お題「チョコレート」お題「チョコレート」
「はいはーい!皆さん差し入れですよ〜!」
役所への書類提出に出向いていた伊地知が、高専に帰ってくるなり白い紙袋から大量の鯛焼きを取り出し、その場にいた者たちに配り始めた。
1年の中で真っ先に手を出したのは虎杖だった。
「やったぁ!サンキュ、伊地知っさん!」
それを見た釘崎が、
「アンタねぇ、こういう時は先輩が先でしょうが!」
と注意した。横からパンダが宥めるように
「まぁまぁ、この学校はあんまそういうのうるさくないから大丈夫」
と手で大きく丸を作った。
「今日はバレンタインデーだってのに、チョコじゃなくて鯛焼きってのが…いかにも潔高らしいなぁ」
紙袋に手を突っ込みながら真希が言うと、伏黒が、
「あぁ、義理チョコならぬ義理あんこなんですね」
とひとりごとを呟くように言い、横で狗巻が両手で鯛焼きを持って頭の上に掲げながら
「しゃけ!」
と元気よく言ったのに対して、
「狗巻先輩、それはしゃけじゃなくて鯛です」
と冷静にツッコんでいた。
「ほら、今日は皆さん沢山チョコをもらうでしょうから、同じ味ばかりじゃ飽きると思って…」
伊地知は頬をぽりぽりと掻きながら、
「ですので、あんこにしました!」
と、差し入れが鯛焼きである理由を説明した。
生徒たちや他の補助監督たちにほぼ行き渡ったことを横目で確認してから、七海は英字新聞を折り畳んでソファーから立ち上がった。
「まだ余っているようならいただこうかと…」
と七海が伊地知に声をかけると、
「あ、七海さんのはこちらに…」
と、伊地知は、紙袋ではなく自分のビジネスバッグの中から鯛焼きの包みをひとつ取り出し七海に手渡した。
伊地知のその一連の動作は何気ないものだったが、ちゃんと七海の分がなくならないようにわざわざ別に取っておいてくれているということがわかって、七海の心はざわついた。同様のことが以前も何度かあって、自分だけが伊地知から特別扱いされているようで、胸の奥がこそばゆいような、嬉しいような照れくさいような、むずむずとした、なんとも言えない気持ちになった。
七海にとって伊地知は、昔からずっと気になる存在だった。
どこか一本ネジが外れている連中ばかりのこの世界で、伊地知の普通さと真面目さは貴重であり、七海にとっては一服の清涼剤のようなものであった。
癒しを求めて彼の姿を目で追っていると、向こうも同じように自分のことを見ていて目が合う、なんてこともたびたびで、最初の頃は視線が合うと慌ててそらされていたのだが、たびたび食事に一緒に行ったり飲みに行ったりするようになってからは、じっと見つめ合ってからふっと口元を緩める、というように、伊地知の態度に変化が生じてきており、今のように、伊地知が自分だけを特別扱いしてくれていると思う瞬間もままあったりして、彼のほうも、親しい先輩という以上の感情を抱いてくれているのでは?と期待を持ってしまっているのも事実だった。
しかし、ハッキリと好意を言葉にされたことはなかったし、特別扱いされていると自分が優越感を感じている伊地知の態度だって、うっすらとしたもので、勘違いだと言われればそれまでのような気がして、自分からも伊地知に、素直に気持ちを伝えることはしていなかった。
それでもいいと思っていた。
今、手渡された鯛焼きのように、じんわりとほのかに温かい伊地知からの好意を感じて、それに満足して、あえて気持ちを口にして伝え合わなくても、それでいいのだと、七海は長らくそう思っていた。
しかし、ソファーに座り直して、伊地知から渡された鯛焼きを一口食べた瞬間、七海はその考えを改めた。
七海に渡された鯛焼きの中身は、あんこではなく、チョコレート味のクリームだった。
七海は黙ってそのまま最後までチョコレート味の鯛焼きを食べ切った。全部胃袋の中におさめてソファーから立ち上がり、伊地知の様子を窺うと、新田に手伝ってもらって、鯛焼きを頬張っている面々に、湯呑みに入った緑茶を配っているところだった。その姿を、何も言わずに目で追っていると、だんだん伊地知がこちらに近づいて来て、パッと目が合った。目をそらさずにしばらく見つめ合ってから、七海がなにごとか言おうと口を開いた時、伊地知がスッと人差し指を唇の前に立てた。
ポカンとしている七海を置き去りにして、視界から伊地知が消え、しばらくすると、何かが乗ったおぼんを持って現れた。
「はい、七海さんも飲み物どうぞ」
伊地知が差し出したのは、緑茶ではなく温かいコーヒーが入ったマグカップだった。
七海は、それを受け取るふりをして、カップを持った伊地知の手に自分の手を重ねてギュッと包み込んだ。
七海は、背をかがめて伊地知の耳元に唇を近づけると、
「伊地知くん、ホワイトデーは必ず、予定を空けておいてください」
と言ってカップを受け取った。空いたほうの手で伊地知の手を取った七海が、その手を自分の頬に押し当てて掌に口づけながら、
「私のために」
と付け足すと、赤く頬を染めた伊地知は、ゆっくりと頷いた。
了