天狗の導入 最後の一つだ。よく色付いた柿の実に指先が触れた途端、ネロの耳に地上から静止の声が届いた。
「すまんが、そのてっぺんの一つは取らないでおくれ!」
依頼主にそう言われてしまえば従う他無い。ネロはそっと伸ばした手を離した。
言われてみれば、去年もてっぺんの実は取るなと言われたような気もする。そのときも確か何故だろうと思ったが、機を逃して聞けずじまいだった。
秋も深まり、すっかり葉が落ちた木の枝先に一つだけ残された果実は、風に吹かれる度ゆらゆらと不安そうに揺れている。何かしら理由はあるのだろうが、高い場所にぽつんと一つだけ取り残された柿の実を見ていると、なんだか少しだけ胸の辺りがざわついた。
「悪いねえ、毎年毎年、手伝ってもらっちゃって」
「それこそ毎年のことなんだから気にしないでくれ。高所の作業は俺達天狗のが得意なんだしさ」
身体を浮き上がらせる秋風は、暴れたりないとネロの周辺を付きまとっている。それらを抑えながら地上に降り、羽を折りたたむ。背負い籠を下ろすと合計で籠三つ分の柿の山が出来た。いずれの籠にもどっしりと重そうな柿が詰め込まれている。橙色の実は甘そうに見えるが、このままでは渋が強すぎて食べられない。この仕事の報酬として、ネロは籠一つ分を受け取ることになっている。
「疲れたろう、ひとまずここにお掛け」
差し出された湯飲みを受け取ると、ネロは縁側にかけて空を見上げた。秋晴れの空と、大きく聳え立つ立派な柿の木。煎れたての茶を啜りながら、先ほどまで自分が飛んでいた辺りに視線を凝らす。取り残されたあの柿は、どうなるんだろう。
どっこいしょ、とネロの隣に掛けながら、老婆も柿の木を見上げる。銘々皿に乗せて差し出されたのは、少し小ぶりな豆大福だった。
「ここの豆大福はねえ、ちょっと小さくて、皮がやわくて、甘さが控えめで……ついつい店の前を通るたびに買ってしまうんだ。ああ、足りなかったらおかわりもあるから」
勧められるまま、ネロは豆大福を口にした。彼女の言う通り、皮はつるりとやわらかく、豆の硬さも、餡の甘さと塩気の塩梅も絶妙で、ぺろりと食べれてしまう。甘味を特別に好いてる訳ではないあの男も、これなら気に入って食べるかもしれない。
この妖狐の老婆は、柿の木の持ち主であり、食堂の常連の一人であり、また桜雲街に店を出した際に世話になった土地持ちの主だった。
食堂を開けた最初の頃は、夫婦睦まじく通ってくれていたのだが、間もなく夫に先立たれてしまった。大きな病気や事故ではなく、大往生だったという。
ひとりで店に顔を出すようになった彼女は、もともと小柄な人物ではあったが、尾の白毛が増え、背もすっかり丸くなってしまった。店を開く際に信頼できる大工を紹介してもらったりと、恩を感じていた為、ネロはつい、何か手伝えることは無いかと彼女に訊ねた。
最初は柿の木の伐採を頼まれた。
彼女の屋敷の中庭に、その柿の木はあった。門も屋根もとっくに超える高さの立派なその木は、かつて彼女が嫁入りした際に植えたのだと云う。
「本当に伐っちまっていいのか?」
「そりゃもったいないとは思うけど……私がいなくなったら世話する人もいないしね」
屋敷の方は彼女の息子夫婦達が暮らしており、彼女は専ら中庭を挟んだ離れで過ごしているのだと語った。大きくなった柿の木は亡くなった夫が主に手をかけていて、息子夫婦達はあまり興味が無いのだという。
それは両親が大事にしていた木をどうこうすることに抵抗があってのことかもしれないし、本当に柿に興味が無いのかもしれない、ネロはその辺は知らないが、勝手に口出しするのも憚られたので、黙って一通り話を聞いた。
おせっかいかもしれないが、と前置きの上で、口を開いた。
「なあ婆さん、あの木、立派な実をあんなに付けてるんだしさ。伐っちまうのはいつだってできるが、今年の分の柿を収穫してからでも遅くないんじゃないか? これを駄目にさせちゃ柿の神様の罰が当たっちまう」
「あんた、その歳で神様を信じてるのかい」
驚くような顔をする老婆を前に、ネロは目を逸らして口ごもった。妖狐は自らの妖力で変化や狐火を起こす一方、天狗は山や風の精霊の力を借りてその力を発揮する。目に見えない精霊は色んなものに宿っていて、例えば長く大事に使った調理道具や竈に住み着いていて、丁寧に使ってやればやる程、毎日ネロの期待に応えてくれる。それを妖狐に一から説明してもいいが、それではムキになった子どものようで恥ずかしい。
事実、百年以上この地にいる柿の木からは精霊の気配を感じた。種族の異なる彼女はそうした気配は感じないのかもしれないが、この屋敷をずっと見守って来た木を伐るのは気が引けた。
「そうだねえ、曾孫も私の作った干し柿は喜んで食べてくれるんだ、今年はまだ残しておこうかね」
彼女からその返答をもらって以降、ネロはこうして柿の木の世話と収穫を手伝いに定期的にこの家を訪れている。
店の裏でも干し柿は作るが、丁度いい大きさの桶が無い為、渋抜き柿を作るのは、彼女にまとめてやってもらっていた。大きなたらい桶に身を寄せ合うように浮かぶ柿は、芋の子を洗うようという様子で、柿の渋を抜くよう、と言い換えられるかもしれねえな、なんてことを考えながら眺める光景が、ネロにとって秋の風物詩となっている。代わりに、干し柿用に軸を残した柿に紐を引っかけて吊るす作業は、ネロが大半をまとめてやっていた。
「そういや訊こう訊こうと思っていたんだけど、あのてっぺんに残した柿には何か意味があるのか?」
「あれはね、神様へのお礼だよ。今年も実りをありがとうございました、来年もお願いしますって捧げるのさ……なんだい、その顔」
「いや……」
あんたこそ目に見えない物を信じているじゃないか、と喉まで出掛かった言葉を、ぬるくなった茶で流し込む。
「まあね、冬になればいつの間にか落ちてたり、鳥に突かれて落とされたりするから、無意味っちゃあ無意味なのかもしれないけど、この街はそういう祈りで出来た街だからねえ」
彼女の目線が柿のてっぺんから屋敷の向こうへと向けられる。視線の先には竜の城が見える。竜が守ってきた、願いを叶えるという桜雲街一の桜の木が静かにそびえていた。
「…………ん?」
「どうした」
垣根の向こうの杉林、その上空に黒い影が見えた。今しがた黒い点だった影は、既に小指の先ほどの大きさになっている。かなりの速度でこちらに飛んで来ているようだが、彼女の目にはまだ見えていないようだ。ネロはあの男を見間違えない。
「ええと、知り合いが……こっちに向かって来ているような?」
「なんだい、そりゃ」
老婆は呆れたような顔で首を傾げた。彼女の家に行くことは伝えていたはずだ。後ろめたいことは何も無いが、ネロはそわそわと落ち着かなくなる。そうこうしている内に風の気配が強まって、目を開けられない程の風が吹き付けた。立ち込める砂埃に思わず腕で顔を覆う。一瞬、体を覆い隠すほどの大きな影が光を遮り、次に見上げたときには濡れ羽色の翼が二度、三度大きく羽ばたいて、辺りは水面のように静かになった。
「……ちょっとあんた、知り合いじゃないじゃないか」
老婆はじろりと蔑むような視線をネロへと向けた。白々しい、何を今更、という顔だ。
「え、まあ、はい……」
「何の話だ?」
風で乱れた頭巾の下の髪を手で撫でつけながら、降り立ったブラッドリーは訝しげな顔をする。
「こっちの話。おまえこそなんで来たんだよ? 夜には帰るって書き置きしてきただろ」
「もうすぐ日が暮れるからわざわざ迎えに来てやったってのに、なんだよその口ぶりは」
感謝しろっての、と言いたげな顔をされて、ネロは溜息を付いた。
店の中で店主と料理人の顔をしている間は、どう扱われた所でなんともない。気に入らなかったら言い返すし、包丁だって投げるし、それでも我慢ならなかったら殴り合うし。
――でも、これはなんだか、一人で帰れない子ども扱いされてるみたいじゃねえ?
確かにこの所、街では怪異とも事件とも判別の難しい噂がしきりに流れている。向こうのお山で鬼がまた暴れている話、夕暮れどきに何人かの子どもが姿を消した話、しかし、ネロだって現役の盗賊という立場からは退いた身だが、その辺の妖怪に遅れを取ることはまずない。
言外の、来るんじゃねえよという気配を受けたブラッドリーは、叱られた少年のように唇を尖らせた。
「この婆さんの手伝いのあと、決まっててめえは大荷物抱えてへろへろ帰って来るから、心配して来てやったんじゃねえか」
「おや、悪かったね、あんたんとこの従業員をこき使って」
「婆さん、大丈夫だから。へろへろになんてなってねえから」
――なんてことを言うんだこいつ!
確かに、収穫した柿の他にも、そういえばあれがあった、これももらいものだから、と、この気風の良い妖狐はネロにたくさんの土産を持たせようとする。さっき食べた豆大福だって、縁側に置いてあった笹の小包の中身はそれだろう。
食べきれないなら店で使いなと山ほどの大根や甘藍は確かにありがたいが、そのあまりの量に、飛ぶときちょっとふらつきそうになるのも事実だ
「本当に。俺としちゃ、今更あんたに遠慮される方が応えるっつーか」
「ふん……」
老婆はブラッドリーにわざと聞こえるように鼻を鳴らした。
さっきまでは和やかに茶を飲んでいたってのに、どうしてこんな険悪な雰囲気になってしまったんだろう。店じゃ厨房に引っ込んでるから、こんな風に客とブラッドリーとの間を取り持つなんてほとんどしたことがない。居たたまれなくなって、ネロは下駄の鼻緒を見た。
――っていうか。発端はこいつが俺のことを信じないで迎えに来たからじゃないだろうか?
ブラッドリーは別に柿も大根も甘藍もそんなに好きじゃない。大根と甘辛く似た手羽先は喜んで食べるが、それだって大根はおまけ程度にしか捉えていない。婆さんの気を悪くして土産が減っても、食の細い彼女の足が店から遠退いても、痛くも痒くも無いと思っているに違いない。実際、ブラッドリーはもうすっかり我関せずの顔をしている。ネロはだんだん腹が立ってきて、下駄の先でブラッドリーの脛を軽く蹴飛ばした。
「てめ……、ちっ……もう用は済んだのか?」
文句が飛んでくると思ったが、肩透かしを食らい、ネロは目を丸くする。
「まあ、あらかたは……?」
「そうだね、もうすぐ逢魔が時だ」
ぴく、とブラッドリーの形のいい眉が寄った。
「商売してるあんたらの耳になら入ってるだろう? 最近は物騒な噂があるからね、今日は用心して帰りな……いやお待ち、そういえば芋茎を分けてもらってたんだった。ちょっと待ってな、二人いるなら持って帰れるだろう、大根も、豆も、うちじゃ食べきれない程あるんだ」
言うなり、曲がった腰を伸ばしてすたすたと小屋の方へと行ってしまった。
「……芋茎だってよ」
遠ざかった小さな背中を見送ると、ブラッドリーは気安い調子でネロの肩を抱いた。振りほどこうとして、ネロは男の様子を見る。先ほど見せた怒りや警戒の様子はどこにも無く、にやにやと笑みを浮かべていた。
「だから何だってんだよ」
「使うか?」
「は? 何に」
「言わせんなって」
肩を抱く手がするりと腰に回された。芋茎がどうしたと言うのか。天ぷらにしたってこいつ、ほとんど食わねえじゃん。しばし思案した後、ようやくその意味に思い当たったネロは「てめえ!」と拳を振りかざしたが、ひょい、とかわされる。
「なんだい、喧嘩してたんじゃなかったのかい?」
小屋に保存していた野菜を籠いっぱいに詰めながら、呆れたように老婆が呟いた。会話の内容までは聞こえないが、楽しそうに追いかけあっている。そして、馬鹿だねえ、と小さく呟いた。