた手を、そっとほどいて拾う。ひんやりしたゆびにわずかでも今、たちまち熱の移っていくのが、うれしいと素直に思う。くちづけを贈る場所に、凛月が手の甲を選んだのは――自分まで、行かせたくない、と思ってしまわないためだ。
背中をぽんぽん、と叩いてやる。司のまなざしが、つないだ手と凛月とを順番に眺める。みじかい沈黙のあと司は立ち上がり、凛月の腕も引いて立たせてくれた。
「ありがとうございます。ふふ……がんばれそうです」
ひととき伏したまつげがふたたび持ち上がる時、美しい紫のひとみに、もう夕立の気配は失せる。
「いってまいります」
凛月の手を握ったまま、司がにっこりと頬をほころばせた。
磨りガラスに滲む空色が、うっすら朱へ傾いていた。静かな夜が凛月の町を覆う直前、一瞬だけ空にたじろぐ炎の色を、凛月は暫しまぶしく見つめる。
「いってらっしゃい、ス~ちゃん」
いってらっしゃい、いとしの良い子。