星呑み小話14褥で久方ぶりの夢を見ているのであろう己の伴侶をそのままして、丹星は一人廊下を歩く。其処から見る庭は、植物なぞ一本も生えていない、石と砂で形作られたものだ。作ったものも、管理するものも生き物では無いのだから、似合いではある。只時折、それが妙に虚しいと感じる時がある。今もそうだった。恐らくこれは丹星が丹星としてある限り、つまり永遠に抱えていかなければならない感情なのだろう。
廊下を抜け、数える程しか履いたことのない草履を履く。そのまま戸をくぐれば先にあるのは閉じられた門だ。門を閉じていた閂は勝手に横にずれてごとりと落ち、これまた勝手に門は開く。それを悠々と乗り越えて、忘れ去られし戦神は久方ぶりに自らの意思で人界に降り立ったのであった。
『あの巫女は本当によく出来ている』
丹星が自身の顔にかかる面布に触れながらひとりごちる。
――神を見ると目が潰れる。
この言葉は正確ではないのだと、丹星は知っている。けれど、目が潰れるとは上手い表現だと感心してもいた。確かにそのように、ものが見えなくなるのだから、と。
焼火がそうだったように、神の顔――そもそも丹星に生き物らしい顔なぞ無いのだが――を見ると、正気を失う。あまりにも存在として違いすぎる故に、只の人間の心体ではそれを受け入れることが出来ないのだ。人ではない存在と予め縁を結んでいればそれを回避できるが、それでも焼火のように寝食を共にするような事は不可能だ。最も、只の人間が基本的に己の屋敷の外に出れない丹星と会う機会なぞ無い。丹星から接触してしまった焼火が例外中の例外だ。
そのような事態をまた引き起こさない為の呪いが、面布であった。墨で丹星からしたら随分出鱈目な文字や記号が記されたそれは、出鱈目が故に顔を隠すことに特化している。晶が「使う時もありましょうから」と以前差し出してきたそれを、本当に使う日が来るとは丹星も思っていなかった。けれど、それが無かったらこうして人界に赴こうなどとは決して思わなかったであろうから、やはり食えぬ者だと丹星は感心する。
木々の多い、己を祀る神社をぐるりと見渡す。村と繋がる鳥居へと歩き、階段の下にあるそれを見下ろした。
『良い世界になったものだ』
詳しい事は知らないが、数々の戦の果てに人間はようやく安寧を手に入れていた。最もこれが邯鄲の夢の、更に途中ではあると理解はしている。それでも名も無いに等しい己を必要としない今が、丹星には心地良かった。
暫くそうして村を眺めていたが、上に知らぬものがいたら流石に帰ってしまうかもしれないと思い、奥の賽銭箱に腰を下ろす。人間が見れば罰当たりだと思うだろうが、此処でその罰を落とすのはやっている丹星自身である。誰も咎めることなぞ出来はしない。
暫しそのままで居たところ、ようやく鳥居の向こうに気配を感じた。
『汽一、駄目だ』
「どうした」
『……多分、見ちゃいけないようなのがいる』
動かなくなった2つの気配に、丹星は苦笑する。あまりにも真っ当な警戒心だ。神ほど信用ならないものは無いのだから。
「そりゃ化け物か?」
『化け物ではないけど……』
「じゃあ別に構わねぇさ」
白と赤の混じった頭から、その全身が階段を登って現れる。追って猫がその先へ滑り込む。
「……あれか?」
『そう。……あんまり、見たら駄目だ』
構わず歩を進める汽一に、猫の冥猩はそれでもなんとか先を行くようにしている。そうして丹星の座る賽銭箱の前までやって来た。
『待っていたぞ』
そう言う丹星から、汽一は目を逸らしもしない。肝の座った、良い人間だと丹星は思う。だからこそ、こうして待っていたのだ。
「あんた、何者だ?」
『汽一』
『冥猩、俺はお前のものに何もしない』
冥猩が訝しげに己の名前を呼んだ丹星を見上げる。
『何、自分の村のことくらいは把握している』
「……あんた、もしかしてここの神さんか」
『そうだ』
「その神さんが俺なんぞに何か用かね」
『普段の礼と、……そうだな、少しばかり聞きたいことがある』
「はあ、そりゃそりゃ」
納得しきっていない汽一と、警戒を解かない冥猩に丹星は面布の下で目を細める。
実に良い関係だと。
『人というのは、一体何処まで償えば許される?』
「……はあ?」
『俺の知る中で、お前が一番真っ当に生きている故、そういう説法めいたことも知っているのではと思ってな』
「神さんが何を言い出すのやら……。冥猩、お前もいちいち毛を逆立てるんじゃねえ」
汽一が冥猩を抱き上げる。
『お前が知らぬのなら、どうしたものかな……』
「そもそも、どこからどうしてそんな疑問が湧いたのやら俺にゃさっぱりだ。そっちは色々と物知りなんだろうが、こちとら只の人間なんでな。もうちょっと順序立てて話しちゃくんねえかねえ」
それもそうだ、と丹星は己の代わりに汽一らを賽銭箱に座らせて掻い摘んだ話をする。戦場で死に損なった男が生きるために罪を働き、やがて生と関係なく罪を重ねた話を。
「……はあ、なんともまあ酷い話だ」
汽一は冥猩を撫でながら、そう呟いた。
『酷い。そうだなとても酷い話だ。だが一番酷いところは、その男が己を永久に許そうとしない所だ』
「そりゃあまあ……お勤めが終わったって綺麗な身体にゃなれんだろう」
『男の勤めは永遠に終わらない』
「……」
『男は今も、牢の中にいる』
永久に永劫に、男は、焼火は丹星の腕の中から逃れられない。逃してやれない。
「俺ぁ、大して頭も良くないし学もねえ。聞かれたから答えるが、これは只の俺の考えだって事は承知してくんな」
『……』
「俺が酷えと思うのは、その……男の生き方のまずさだ。別になあ、四六時中考えなくたっていいのさ。そもそも、それは人間にゃ無理だ。死人の事は忘れなくていいが、四六時中手を合わせて念仏唱えてたら飯も食えねえし寝れもしねえ。アンタの話す男は、そういう状態なんじゃねえのか」
俺だって死んだ親や、坊の親を四六時中想ってるわけじゃねえと汽一は言う。
「そんなに申し訳なく思うんなら、まずマトモに生きるしかねえさ。マトモに生きてちゃんと、命日なりなんなりに手を合わせて供養すりゃそれで良いんじゃねえか。……人間ってのは、そうやって生きてきたんだ」
どうなんだ、と汽一は丹星を見る。
ああ、やはり良い人間だと丹星は思う。これが導きの結果だとすれば、なんと好い道筋を描いたものかと感心する。
『成程、とても良い答えだ。礼を言う』
「礼なんざどうだっていいさ。……あんたらには、坊を助けられた」
『今の話を、さて俺が言ったところで男は納得するだろうか』
「そりゃするさ」
汽一と冥猩が揃って笑う。
「焼火は何時も、自分の神さんの話ばかりするからなあ!」