メイク落としはあとで渡してあげます私の後輩の伊地知くん、真面目で一生懸命で仕事もできる。
でも、気になることがひとつある。
残業が多すぎる!
呪術師同様、補助監督も万年人手不足。加えて、彼が抱えている案件の量が多い!なんであんなに?と思うけど、伊地知くんがやらなくてもいい仕事まで引き受けちゃって、きっと根っからのお人好しなんだと思う。
高専の学生の引率任務なんて、他の補助監督に任せればいいのに…。私がそう言うと、
「学生さんとの任務は車中でのお喋りも弾むし、楽しいんですよ」
なんて言って優しげに微笑む。その笑顔に、私はキュンとしてしまう。そして続けて伊地知くんは、どこか遠い目をして言うの。
「それに…彼らの成長を見守る楽しみもありますし…」
なんて。
「何それ?お父さん目線?」って私が茶化して笑いにしたけど、本当は、私は知っている。
自分よりもはるかに若く未来もある学生の、その早すぎる死を目のあたりにしなければならない事態もありうることを、伊地知くんはわかっている。わかっていて、その辛い役目を、他の誰かではなく、あえて自分が引き受けようとしていることを。
それを思うと、さっきまでキュンと弾んでいていた私の胸は、ぎゅうううと心臓を掴まれたかのようにズキズキ痛んだ。
ね、伊地知くん、キミの優しさはもう充分わかったから。だからせめて、休める時には休んで欲しい。
「伊地知くん、今日はもう、これで帰れるよね?」
「あ…、どうしようかな…。いや、やっぱり、これだけ片付けてから…」
「あ、そう?じゃあ私は先に帰るけど…あんまり遅くならないようにしてね…」
「いつもお気遣い、ありがとうございます」
ふにゃりと眉をさげて言う伊地知くん。
ん〜、意外と彼、気が弱そうな見た目に反して、実は強情なのよねぇ。
言いながら私は、カバンから化粧ポーチを取り出して、いつものように帰宅前のお化粧直しを始めた。お化粧直しと言っても、リップクリームと口紅を塗り直すだけだけど。
その時ふと思いついて、ポーチの奥に眠っていた、いつもは使わない口紅に手を伸ばした。目が覚めるほどハッキリと濃い赤色の口紅。その綺麗な発色と意志の強さを感じさせる赤に惹かれて買ったはいいものの、地味な補助監督の黒スーツには派手すぎて目立ち過ぎて似合わないから、仕事の時には塗ったことがなかった。その真っ赤な口紅を手に取って、いつもより強く自分の唇に押し当てた。グッと押し付けて、唇の上に色を乗せていく。そんな私の口元を、横目でちらりと盗み見しながら、伊地知くんがゴクリと生唾を飲み込んだのを、私は見逃さなかった。
「伊地知くん」
「はっ!はい…」
声をかけると、よこしまな思いを抱いたことが後ろめたかったのか、ややオドオドしながら、俯き加減に返事をした。
「んむッ?!」
そんな伊地知くんの顎に手を当てて、クイッと上を向かせ、有無を言わさずに口付けた。
「…んぅ…ん、ぅ…」
唇と唇を、わざと擦り合わせるように強く押し付けて、時間をかけて角度も変えて、何度も口づけた。
伊地知くんは無抵抗だった。
唇を離して伊地知くんの口元を見た私は、思った通りの出来栄えに満足して、伊地知くんの顎から手を離して距離を取った。
呆然とする伊地知くんの顔は真っ赤になって、「あ…、え?…ふぇ?」と突然の出来事にパニックになっていた。
私は化粧ポーチから手鏡を取り出すと、もう一度伊地知くんに近づいて鏡を見せた。
「唇にそんな真っ赤なルージュをつけたままじゃ、もう残業できないね〜」
「えっ?あっ!ま、まさか…、わざと…?」
口に手をやってオロオロする伊地知くんの耳元で
「だから、ね。一緒に帰ろうよ?」
と、真っ赤なルージュの唇で囁いた。