お題「箱」今日伊地知は、五条の任務に同行する予定だったのが、急に五条が、虎杖の任務について行くと言い出し、
「そのついでにちゃちゃっと自分の任務も片付ければいいんでしょ!」
と、新田を連れて3人で行ってしまったので、おいてけぼりを喰らってしまった。
伊地知は、さてどうしたものかと、ちらりと時計に目をやった。今は繁忙期ではないので、取り立てて他に抱えている仕事もなく、ポッカリと時間が空いてしまった。
こんな時、以前の伊地知なら、なんとしてでもどこからか仕事を探し出してきて残業していたところだが、今は違う。
家には愛しい恋人が待っているのだ。
なので、さっさと自分のデスクを片付けて、ウキウキと足取り軽く家路に着いた。今日は休みで、家で自分の帰りを待っているであろう恋人を、いつもより早く帰って驚かせたかった伊地知は、七海にはわざと何も連絡をしなかった。
しかし、伊地知の思いとはうらはらに、せっかく早く家に帰ったのに、あいにくと七海は不在であった。
七海の驚く顔が見たかった伊地知は、残念に思いつつも、近所に今日の夕飯の買い物にでも行っているのだろうと思い、七海の帰りをリビングで待つことにした。テーブルの上をふと見ると、七海の文字でメモが置いてあった。そのメモには、『のり』『箱』と書かれてあった。
「なんだろ、これ?買い物リストかな?のりって文房具ののりですかね?箱は…、なんだろ?あ、もしかして箱のり?」
そう思った伊地知は、今どきは指が汚れないスティックタイプののりが主流なのに、わざわざ箱のりを七海が買おうとしてるのはどうしてなんだろう?と思ったついでに、蓋の部分が赤い帽子になっている黄色い顔のフエキくんのりを使っている幼稚園児のような七海の姿を思い浮かべてしまった。
「ぷッ…フエキくんのりを使ってる七海さん…か、かわいいかも…ふふふ。蓋を開けて、人差し指で画用紙にのりをぬりぬりぬりぬりしてる七海さん…ふはっ、その絵面、面白すぎる…」
とひとりで想像して噴き出してしまった。
「いや、待てよ…、箱、のり…。もしかして箱乗りかもしれない?!」
箱乗りとは、走行中の車の窓から上半身を外に出して乗っている状態のことを指す。暴走族だとか選挙カーだとかカーレーサーのパフォーマンスだとかでしかお目にかかったことはない。もちろん伊地知もそんな道路交通法違反な運転方法は試したことがなかった。しかし、この七海の書き残したメモが箱乗りを指すのだとしたら…と、伊地知は想像をめぐらせてみた。
呪術高専の黒い車の窓から、白い手袋をはめて、大きく『七海建人』と書かれた襷をかけた七海が、その上半身を外に乗り出してマイク片手に
「この七海建人を、なんとしても国会に!皆様のお役に立たせてください!」
と絶叫している姿を…。
「ぶっふぉ〜!ひ〜!想像しちゃった!面白すぎる!真顔で言ってそう!そして私がその車を運転してるのまで想像しちゃった!ふふっ、ふふふふ、あっはっはっはっ、笑いすぎてお腹痛い…」
自分で想像しておきながら、選挙カーに箱乗りしている七海の姿があまりにしっくりき過ぎて、伊地知は笑い死にしそうになった。
「いや待てよ…箱乗りってたしか、ペター・ソルベルグがパフォーマンスでやってたよな…」
そこでまた、伊地知の頭の中では七海が、今度は青いスバルのインプレッサのドアを開け、これまた青いレーシングスーツに包まれた上半身を外に乗り出して、手元では器用にハンドルを操りながら走行している姿を思い浮かべてしまった。しかし、実は伊地知が見たことがあるソルベルグのパフォーマンス映像には続きがあって、この歴戦のWRCチャンピオンは、調子に乗ってさらに身体全体を車外に出して、そこからまた運転席に戻ろうとして手が滑り、すっ転んで車の外に放り出されてしまうのだ。それと同じことを、七海をモデルに想像してしまい、今度こそ本当に笑い死んだ伊地知がいたとかいなかったとか…。
伊地知が、涙目で腹を抱えて爆笑しながら床をのたうちまわっていると、玄関のドアが開く音がした。
ハッとして慌てて平静を装い、リビングの床に正座していると、
「伊地知くん?早かったんですね?」
と、問いかけながら七海がリビングへとやって来た。
「おかえりなさい、七海さん。五条さんのわがままで今日の任務に同行せずに済んだので、帰ってきちゃいました」
先ほどまで大爆笑していたことを隠すように、床に正座したまま両手で赤い顔を隠しつつ伊地知がそう言うと、
「そうでしたか。おかえりなさい、伊地知くん。お疲れ様でした。どうかしましたか?」
手で顔を隠したまま固まっている伊地知を不審に思った七海が聞いてきたが、
「い、いえ、なんでもありません」
とゴシゴシと顔をこすりつつ、伊地知はごまかすように愛想笑いを浮かべた。
「そういや七海さん、どこかへお買い物にでも行かれていたのでは?」
「ええ。テレビで紹介されていたのを見て、どうしても欲しくなってしまって…」
と言って紙袋から白木の箱のようなものを取り出した。
「なんですか?これ?」
「のり箱です」
「の、り、ば、こ…」
伊地知は、ギギギと油の切れたブリキの人形のようにぎこちなく首を動かし、七海と箱を交互に見た。
先ほど、箱とのりで散々脳内で七海を使って遊んでしまった伊地知は、チクチクと心を痛めつつ、
「のり…ばこ、って…なんですか?」
と、やや挙動不審気味に冷や汗をたらたら流しつつ上目遣いで七海に問うた。
しかし七海は気にする様子もなく、
「伊地知くん、お腹すいてるでしょう?夕飯を食べながらご説明します」
とさっさとキッチンへと向かって行ってしまった。伊地知は、ぺちぺちと両手で自分の頬を叩いて、「よし!」と気合を入れて立ち上がった。
食卓に立ちのぼる、炭と焼き海苔の芳ばしい香り。
「えっ…のり箱って、まさか…」
「こうやって、炭で海苔をあたためて、パリッと香ばしく焙るための箱なんですよ。さっきテレビで紹介されてたお蕎麦屋さんでこうやって使っているのを見て、自宅でもぜひそれを食べてみたいと思いまして…」
「あー、のり箱って、焼き海苔箱…なんですね…」
「え?ええ、そうです、よ?」
拍子抜けしたような伊地知を不思議に思いながら、七海は、先ほどテレビで見て食べたい!と思ったものを、こうして実際に食べられる喜びでニッコリ笑顔を浮かべた。
そんな七海とは対照的に、自分がやらかした変な想像と、焼き海苔箱という粋で通人好みの七海との、あまりのギャップの大きさに、申し訳なさ過ぎて泣けてきた伊地知は、
「ホントウニ…マコトニ、モウシワケアリマセンデシタ…」
と謎の土下座をかまして大いに七海を驚かせたのであった。
おわり