小鳥の君(これは……)
近頃勢力を増していた厄介な魔神をようやく沈めることができた。あの魔神の傍には強靭な夜叉がいると聞いていたが、何故かあの場にはいなかった。それも勝利の理由の一つかもしれない。他の者には休むよう伝え奴の拠点跡地に赴き、危険因子が他にもいないか、捕らわれている凡人がいないかなどモラクスは調べて回っていた。
しかし、檻の中に入れられていた凡人は、無惨にも食い散らかされた跡があった。助けられなかったことを悔み、持ってきていた籠から花を取り出し手向ける。生きている者はいないように思った。もう辺りは花だらけである。ふわりと風に乗って魂を送るかのように花びらが飛んでいった。
そんな時だ。手のひらより少し大きい程の小さな檻に、翡翠色の何かが閉じ込められているのを発見した。小型のスライムかとも思ったが、拾いあげて良く見ると、それはヤマガラ程の小さな鳥だった。
羽ばたくことも身動きも取ることもできない程にヤマガラの身体と同じサイズに作られている檻ではあったが、丁寧に檻の柱と足首が鎖で繋がれている。魔神のお気に入りの鳥であったのか? と思ったが、大事にされているにしては毛並みは良いとは言えない。所々羽が抜け落ちていて、肌が見えている。目を閉じ蹲っているヤマガラは、事切れている可能性もあると思った。それならば土に埋めてやろうと檻を壊し手のひらに乗せると、僅かに息をしているのに気付いた。心臓の音が弱い。すぐに息絶えてしまうだろう。
(ただの鳥ではないな……仙獣か?)
戦をしているのは魔神だけではない。凡人も仙人も皆戦っている。まだまだこの地を統治するには時間がかかる。この仙獣は何か情報を持っているかもしれない。そう思い、モラクスは拠点へと連れ帰った。
「モラクス、何か情報はあったかしら?」
「いや、もぬけの殻であった」
「そう……それは?」
拠点でモラクスの帰りを待っていた帰終が、手のひらに乗せていたままだったヤマガラに興味を持っていた。
「奴の拠点に囚われていたヤマガラだ。唯一生き残っていたので連れて帰ってきたが、直に息絶えるだろう」
「そう。仙獣かしら? まだ小さいわね。温めて仙力を分け与えてあげれば回復する可能性はあるかもしれないわ」
「ふむ……」
じっと丸まっている翡翠色の塊をみる。みるみるうちにぐったり横たわっていったので、もう生きることを諦めていると思った。もしこいつが生きたいと少しでも思っているのならば、契約を交わすこともできるが、生憎とここまで目を開けることも一言も声を発することはなかった。
「試してみるか」
帰終に別れを告げ、モラクスは自分の洞天へと帰った。ここは元素力が満ちている場所なので、仙獣であれば回復する可能性はある。寝台に座り込んで胸元に抱えてみたが、これで温まっているのかは不明だ。建物の中には、簡素な寝台に申し訳程度の掛布団しかない。ひとまず布団でくるみ、ゆっくりと仙力を与える。まだ脈は弱い。ならばもう少し、と思った所でヤマガラがゆっくり目を開けた。臙脂色の瞳だった。
「!?」
バサァ! とヤマガラが翼を広げ、手のひらから飛んで床に向かって転げるように落ちた。逃げ場などないのだが、ヤマガラは翼を広げたまま寝台の下に潜り込んでしまった。
「ここは俺の洞天だ。よって、ここからは逃げられないと思え。お前はあの拠点で何をしていたか教えてもらおうと思い助けた。どうだ。何か話せるか?」
「…………」
寝台に座ったまま下へ話しかける。しかし、声は返って来なかった。
「死を選ぶか? ならばそれも良い」
仙力を分け与えた内部から破裂させることは容易い。話さないのならば、生かしておく理由もない。
ぐっと手を握ったところで痛みを感じたのか、潰れたような呻き声が聞こえた後、寝台の下からヤマガラが這い出てきたので、握った手を緩めた。
「ぁ……われは……」
てっきり鳥の鳴き声がするものと思ったが、それは人の言語で話し始めた。
「命乞いをするつもりはないが、知っていることも、ない……しかし、質問には答える。仙力をもらった分だけ、恩は返す」
「ふむ……」
その後は、先程やりかけたように殺してくれ。足元に転がるヤマガラは言葉に詰まりながらも、たどたどしくそう言った。
「では手短に聞こう。お前はあそこで何をしていた?」
「……仙力を抜かれ、罰を与えられていた」
「お前は仙獣だな。魔神に仕えていたのか?」
「我は……夜叉だ。仕えていたというよりは……使役されていたという方が近い」
「お前が魔神の傍にいたという強靭な夜叉か?」
「わからない……ただ、人も魔神も仙人もたくさん殺めたのは事実だ」
「そうか。お前以外に生き残っている者はいるか?」
「わからない……あの場にいた者は、皆出払ったように思う」
「そうか」
一通りモラクスの聞きたいことは聞けた。ヤマガラも口を閉じた。しばしの静寂が訪れ、もうこのヤマガラは用済みと言えばそうだ。
「……我も、死ぬ前に一つだけ聞いても良いだろうか」
「ん? なんだ。言ってみろ」
「魔神の気配がしなくなったのだが……」
「ああ。俺が封じた」
「そうか。ならば、我は解放されてしまったのだな……」
「あの魔神を慕っていたのか?」
「違う……」
ヤマガラが言葉に詰まり、首を振った。そして、その続きを話すことはなかった。
「我も聞きたい事が聞けて満足した。では、我は自死できぬ故、すまないが殺してくれぬか」
「ふむ。俺の名はモラクスという。最後にお前の名を聞いて良いか?」
「モラクス……そうか。お前のことは魔神がよく話をしていたが、見るのは初めてだ。我の名は……教えたいが、名を縛られていて、発することができない。すまない」
魔神を屠ったにも関わらずまだ名を縛られているとは、余程強い力でこの夜叉を使役していたのだろう。
「わかった。すまぬがもう一つだけ知りたい。時に聞くが、お前はその姿で戦闘をするのか?」
敵対勢力にいた夜叉などさっさと殺してしまえば良いのだが、目の前にいるのが噂の強靭な夜叉なのであれば、とてもではないが腕の立つ見目はしていないと思った。他にも腕の立つ夜叉が潜んでいるのであれば脅威である。少しの疑問でもこの場で解消できるのならば解決しておきたい。
「我は……普段は人の形を取っているが、この通り仙力を抜かれその姿を保っていられない」
「魔神を葬った俺を憎むか?」
「……無益な殺生から解放されたことに感謝すれど、憎むなど……」
「なるほど」
夜叉と言えば戦を好んでいる上位の仙人だという印象がある。しかし、目の前のヤマガラはとてもではないが戦闘する姿が想像できない。
「もう少し仙力をわけ与えれば、人の形を取れるのか?」
「我は……」
夜叉は黙ってしまった。殺される寸前でそのようなことを言われるとは思っていなかったのだろう。先程から質問には嘘偽りなく正直に答えているようにも思う。つまり、人の姿を取れるということだ。
「お前は解放されて、生きたいとは思わないのか?」
「……思わない。しかし、安易に死を選ぶ権利もないだろう」
殺されるのならば仕方がないが、生き永らえる気もない。そう夜叉は言っていた。モラクスがあの時見つけていなければ、そのまま仙力が尽きて死んでいたのだろう。
「死ねない理由があるのならば、俺の元に来ないか? 俺は戦力が欲しい」
「……」
「無理にとは言わない。お前を殺すことはいつでもできる。しばしここで休んで考えてみるといい」
そう言ってヤマガラに手を翳し仙力を送った。しばらくそうしていると、一陣の風が吹き、翡翠色のヤマガラは姿を変えた。
「ほう……」
モラクスは思わず息を呑んだ。身体の至る所に傷を負っていたが、それも気にならない程に大層美しい顔をした……金色の瞳を持つ少年が現れたのであった。
「……惨めだろう」
「ああ、すまない。そのようなつもりではなかった」
一糸まとわぬ少年が現れ、その姿をじっと凝視してしまっていた。白い肌には無数の痣や切り傷、火傷のような痕が見えた。深い緑色の髪には所々翡翠色に光っている部分があり、手入れをされておらず伸び放題のボサボサ姿であったが、整えれば綺麗な髪になると思った。そしてやはり目を引くのがつり目がちの金色の目だ。前髪に隠れていたが、闇夜に光る月のような色合いに、つい目を奪われてしまう。右腕にはヤマガラの姿とは程遠い鵬のような翡翠色の刺青が入っているのが見えるが、ズタズタに引き裂かれている傷があった。
「とりあえず服を着ろ。少しここで待っていてくれ」
モラクスは夜叉の子に向かって布団を乱雑に掛け洞天を後にし、地上へと戻った。洞天はモラクスの許可がないと出られないので、どこかへ行くこともないだろう。あの洞天には弥怒がせっせと作ってくれた衣服が多くしまわれていたが、小柄な夜叉には大きすぎる。言えば嬉々として何か簡単な衣服を用意してくれるかもしれないと、夜叉の皆が集まっている場所へと急いだ。
「……痩せていたな……」
夜叉の子は、肋骨が浮き出る程に痩せ細っていた。仙人は食わずとも多少問題ないが、それにしても数ヶ月は何も口にしていなさそうな身体つきであった。何か食事も用意した方が良いだろう。何を食べるのか不明だ。それも他の夜叉に聞いてみるかと、夜叉の皆をまとめてくれている浮舎の元へと向かった。
「モラクス様! 次の戦への伝令でしょうか?」
「いや、まだ先の戦闘での傷が癒えていないだろう。今日は違う用件で来た」
「はっ。さようでしたか。して、いかような用件でしょうか?」
浮舎はモラクスより大きな身体をしている、四本の腕を持つ頼もしき夜叉だ。モラクスが来たと知ると、それまで他の夜叉と稽古をしていたようだが、こちらへ来て頭を垂れていた。
「小さな夜叉を拾った。何か食事と衣服をと思ったのだが、頼めるか?」
「弥怒に頼めばすぐにでも。どちらへお運びしましょう?」
「俺の洞天にいるので、ここに持ってきてもらえるか?」
「承知しました。夜叉ならば、肉でも食べれば精もつきましょう」
弥怒に伝えてきます。と言って浮舎は一旦森の奥へ消えた。数分後弥怒を連れて戻ってきたのだが、その手には大量の衣服を抱えていた。
「モラクス様、小さいといっても、どんな夜叉なのでしょうか」
「着られれば何でも良い。そうだな。この白い服など良さそうだ」
「はっ。一つと言わず、いくらでもどうぞ。むしろ採寸したいので、今度是非お会いしたいところです」
「そのうち会うことになるだろう」
「モラクス様、肉が焼けました。温かいうちにどうぞ」
「ああ、感謝する」
浮舎も弥怒も楽しそうだ。戦場へ向かう時も楽しそうではあるが、また違った笑みを見せている。あの子も直にこの輪に入れるだろうかと少し思案したが、きっと夜叉の皆は迎え入れてくれるだろうという確信をもった。
「戻った。とりあえずこれを着て食事を取れ」
邸宅に戻り、部屋の中へ声を掛けた。しかし、夜叉の子は見当たらなかった。布団は寝台の上に置かれ、先程まで座っていた場所にはいない。どこへ行ったのかと思えば、寝台の下からヤマガラの姿をした夜叉が這い出てきた。
「仙力がなくなったのか? 身体が辛いのなら横になればいいだろう」
「せっかくの布団を汚してしまう」
「布団? ああ、あまり使っていないので気にするな。こちらに来て食事にしよう」
「食事……」
「少し手を貸す」
ヤマガラの背中を撫で、再び僅かに仙力を送った。人の姿に変化した少年を前に、先程弥怒からもらった衣服を手渡した。
「このような衣服など……」
「他の夜叉が作ったものだ。今度採寸させてくれと言っていたぞ」
「他の夜叉には、合わせる顔がない」
「そう言うな、お前の為にと肉も焼いてくれた」
素っ裸のまま衣服を着ようとしないので、無理矢理頭から通して着せてやった。膝丈の、簡素な女人の寝巻きのような衣服だ。そういえば弥怒に性別すら伝えていなかったことを思い出した。
「もう何年もまともな食事は取っていない。今更食事など不要だ」
笹の葉で包まれた肉を眼前に出したが、夜叉は眉間に皺を寄せて手をつけようとしなかった。
「とにかく食べろ」
包みを解いて更に食べるよう促す。食欲をそそる、香ばしい肉の匂いが辺りに漂った。
「う…………っ、肉……何の肉だ」
しかし、夜叉は口元を押さえていた。そう何年も何も口にしていないならば、もっと消化の良さそうなものにすれば良かったかと今更ながらに思った。
「イノシシ辺りの肉ではないか?」
「…………いらぬ……、っ」
質問には答えたが、夜叉はそういうや否や駆け出し、部屋を出て行った。部屋を出ても邸宅の外へ出るには廊下など少し距離がある。
「ゲホ、っ、ぇ、っ、う、ゲホッ」
後を追い掛けると、廊下で口元を押さえながら胃液を吐いている夜叉を見掛けた。指から漏れた胃液が衣服や廊下を汚している。その姿を見下ろし、どうしたものかと思案した。
「肉が駄目なのか?」
「……なにも、いらぬ」
「しかし、それでは困るな。何か食べられそうなものはないのか」
「……やはり、殺してくれないか」
「安易に死を選ばないのではなかったのか? お前の状態を話し、違う品を持ってこよう」
話がちっとも噛み合っていないのは承知の上だが、刃向かって危害を加える等をしてこない為今すぐ殺す理由がない。このような状態で使役しても戦力になどならぬと思うのだが、それでも動かされていたのかと思えば、少しだけ夜叉のことを不憫に思った。魔神に奴隷にされている凡人を助ける行為はよく行っているが、解放した後は生命に溢れ、自ら契約を交わしたいと力になってくれている。しかし、この夜叉は生きるべき理由がないのだろう。
「……ひとまず洗濯と傷の手当てが先か」
すぐ仙鳥の姿に戻ってしまうのであれば、先に取るべきは休息の方かもしれない。傷の手当を自ら行うことがあまりないので、その考えに至るのに時間がかかってしまった。
「せっかくの衣服を汚してしまった……それに床も……」
「? ああ、掃除すれば良い。それよりも歩けるか? 湯殿へ行くぞ」
胃液塗れの夜叉の手を掴み、瞬時に仙術を使って洞天内にある湯殿へ連れていった。桶に湯を汲み、夜叉の頭上からそれを勢い良く掛ける。夜叉は驚いたようで身体をビクッと跳ねさせていたが、されるがままに湯を掛けられていた。
「次は拷問か……されど、我の知っていることはもう吐いた」
「? 何を言っているんだ。傷口を洗い流せ。あと汚れた衣服も洗っておけ。やり方がわからないから俺がやる」
モラクスは手拭いで固まった血を拭き、更に身体中を拭いてやった。やめろ。触れるな。と夜叉は言っていたが、聞かなかったことにした。
「さっさと戦場に送り出せばいい。先陣を切って死んでやる」
「まぁそう言うな。先陣の活躍が士気に大きく関わることくらいはお前も知っているだろう。それに、何の信頼関係もないものが先頭に立っても誰もついて来ぬ」
口調は今にも攻撃して来そうな乱暴さではあるが、案外大人しく、モラクスにされるがままであった。仕上げにタオルで拭き、傷の深いところは治癒薬を塗り包帯を巻いた。腕のほとんどは包帯に覆われ、腹部の酷い痣には痛み止めを貼った。衣服はびしょ濡れになってしまったのでそれは外に干し、一つと言わずと弥怒に強引に渡されていた別の服を着せた。
「よく見ると本当に傷だらけだな。戦闘でやられたのか?」
「うるさい……違う」
「ならば、魔神の仕業か」
「…………何かと理由をつけ、罰を受けていただけだ」
「強靭な夜叉か……万全の体調ならばもっと脅威だっただろうに」
「万全な体調の時など、皆無だ」
「ふむ……」
手当しながら肌に触れていたが、痩せているものの筋肉そのものはしっかりとついている。噂通り、ある程度の強さはもっているのだろう。
「もう少しお前の面倒も見たいが、そろそろ次の戦の準備をせねばならん。しばし休息を取っていろ」
「お前も我を使役したいのだろう? 連れていけばいい」
「自惚れるな。今のお前など連れていってもただの足手まといだ。何かやりたいのなら、お前が汚した床の掃除でもして後は休め」
「なっ……」
モラクスはそう言い放ち、その場を後にした。腕自体には随分と自信があるのだろう。体調を整え鍛錬をすればもっと伸びるとは思う。しかし、今の彼では浮舎や弥怒には遠く及ばない。拾ったからには、無駄死にさせる訳にはいかない。
戦は長期戦になり、益々激しさを増していくだろう。それまでにこの夜叉を戦場へ連れていけるようにしなければならないのだ。
「モラクス、ヤマガラちゃんの様子は?」
「ああ。目が覚めた。衰弱しているように思うが、肉を与えた所吐いてしまった。何か口にさせたいのだが、何を食べさせれば良いか帰終は知っているか?」
「仙鳥だったら、留雲の方が詳しそうね」
「……そうだな」
帰終は拾った夜叉がどうしているか気になるようだ。モラクスは戦闘の指揮や戦闘能力には長けているけど、傷の手当を自らすることはあまりないものね。と楽しそうに笑っている。その内に留雲を呼びにいってあれやこれやと尋ねていた。
「妾も小さな夜叉など育てたことはありませんが……花の蜜や木の実、粥などはいかがでしょう?」
「腹は膨れそうにはないが、まずは何か食べる方が大事か……感謝する」
「どこへ行くの?」
「……今日の戦場は浮舎に任せておけば問題ないだろう。少し出る」
「木の実はどこにあるかしらね」
ふふ、と帰終が袖口を口元へ持っていき笑っている。小鳥の世話など帰終や留雲……いや、削月にでも任せておけば良いというに、モラクスは自ら夜叉の食料を集めに行っていた。
「おい、どこにいる」
浮舎から魔神を討ち取り後処理をしたとの報告を待って、洞天の邸宅へ戻った。夜叉が吐き戻していた廊下は確かに綺麗に掃除されていたが、肝心の夜叉は見当たらない。邸宅の中にはいくつもの部屋があるが、そのどこかにいるのだろう。しかし、元々保護した時に連れて行った部屋にもおらず、寝台の下も覗いてみたがいなかった。
そもそも、気配を探れば居場所などすぐにわかるのだ。ふと気配を探ると、微弱ながらも邸宅の外にいることがわかった。逃げようとしたのだろうかと外へ行き、その姿を探す。邸宅の傍に植えてある木の傍には枯葉がこんもりと積み上げられ、その傍に翡翠色のヤマガラが羽を膨らませ蹲っているのを見つけた。枯葉の山が雪崩をおこしたら、埋まって見つけるのが困難だっただろう。それにしても、ここで何をしていたのか。モラクスにはさっぱり想像がつかなかった。とりあえずと手で拾い上げて見たが、ヤマガラは起きない。
(……かように温かかっただろうか?)
初めて保護した時にも手で触れていたが、その時よりも温かい気がした。そもそも、先程も仙力を与えたというのに、なぜヤマガラの姿なのだろうか。
わからない。モラクスは数千年生きてきてありとあらゆる知識を身に付けてきたはずであったが、握り潰せばすぐ命が潰えそうなこの夜叉のことは、てんでわからなかった。
……どうやら発熱しているらしい。ということがわかったのは、手にヤマガラを持ったまま留雲に見せに行ったからだ。良ければ妾が面倒を見ますが……と言われたが、断ってしまった。まだ他人に会わせるには時期尚早だと判断したからだ。温かくして休養を取れば良いと助言をもらったので、まずはその通り治療にあたる。洞天まで連れ帰り、寝台の上で布団にくるんでそっと寝かせてやった。勝手にこの部屋から出て行かれる訳にはいかないので、更に寝台全体を玉璋で囲む。これでどこにも行かず、ここで休養を取るだろうと思った。
再び戦場へ戻り、丸一日程経った後に洞天へと戻った。夜叉はモラクスが部屋を出た位置から全く動いておらず、モラクスが部屋へ入ると目を開けてこちらを見上げていた。
「熱は下がったのか?」
「……これは、勝手なことをした罰だということはわかっている」
「? 何がだ?」
質問の答えになっていない。勝手なこと、罰とは? 特に何もしていないと思うのだが、どれの事を指しているのかもわからない。
「言い訳はしない。反抗もしない。お前の気の済むまでやるといい。魔神はそういう生き物だということは知っている」
「……言っている意味がわからないのだが、俺はただお前の体調を心配しているだけだ」
「我の体調……? そんなこと、お前が気にすることではない」
「ふむ。話が通じないので話を勝手に進めさせてもらうが、未だ仙鳥の姿ということは、仙力も回復しておらず人の形を取れないということだな?」
「…………」
「無言は肯定と取るぞ」
「我は……な、やめろ! 触るなっ!」
玉璋を解き、仙鳥の背中に触れ仙力を与える。一瞬ヤマガラ姿のまま羽ばたこうと翼を広げていたが、モラクスの方が早かった。しばらくすると、少年夜叉が寝台の上に座り込んで現れる。人の姿になっているとよくわかるが、頬が紅潮してやや瞳が潤み、額にうっすら汗が滲んでいた。あまり体調は回復していないのだろう。
「なぜだ? なぜお前の仙力は回復しない? 質問に答えてもらうぞ」
「……腕の傷……」
しばらく夜叉は沈黙していたが、モラクスの無言の圧力に耐えきれなくなったのか、包帯に巻かれている右腕を見ながらぽそりと夜叉が呟いた。
「腕の傷?」
確かに右腕には酷く引き裂かれた傷があった。もう一度良く見てみようと包帯を外し、傷の入った刺青に触れる。夜叉は暴れることもなく動かずモラクスに触れられるがままである。手当てしていた時には傷が多すぎて気付いていなかったのだが、よく見ると、僅かずつではあるが、常に衰弱していくような外傷なのだろうということがわかった。
「なぜ傷の手当をしている時に言わなかった?」
「……どうせ、すぐ殺される。言っても無駄だ」
「なるほど。これがどういう効果をもたらしているのか、お前は知っているのだな?」
「……折檻の一つだ。失態を犯す度に、この傷は増えていった」
「ふむ……」
じっと夜叉の傷を見る。使役という言葉では収まらない扱いだと思った。確かにいけ好かない魔神であったが、先ほどの夜叉の行動から見るに、日常的に苦痛を味わせられていたのだろう。今更ながらに怒りが湧く。
「……破ッ!」
夜叉の腕をさすり、合意も取らずいつもの微弱な仙力ではなく高濃度の仙術を施し、モラクスは一瞬にして跡形もなくその傷跡を消し去った。
「な…………」
「俺はお前を生かすと言った。聞いていなかったのか?」
「お前は……っ、魔神だ。そうやっていい顔をして、どうせ我を使役して殺戮の命をする。もう殺しはたくさんだ!」
魔神への恐怖なのか、夜叉は治したばかりの腕に震えながら爪を立て吠えていた。無駄に傷をつける訳にはいくまいとモラクスはその手を掴み、壁に押し付けた。
「なるほど、お前の魔神への印象はよくわかった。そして俺自身がそれに当てはまっていないことをお前が理解していないこともわかった」
「なら、殺すか?」
「いいや、殺さない。俺はお前を戦力として迎え入れたいと言ったことに嘘はない」
真剣な目で夜叉の零れそうな金色の瞳を見る。夜叉の瞳には、体調のせいもあるかと思うが、恐怖と絶望の色が混ざっていた。これを取り除かない限り、モラクスと契約を結んではくれなさそうだと思い、掴んでいた手を離した。
「それと、俺の名はモラクスだ。お前ではない」
「モラ……クス……」
「そうだ。お前の呼び名も考えよう。真名は伏せたままで良いが、ずっとお前では呼びづらい」
「……すぐ死ぬ命だ……呼び名などいらぬ……」
夜叉は首を軽く振った。おそらく、名を縛られていたことで、名付けと使役されることが繋がり嫌がっているのだろうと察した。
「それもそのうちで良い。名を縛られているのならば、それを剥がすことも俺にはできる」
「そんなことが……できるのか……?」
夜叉は目を見開き、無意識であろうが腹の辺りを押さえながら呆然としていた。その辺にあるのか。とモラクスは目を細め、夜叉の腹部を見る。今すぐでもそれを行うことは可能ではあるが、今行った所で夜叉にとっては恐怖でしかないだろう。
「ああ。それにしても、お前は庭で何をしていたんだ?」
「あ……お前……モ、モラクスが掃除しろと言って仙力を与えた……から、我は、その、廊下と……あとは庭の枯葉を集めていた。しかし、途中で……。勝手に庭の掃除をし、それを遂行できなかった。だから檻のようなものに閉じ込められたと……」
「ああ。あれはある意味ではお前を閉じ込めていたが、意味合いは全く異なる。お前は眠っていたので説明できずあの場を離れてしまったのだが……すまない」
あれは、お前の体調を回復させる為に閉じ込めていたと説明したら、夜叉はまた眉を寄せ困惑した表情を浮かべていた。
「…………魔神も謝ることがあるのだな」
「俺は正しい行いをしているつもりではあるが、判断を誤る時も当然ある。その時は謝罪もする。当たり前だと思うが」
「……我も……かつてはそうであると思っていた」
「ならば、取り戻せばいい」
「…………もう、忘れてしまった」
夜叉は俯き息を吐いた。そして、しばらくしてから首を振った。
「ひとまず今日は休め。いいか。俺が今仙力を与えたからと言って何かしようとするな。横になって休め。わかったか?」
しつこいくらいに夜叉に理解させ頷かせ、横になるように言い布団を被せた。
「ひとまず……そうだな。それを剥がして傷が完全に癒えるまではここで安静にしていてもらうぞ」
「…………腕の傷のことは、感謝する」
安静にする旨には頷いてもらえなかったうえに、夜叉は目を閉じずにじっと天井を見ている。少し吐く息が荒い。しかし、元凶でありそうな傷は治したので、後は回復に向かっていくはずだ。夜叉は時折瞼を閉じるのだが、すぐにまた開いてぼーっと同じ所を見ている。目を閉じて眠ってしまったら、モラクスに何かされると思っているのだろうか。
「俺は戦場へ戻る。しばし眠っていろ」
一人にした方が良いのかもしれない。モラクスはそう思い、夜叉が今日こそゆっくり休めるようにと願い、洞天を後にした。
「……寝台の上で横になれと言ったはずだが?」
「…………横になるのは、落ち着かない」
また次の日になり、モラクスは夜叉の様子を見に洞天へ戻っていた。何もするなと言ったことはどうやら守っているようだったが、横になって休んでいろ。と言った方は、どうやら聞き入れてもらえていないようだった。
夜叉は寝台にもたれるようにして、膝を抱え床の上に座っていた。人の姿を保っていられる程度には仙力が回復し始めていることは僥倖と言えるのだが、夜叉は横になっていない理由を言うことなく、口を固く結んで目を伏せていた。
「まぁいい。今日は食事でもどうだ? 木の実、果物、花、穀類など、色々持ってきたぞ」
「…………不要だと前に伝えたが……」
「お前のことを他の夜叉に伝えたら、皆が持っていけと持たせてくれた。悪意のない好意は受け取る方が良い。想いが宿る食物では、回復速度も違うだろう?」
「会ったこともない我に……? なぜだ……? わからない……」
「ならば、会ってみるか?」
「いや、我は……」
「会ってみれば、食事も取ろうと思えるかもしれん。仙獣になれるか? 俺の肩に乗っていれば皆も害はない判断するはずだ」
夜叉は困惑して、瞳をウロウロさせていた。しばらく返答を待っていたが、相当悩んでいるらしい。ほら行くぞ。とモラクスが手を差し出すと、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、夜叉は恐る恐るといった様子でその手を取った。
「モラクス様! 次の戦場所が決まったのでしょうか?」
「まだだ。この後帰集と相談した結果をまた伝えに来る。今日は別件だ」
浮舎は先の戦では戦い足りなかったらしく、腕や指の節々を鳴らしている。なんとも頼もしいものだ。
「おや、こいつが最近保護した夜叉ですか?」
「ああ、そうだ」
「確かに小さいな。ははは」
「…………」
浮舎は、ヤマガラの頭をワシャワシャと撫でている。あまり表情には出ていないが、少しだけ眉間に皺を寄せているのがモラクスにはわかった。
「早く怪我を治して、一緒に戦をしよう、兄弟!」
「……我は、お前の兄弟などではない」
てっきり沈黙していると思ったが、意外にも夜叉は応えていた。
「ここにいる夜叉は皆兄弟だ。俺の名は浮舎だ。お前の名は?」
「……名はない」
「そうか。なら、モラクス様にいただくといい」
「……我は、モラクスに名をもらうことも、共に戦をすることもないだろう」
「…………今、なんと言った?」
浮舎は、それまで朗らかに夜叉に話し掛けていたが、ぴくりと片眉をあげ、静かに唸った。
「……何がだ」
「不敬にも程があるぞ。命を救ってもらっておいて、その態度はないだろう」
「我が頼んだ訳ではない」
夜叉も夜叉で負けてはいないようだ。確かにモラクスが勝手に拾って救った命ではある。しかし、その態度が浮舎は気に入らないようだった。
「おい、決闘だ」
「なに?」
「お前も人の形を取れるのだろう? 今すぐ決闘だ」
「お、おい浮舎。この子はまだ傷が癒えていない。決闘は次の機会に……」
「いいやモラクス様。こういうの始めが肝心です。腑抜け者は夜叉にあらず。来い!」
浮舎は踵を返し、大股で稽古場に使っている所へと向かっていった。挑発された夜叉はどうするのだろうと思っていると、モラクスの肩から飛び降り、人の姿になって浮舎の後をついて行った。
「モラクス様、審判をお願いします」
「ああ……それは構わないが」
浮舎と対峙した夜叉の瞳が鋭くなる。これも夜叉の血なのか、決闘を断ることはしないようだ。それとも、腕に相当な自信があるのかもしれない。
「お前、武器は何を使う? 好きなものを取れ」
「……お前と同じものでいい」
「ならば、拳で行くぞ」
二人共位置についたので、モラクスは間に立ち、はじめ! と号令を掛けた。実際この小柄な少年夜叉がどれくらいの強さを持っているのかは、モラクスも気になるところである。
ジリジリとお互い距離を詰め、相手の出方を伺っていたが、先に動いたのは浮舎であった。先手必勝とばかりに勢い良く夜叉目掛けて突進する。大振りに拳を振るったが、少年夜叉はそれを跳躍で躱した。宙を舞い、浮舎の腕に手をついて地面へと着地する。素早さはあるようだ。今度は夜叉が風元素を纏った突進を仕掛ける。モラクスの目でもギリギリ追えるが、かなり早い。一瞬のうちに浮舎の背後に回り足払いを掛けた。攻撃は当たったが、浮舎の重量を浮かせる程の力はなかったようだ。
「はぁ……はぁ……」
「寝てばかりで身体がなまっているのではないか? 毎日ここへ来い」
「そんな、ことは……ない」
実際の所、あの檻に入れられてから何日くらい経っていたかはわからないが、この数日は休養をずっと取っていた。それもあり夜叉は早くも息が切れているようで、早くも肩で息をしている。
「しかし風元素か。俺の元素も見せてやろう」
浮舎がそう言うと、雷元素の色をした霧が辺りに立ち込めた。浮舎はその中へ姿を消し、目視ではその姿を確認することはできない。夜叉はどうするのだろうかと見ていると、風元素で霧ごと切り裂いているのだが、浮舎には当たっていない。
「はぁ……っ、はぁ……」
しばらくそうして空を切っていたが、浮舎に攻撃が当たることはなく、段々夜叉は構えてはいるが立ったまま息をしているだけになってしまった。キョロキョロと瞳だけが動き、浮舎の気配を探している。浮舎は夜叉の背後から現れ、拳を振り上げた。それに気付き夜叉も振り返ったのだが、浮舎の拳の方が早かった。
「っ……! あッ、ぐ……」
「そこまでだ」
「俺の勝ちだな。おい、二度とモラクス様に不敬な振る舞いはしないと誓え」
夜叉は頬を殴られ、その衝撃で場外へと吹っ飛んで地面に倒れ込んでいた。浮舎は素早く夜叉の元へ行き、夜叉の様子を見ている。モラクスも駆け寄り、傷の程度を見た。夜叉は鼻から血を流し、立ち上がることができないようだった。
「浮舎、まだその子とは契約を交わしていない」
「契約の前に俺との約束だ。わかったか?」
「…………」
「わかったら返事をしろ。それとも、もう一回やるか?」
「………………わかった」
衣服の首元を持ち上げられ、夜叉は力無くぐったりしながら苦しさに眉を寄せていたが、絞り出すように返事をしていた。
「よし。明日もここに来い。お前の服の採寸をしたいと弥怒が言っていたぞ。あと、飯は食ってるのか? そんなに軽くては体力が持たん」
「…………余計な世話だ」
夜叉は浮舎の手首を掴んでいたが、その内に瞳を閉じ、がっくりと項垂れてしまった。どうやら気絶してしまったようだ。
「モラクス様、ここでこいつを預かりましょうか? 俺が性根を叩き直してやります」
「頼もしい限りだが、契約を交わすまでは今しばらく俺の洞天で過ごしてもらおうと思う。力でわからせるのは簡単なのだが、どうやら彼は力でねじ伏せられ使役されていたようでな。いずれはお前に預けるから、その時は面倒を見てやって欲しい」
「はっ! お任せください」
浮舎にそう伝え、気絶した夜叉を腕に抱えて連れ帰った。血で汚れてる顔面は拭いてやり、頬には痛み止めを貼って、モラクスの寝台へと寝かせた。この洞天の部屋にはいくつも余っている部屋がある。この夜叉の部屋を作ってやるのも良いかもしれん。……そこまで考え、なぜここまで甲斐甲斐しく自分で手当てしてやっているのだろうと、眠っている夜叉を見る。
……浮舎に会わせたのは、正解だったのだろうか。
それは、目覚めた夜叉が何か言ってくれるまで、モラクスにはわからない。
まさか、その印を持ったまま助かろうなどと思ってはいないだろうな? お前を生かしておいたのにはもちろん意味がある。いざという時の、所謂保険だ。早く身体を明け渡せ。なぁ、×××。
「う……」
目が覚めて薄ら瞼を開けた。あの後気絶していたのか、殴られた頬に痛みを感じる。しかし、この程度、折檻に比べればなんてことはない傷だった。手で触れると手当てされていることを知り、つくづくモラクスは変わった魔神だと思った。
……弱っている自分など、簡単に使役できただろうに。
浮舎の態度を見るに、モラクスは相当強いのだと思う。それもそうだ。自分を使役していた魔神すら葬ったのだから、自分を握り潰すことなど造作もないことだろう。
使役されるか殺されるか。どちらかしか選べないと思っていたが、生かされた挙げ句使役するつもりはないと言われてしまった。モラクスも浮舎も『契約』という言葉を使っていたが、使役と契約はどう違うのか。
再三寝かされているそろそろお馴染みの寝台から起き上がり、モラクスに浄化された右腕を見る。引き裂かれたじくじくと痛む傷跡は綺麗さっぱりなくなってしまった。身体中にある打撲痕や切り傷も段々治ってきて、仙力も少しずつ戻ってきているのを感じる。それと同時に不安に思うこともあった。
モラクスは幾度となく休養を取れと言っていたが、眠りに落ちると決まってあの魔神の声がする。このまま眠ってしまって意識を落としてしまったら、次に目を覚ますのは自分ではなくあの魔神なのではないか。そう思うとあまり眠れていなかった。
腹の奥にある名を縛る術には、魔神の神力がたっぷりと植え付けられている。だから、自分の身体が回復していくのが怖いのだ。モラクスに言えば、もしかしたらなんとかしてもらえるかもしれないが、モラクスにはそうする理由がないだろう。一度葬った魔神が再び現れるくらいなら、やはり自分ごと殺してもらった方が良いのかもしれない。そうすれば、多少は意味のある死になるだろう。
浮舎とモラクスが話をしているのを見て、少しだけ羨ましいと思った。夜叉でもあんな風に魔神と話をして、使役ではなく信頼してもらえるのかと思った。自分は敗者なので浮舎の言ったことには従うが、契約でも使役でもないただの口約束だ。破ったとて、もう一発殴られる程度だろう。
『今日は食事でもどうだ?』
『飯は食っているのか?』
モラクスと浮舎の言葉が脳内をふいに駆け巡っていく。確かに何も食べてはいない。魔神の元では、生かさず殺さず扱われていたので、そもそも食事をする習慣がなかったのだ。寝台の傍にあるテーブルに目をやると、モラクスが置いていった木の実や花などが目に入った。
寝台から降りて木の実を手に取る。きっと浮舎もこれを集めるのに参加していたのだろう。顔を見れば食事を取る気になるかもしれないとモラクスは言っていたが、さして食べようとは思えていない。
しかし、浮舎は不敬な行いは許さないと言っていた。食べなければ食べないで、無理矢理食べさせられたりするのだろうか。もしかすると身体の自由を奪うような神経系の毒でも入っているのかもしれない。いや、毒が入っていたとして、自分の身を守る必要など、どこにもないのだ。
そう思って、夜叉は一粒の木の実を口に含んでゆっくり舌で転がした後、意を決してそれを噛んで飲み込んだ。
「木の実や花は食べられたのか?」
「……あ、えっと……」
「仙鳥の食べるものにはあまり詳しくないのだが、腹は膨れたのか? 口に合わなければ、別の物を持って来よう」
「いや、大丈夫……です」
相変わらず夜叉は寝台の上で寝転んでいる訳ではなかったが、今日は一つ変化があった。夜叉が食事をしていたのだ。持って来ていた木の実や花が綺麗になくなっていることにも驚いたが、夜叉の態度が昨日までと違う。隙あらば暗く鋭い視線をモラクスに投げかけていたが、今日はその緊張感がどこか薄れている。
「モ、モラクス……様」
「んん、どうした」
「昨日の……浮舎の所へ連れて行ってもらえないだろうか」
「……構わないが」
「毎日来いと言っていたので、行かなければ奴は怒っているかもしれない」
「そのようなことで浮舎は怒るような奴ではないが……頬の痛みは大丈夫か?」
見るからにまだ頬は腫れている。そして、元々律儀な性格なのだろう。急に敬称をつけて呼ばれたので驚いたが、不敬を働くことは許さないといった浮舎との約束を、夜叉は遂行しているのだ。
「これくらい、支障ない……です」
特にモラクスに対して敬称をつける必要なも敬語を使う必要もないのだが、努力しようとしている姿勢に、何かが胸の内に湧きおこる。しかし、それが表に出ないように押し留めた。
「腹の痣や腕の切り傷はどうだ?」
「モラクス様に治療してもらったので、治りました」
「そうか……」
「モラクス様は……我をいつでも殺せると言ってました。我がこの命を断ちたいと強く願えば、滅してくれますか?」
夜叉が急に話を変えてきたので、モラクスは驚いて目を見開いた。先日の投げやりのようではなく、何か死ぬ事に目的があるように思う。
「……納得できる理由があればそうする」
「わかった。いや……わかりました」
夜叉は決心したように頷いた。それにしても、今日はよく夜叉が話をしてくれるなと思った。夜叉には会わす顔がないと言っていたが、浮舎と交流したことで、何か変化が起きたのかもしれないと思えば、結果としては悪くないだろう。
「我はこの数百年の間思考することを封じられてきた故、やりたいことも、成し遂げたいことも生きる理由も見い出せません。しかし、治療していただいた手前、迷惑になることは避けたく思います」
「そうか。わかった」
「では、浮舎の所へ連れていってくれますか?」
もう一度夜叉は尋ねてきた。ちょっと頑固な所があるのだろうとは思っていたが、もしかしたらちょっと所ではないのかもしれないと思えて、モラクスは心の中で笑みを零した。
「また来たか兄弟」
「我はお前の兄弟ではない」
「いいや、すぐに兄弟になる。今日は別の兄弟もいるぞ。紹介する。弥怒だ」
「はじめまして、夜叉の兄弟」
「だから我は……」
兄弟ではないと言いかけたが、夜叉なのかと疑う程にニコニコした背の高い男が浮舎の隣に現れた。身長はあるものの、戦より後方支援が似合いそうな、浮舎とは対照的なほどに柔和な顔をした男だった。
「我は名は弥怒。よろしくどうぞ」
「……ああ」
よろしくするほどに長い時間をここで過ごすつもりはなかった。来いと言われたから来た程度だ。後は、魔神に対抗できる強さを手に入れられるのであれば、それを得たいと思っただけだ。
「君の衣服はそれしかないのか? モラクス様には何着かお渡ししたはずなのだが……」
「知らぬ」
「いつまでもその服では動きにくいだろう。我が一つ見繕ってやる」
「……いらぬ。我は浮舎と戦いに来たのだ」
「はは。また負けに来たのか? 動きやすい服装も大事だぞ」
「……」
ここに来てから膝丈くらいの衣服を着せられていたが、これは弥怒の作成したものだということがわかった。浮舎の衣服も弥怒が作成したらしく、随分と器用らしい。服は着られればなんだっていいと思っていたが、そうではないと、初対面なのになぜか弥怒に力説された。
「そこに立っていてくれないか? 十分程でいい」
「……」
『はい』とも『いいえ』とも言わずに突っ立っていると、弥怒がペタペタと身体を触ったり物差しであちこち測ったりしていた。正直不快ではあるのだが、隣で浮舎が豪快に笑いながらそれを見ているので何も言えなかった。
「感謝する。では我は制作に取り掛かるので失礼するよ。浮舎にもモラクス様にも荘厳な衣装を渡しているのだが、着てくれないんだ。寂しいとは思わないか?」
「……我にはわからぬ」
「君も浮舎と同じタイプか? 上半身素っ裸だけは許せない……ああ許せない……」
弥怒はブツブツ言いながらも森の方へ消えていった。確かに、浮舎は上半身に何も身につけていないが、弥怒は足元まで隠れるくらい長い衣服を身にまとっており、手も足も布に覆われていた。
「では、衣服ができるまでの間、勝負と行こうか兄弟」
「だから兄弟ではないと……」
「名がないのが悪い。今日は槍を持て」
浮舎に槍を放り投げられそれを受け止める。槍でも短剣でも木の棒でも、敵から武器を奪い戦闘することもあったので、武具は一通り扱える自負はある。
「お前は誰かに戦い方を学んだことはないのか?」
「……ない」
「槍も剣も型が基本だ。我も基本の型くらいは教えることはできる。まずは適正武器の選定からだ。応用は書物かモラクス様に指導してもらうといい」
「我は字が読めん」
「ならば座学も必要だ。その分では仙術も使えんのだろう? 素早さと腕力だけでは我には勝てぬぞ」
「ふん……いくぞ」
「さぁ、どこからでも打ってこい!」
浮舎と戦いに来たのだが、すっかり稽古のようになっていてなんだか癪に障る。今日は元素力を使わずとも相手を地に沈めてやると意気込み、槍を構え夜叉は飛び出した。
結果、何度も槍を払われてはより良い動きを教えられ、やはり稽古のようになってしまった。正直浮舎はそれ程初期の位置から動いていない。一方的に体力を減らされているのは明らかに自分の方だった。
「そろそろお昼にしようよ~。あれ、新入りの夜叉の兄弟?」
「おお、そんな時間か。飯にしよう兄弟」
夜叉というのは、そのようにすぐ義兄弟の契りを交わす生き物だっただろうか。そろそろ兄弟ではないと否定するのも面倒になってきた頃、また別の二人の夜叉が籠を抱えやって来た。今度は女人だった。名は応達と伐難だと浮舎に教えてもらったが、そもそも次から次へと夜叉が現れるのに驚いてしまった。元々自分のいた集落は魔神に壊滅させられてしまったし、戦の最中で出会う夜叉も、使役されていたとはいえ既に何人も手に掛けてしまっている。
「我は……帰る」
「えっ、もう帰っちゃうの? ご飯持って帰る?」
「……いらぬ」
「また明日な、兄弟! 明日は衣服を取りに来い」
「行かぬ」
急に怖くなってしまったのだ。自分の素性を何一つ知らない同胞が、兄弟だと言って目を掛けてくれることが怖い。なぜだ。明日自分がその命を奪う可能性だってあるというのに、理解ができない。わからなくて恐ろしくて、逃げ帰るようにしてモラクスの所へと走り去ってしまった。
モラクスは千岩軍と軍議を開くと言っていた。場所は予め教えられていたのでそこへ向かったのだが、夜叉は千岩軍が何者であるかを知らなかったのだ。
「な、凡人……」
「む。もう浮舎との手合わせは終わったのか?」
「…………っ」
『おいしそうな凡人がたくさんいるな』
「うるさい……黙れ……」
「どうした?」
頭の中で声がする。千岩軍であろう凡人とモラクスから訝しげな眼差しをうけたが、腹に手を当てて闇雲に頭を振った。凡人に対して自分が何をしてきたかを一瞬にして思い出す。殺した。殺して食べた。戦う意志のない者を殺した。さして美味しくもないのに肉片の血を啜った。命令だった。仕方なかった。でもそれをやってきたのは他でもない自分だ。
「……おぇ……っ」
胃からせり上ってきたものを、地面へと吐き出す。そんなはずはないとわかっているのに、胃液以外の物が凡人の何かに見える。目の前の凡人が視界に入らないよう、蹲り目をぎゅっと閉じ地を見て吐き続けた。やっぱり無理だ。自分はここにいられない。
「帰ろう」
「…………」
モラクスに背を撫でられたが首を振った。しかし、有無を言わさず抱えられ、洞天に連れ帰られてしまった。
やはり自分を殺してもらおう。それがいい。生き延びる選択肢など、ない方がいい。