今年もよろしくお願いします「ねえ、お母さんからみかん持ってけって言われたんだけど」
昼寝用に顔に乗せていた雑誌がばさりと音を立てて床に落ちる。あー寒い寒い、と言いながら、ベイン家二番目の姉がこたつ布団を大きく開いた。外気にさらけ出された足が思い切り冷えたので、ブラッドリーは長い足を折りたたんだ。大学を出た後、遠くに引っ越した一番上の姉と違い、家は出たが隣県に住んでいる姉は、時折こうして顔を出す。
言われたから、どうだと言うのだ。無視を決め込んで体を背けると、無視すんな、と足を蹴られる。生まれ持った長い足も、こういうときは考え物だ。
「玄関のどっかにあったろ」
「なかったもん」
「じゃあ誰かが食ったんだよ、知らなかったかもしれねえが、食い物は食ったら無くなるんだ。残念だったな」
「は? 真面目に探してくれない?」
眉を顰め、赤く塗った唇をへの字に曲げる。きょうだいの父はみな同じだが、母はそれぞれ違うので、顔や骨格、雰囲気などはあまり似ていない。それでも怒った顔は一番目の姉と三番目の姉に、二人の兄に、そして父にそっくりで、だから当然ブラッドリー自身にも似ているのだろう。母親が異なっても、兄弟仲は不思議とそこまで悪くは無かった、少なくともブラッドリーはそう思っている。だが、遠慮や居心地の悪さはあるようで、進学や就職を理由に、上のきょうだい達はみな家を出た。こうして度々顔を出すこの姉が、珍しい例と言える。目の前の姉はその不機嫌さを隠そうともしていない。
これはおそらく見つけるまで帰らない。どっかりと腰を下ろして、すっかりくつろぐ姿勢の姉を睨むが、気付いた様子は無い。しぶしぶ体を起こし、ひとつあくびをした。
みかんの行先なら、本当は知っている。今朝、マンションから帰るネロにその大半を押し付けたばかりだ。
両親不在の家に泊まった上に、了承を得ているとはいえ、冷蔵庫の中のものを晩と朝の二度使わせてもらって、更に土産までもらう訳にはいかないというのがネロの主張だったが、ネロが使った後のキッチンは、使う前よりシンクもボードもきれいにされている、と母は機嫌良く語る。と、何度ブラッドリーが言っても、頑なに信じないのだった、あの変な所で頑固な男は。
父宛ての歳暮品としてどこぞから届いたみかんは、おいしいけど早く食べちゃわないと傷むのよね、と母がことあるごとに言っていた。だからあんたも協力しなさい、という言葉裏の意味を理解はしても、あれをちまちまちまちま自分で剥いて食べる気にはならない。ネロの奴なら、食べきれなくても何らかの料理に使うだろうし、そうなればお裾分けと礼と言ってうちまで持ってくるに違いない。そう判断してネロの持っていたエコバッグにどさどさ詰めた。
「ほら」
冷えた廊下から戻り、こたつの上に陽と掴みしたみかんを置く。
「……これだけ?」
「文句あんならてめえで探しに行け」
「は? てめえって何様? ブラッドのくせに生意気……」
結局、姉は廊下には出なかった。こたつに入ったまま、机上へ伸ばされた手が四つある内の一つのみかんを取る。長く飾られた爪に乗った石やパールが、みかんの皮に突き立てられた。指先からやわらかく柑橘が香って、たちまち部屋中に広がっていく。取り分けられた、やたらと白いみかんの一房。
「そんなに見ても、あげないけど」
「んな栄養の高そうなもんいらねえ」
そう言って横になる。再び雑誌を顔に乗せた。ネロがいた朝と同じ匂いになった部屋で、ブラッドリーは瞼を閉じた。
□
ネロが満足気な笑みを浮かべていた。あの顔は蛇口のレバーに残った、水滴の最後の一滴まで拭いきったのだろう。ブラッドリーの家のキッチンを、母の次に使っているのは間違いなく外の者であるはずのネロだ。よっぽど勝手知ったるといった具合だろうに、人の家のキッチンを使うことにネロはやや抵抗があり、今もそれなりに気を使うらしい。他人の領域って感じがする、とネロは言うが、母の性格上、多少キッチンを汚されることより、息子の幼馴染であるネロに、今でもただの他人と言われることの方がショックだと思うが、黙っておく。
「俺もこたつ入っていい?」
「おう」
ブラッドリーの位置から直角に、控えめに布団を捲ってネロがこたつへと入ってくる。暗くてあたたかな空間で、すぐに足がぶつかった。あ、わり、と謝るネロのふくらはぎを足で挟むと、やめろって、と言われたが、顔はどこかゆるんでいる。
「そういえばお袋さんからメッセージ来てたぜ。飯食ったらみかんも食えだと。高校生なんだから3個、4個はいけるでしょ、って」
ネロが言う"お母さん"は、ネロの実母ではなく、ブラッドリーの母親のことである。ブラッドリーの知らぬ間に、アプリの連絡先を交換していたのだと言う。
「あー……」
気の無い返事しか出てこない。朝食を食べ終えて、あと一時間もしたらネロは帰る。その間にみかんの三つ四つを食べるくらいの胃の空きはあるが、特に進んで食べたい物でもない。
「……まさか、みかんも野菜判定してる訳じゃねえよな」
「んな訳あるか。でもあれだな、口の中にあの白いのが残るのが好きじゃねえ」
「さっきのメッセージも、"昔から偏食気味だと思ってたけど、甘やかし過ぎたかしら"って心配してたぞ」
「…………」
「その、うげ~……、って態度、ちょっとくらい隠せよ」
仕方ねえなあ、と言うと、ネロは籠の中のみかんを一つ手に取った。軽く揉んでから、指先がみかんの皮に食い込んだ。
「えっ、全然剥けねえ……なんだこれ……」
頼まれてもないのに、みかんを剥き始めたネロが苦戦している。その様子がおかしくて、ふっ、と笑うと、膝を軽く蹴られる。
「そういやそれ、一個一個丁寧に和紙に包まれて桐みたいな木の箱に入って届いてたな」
「そんなのみかんじゃなくて、みかん様じゃん……」
「高くて甘いみかんは、皮が薄くて剥きづらいらしい」
「へえ……」
相槌を打ちながら、深爪気味の指が白い所をわざわざ取り除こうとしている。ムキになってる姿は面白かったが、再び笑ったら機嫌を損ねそうなので、ブラッドリーは笑いを堪えた。ことあるごとに野菜は食べさせようとする癖に、これはネロにとって甘やかしの判定にならないんだろうか。
「はあ……降参、降参。こんなもんでいいだろ。みかんは白い所が栄養高いらしいし」
そう言いながらも、ネロの手で取り分けられたみかんは、大まかに筋を除かれて、やわらかそうな房の色をしていた。
「誰の知識だよ、それ」
「誰だっけ、ばあちゃんかな」
「おまえの家、ばあさんいたのか」
「いや、もっとガキの頃かな、親が二人とも仕事のとき、アパートの隣の貸家のばあちゃんがさ……いいだろ別に、そんな話」
そう言うと話を切り上げられる。
つまらないことでも、嫌なことでも、ネロの話ならいくらでも聞きかった。