京園⑪(ワンドロ提出作品)*
その日、京極真は家の者に使いを頼まれて買い物に外出していた。
言われた通りの物を買い揃えて実家の旅館へ戻るべく自転車で移動していた道の途中で、湿り気の多い暑さや照り付ける陽の光の肌を焼くような痛みとは別の、異様な空気を薄ぼんやりと感じ取った。救急車、消防車、パトカー等の数台の車がサイレンを鳴らしながら通過していく様子を横目で見て、何かあったのだという事だけは察せられた。
実家が旅館である為か否かは判別こそつかないが、それらの緊急車両に対して警戒心や敬意よりも、同情のようなものを彼は覚える。こんな暑い日に大変だな、と彼は意味もなく空を見る。そしてそのまま視線を緊急車両が向かった先、自然発生したであろう人の群れへと向ける。自転車を降りて手押ししながら近付いてゆくと見知った近所の年輩者がいた。
「こんにちわ」
「おお」
声を掛ける前から京極が近付いている事に気付いていたらしいその人物は、軽く麦藁帽の庇を捲るように持ち上げて挨拶を返した。笑顔が何処かぎこちない。首に巻いたタオルで汗を拭って布端のタグを弄している。
「溺れたのか流されたのか、見つからないってよ。大学生って言ってたかな」
目線を海の方へ向けたまま、訊いてもいないのにその人は彼にこの騒ぎの説明をした。誰かに話したくて仕方なかったのかもしれない。
集まった人々の影の奥に、駐車された緊急車両と警察官が立っているのが見える。更にその向こう側に遊泳禁止の看板とコンクリートの塀がある。確かその下には消波ブロックが積まれてあった筈だと京極は記憶を辿った。実際に今目にしていなくても自分の生活圏内の地理や海岸沿いがどのような景色になっているかは分かる。土地勘、というものだ。
看板や規制線でどれだけ注意を促しても、この海は毎夏必ず、誰かしらを溺れさせ呑み込んでゆく。
「どうしてわざわざ危険と分かってて行くんでしょうか」
京極は呟く。その溺れた学生が心配だとか無事を祈るとか、そういった感情ではない。ただ、純粋にその心理が分からないと思った。
幼い頃から厭になるほど、寧ろその感情さえ消えるほどに、過去の伊勢湾台風、暴れ天竜、起こるかもしれない東海地震の話も含め総て、自然とくに河海の恐ろしさを心骨に刻み付けるように教えられてきた彼にとって、海は生と死を併せ持つ大きな存在だった。生半可な気持ちで近付いていい場所ではない。それが遊泳禁止区域ならば尚更だ。
「しょうがないんだよ。多分それが若さってやつでさ。誰かじゃなくて、自分で何でも決めて、確かめたり納得したり、無茶してでもそうしたい時ってあるんだよなぁ。だから、しょうがないんだ」
年輩者は麦藁帽を深く被り直して、それから力なく頭を振った。しょうがない、と繰り返されたその意味を、京極は考える。助けてやれないもの、救われないもの、捨てざるを得ないもの。
人ひとりの命は、自然の前ではあまりに簡単に秤にかけられて勘定されてしまう。生死の水面を漂うそれが沖まで流されてしまえばもう助けてやる事は出来ない。生きている人間が危険を冒してまで近付くべきではない。海の側で生きる人間達によって導き出された教訓はたかが齢一八の彼にさえも染み付いている。侮れば足許を掬われる、隙を見せれば急所を狙われる、油断すれば死を招く。道場の畳の上だろうが波の上だろうがそれは同じ事だと彼は目を眇めた。
「あんたも気を付けるんだよ」
「はい」
「いや、はいじゃなくて……ああ、まぁなんだ……あんた小さい頃から自分で、こうだーって決めたら、どんどん進んでっちまうような、そういうとこあるから……そういう性分だって分かってるから、みんなしょうがないで済ませてるけどよ」
「それは、……すみません」
「無茶だけはしちゃいかんよ」
力なく笑いかけられて、京極は萎縮して頭を下げる。年輩者は俯いた彼を見遣り、眉尻を下げて目を細めた。
救命ボートが一旦戻ってきたらしい。ダイバーの格好をした者が入れ替わりで乗り込んでいくのが見えて、流されたのではなく溺れて沈んだと見て海中を捜索するのだろうと察せられた。諦めのような気持ちが自然と湧いたのか、集まった人の群れは波が引くように、ゆっくりと疎らになっていった。軽い会釈を交わして年輩者と別れて、京極もまた自転車に跨がる。
ペダルを漕ぎながら、救われない側のものについて彼は思案する。汗でずり落ちてくる眼鏡を、ブリッジ部分を押し上げて位置を直した。
他ではない自分の意志でちゃんと知りたい、この目でもう一度見て確かめたい、その上で自分自身に決着を付けたい。
──東京体育館、メインアリーナ、向かい側の応援席にいた、あの日の彼女の声がこんなにもまだ耳の奥に残っている。
溺れると分かっていてそれでも見知らぬ海へ飛び込みたいと思う心と、名前も知らないのに記憶の中の面影だけで探しにいきたいと思う心は、同質のものだ。あれは自分だ、本質的に何も違うところなどない。無謀で、愚かな、身の程知らずの──。
京極はふっと短く息を吐いた。それからペダルを漕ぐ足に力を込めてスピードを上げると、視界の端に映る海を振り切るように自転車を走らせた。
予約客の宿帳の中に、忘られじのその人の名前がある事を、京極真はまだ知らない。
〈了〉