その方の名は。(この方は……)
一人でこっそり修行をしようと、重雲は璃月港から離れた森の間を歩いていた。木々の間には人が歩ける道があるものの、所々折れた枝や、土や草木の至る所に血の痕がある。ここには先程まで妖魔がいたのだろう。あわよくば退治して、行秋への土産話にしたい。そう思っていたが、血痕を辿って行くと、妖魔ではなく人影があった。重雲はそっと近づき人影を確認する。その人は木にもたれ掛かるようにして座っていた。伏せられている顔は彫刻のように美しく整っていて、息をしていないかのように静止している。数回しか会ったことはないが重雲は目の前の人物を知っている。
──間違いない。降魔大聖だ。
胸の前に抱えられている槍には、僅かに血の痕がある。負傷しているのか定かではないが、魈自身にも所々血液がついている。
声を掛けるか悩む。いや、声を掛けたとて何を言えばいいだろう。先日の詩歌大会で会った時には畏まらなくて良いと言われたが、相手は仙人様だ。人の気配があればすぐに目を覚ましそうだが、そういう訳でもなさそうな所を見ると、かなりの深手を負っている可能性もある。
(人を呼んで来た方がいいだろうか)
見てしまった以上立ち去ることはできないが、重雲にできることも何もなかった。白朮を呼んでくるべきか。はたまた、仙人の弟子であり重雲の叔母である申鶴か。あるいは、璃月一の物知りであろう鍾離に声を掛けるべきか。鍾離に街中で会うことはあれど、こちらから出向いたことはほぼないに等しい。胡桃に居場所を聞けば良いかもしれないが、そんな都合よく会えるとも思えなかった。
重雲はひとまずその場に腰を下ろし、思案を続ける。妖魔はきっと魈が退治したのだろうが、また現れないとも限らない。
そうして数十分と経った。相変わらず魈は微動だにしないが、妖魔も現れない。それもそのはずだ、自分がここにいるのだから。
あまりにも静かなので、いつもは残念に思う自分の特性が少なからず役に立つのではないかと思い始めた。重雲がここにいる限り妖魔は現れない。ならば、魈が少しでも回復できる時間稼ぎができるのだ。
……とは思ったものの、しばらくすると日が暮れてきた。家に帰らなければならない。仙人は回復するのにどれくらい時間がかかるのだろう。そんなこと、重雲は知る術もなかった。
「……降魔大聖、どうかご無事で」
ここで夜を明かす訳にはいかない。名残惜しいが重雲は立ち上がり、魈に近づいて声を掛けた。その刹那、カッと黄金の目が開き、魈の手のひらが重雲の肩を掴んだ。
「ひっ」
少しの恐怖を感じ、重雲は腰を抜かしてその場に尻もちをついた。その間にも魈は右手に持った槍を勢いよく重雲の肩越しに放つ。ほんの数秒の出来事だったが、遠くで断末魔のような声が聞こえた。
「お前のお陰で休めた。礼を言う」
魈の声が聞こえたが、この数時間が幻であったかのように、その場にはもう降魔大聖の姿はなかった。一陣の風が吹き抜け、掴まれた右肩に僅かな痛みを感じ始める。じんと痛む肩を押さえ、重雲は虚空を見つめる。しばらくその場から動くことができなかった。
「ほう。森の中で降魔大聖に会ったのか。詳しく聞かせてくれないか」
あくる日のこと、重雲は胡桃と行秋に魈に出会った話をしていた。すると、どこからともなくぬっと現れた鍾離が、話を聞きたいと輪に入ってきたのだ。
「僕は何もしていないんですが、礼を言われました」
「そうか。きっと仙人様は重雲がそこにいたことには気づいていたのだろう」
「きっとそうですよね。……鍾離さんは、仙人が回復するのにどれくらいの時間が必要かというのはご存知なんでしょうか?」
「俺も詳しくは知らないな。しかし、回復してようがしてまいが、妖魔が現れたのなら、きっと仙人様はそこへ行くのだろう」
「すごい……僕も、もっと修行しなきゃ」
「はは。重雲殿が強くなることは、きっと彼の助けになるだろう」
そう言うと鍾離の口角が僅かにあがった。まるで古くからの知り合いに向ける信頼の笑みのように見えた。それを向けられたのは重雲ではなく、おそらくは……。いいや、往生堂の客卿というくらいだ。魈とも関わりがあるのかもしれない。
鍾離に助けになると言われると、なぜだかそんな気がしてくる。今度はちゃんと魈が休めるように強くなっておかなければ。
そう思う重雲なのであった。