看病 カツン、カツン、よく手入れされた靴音が夜灯りに響く。
腕に抱えた夜叉の子は、ぐったりとして意識がなく、横抱きにして運んでいても身動ぎ一つしなかった。
また無理をしたのだろう。無理をするなと百年以上は言い続けているのに一向に改善されない彼の戦い方は、時折心が痛くなる。もしかすると、心配で摩耗してしまうから止めて欲しいと言えば止めるかもしれないが、魈のことだ。必要以上に落ち込む姿が目に浮かぶ。それは本意ではない。なるべく魈には自由に生きて欲しいのだ。ならば、魈のやりたい事を陰ながら支えるのが自分の務めでもある。
腕に無数の傷、額から流れて既に固まっている血痕。小さい体躯、軽い身体。今日も璃月の安寧を守るために駆け回ってくれた魈のことを、大事にしてやりたい気持ちが募る。彼は仙人だ。故にその辺で眠っていても回復するに違いない。きっと魈は、鍾離が洞天に運んで治療してやることも不要だと言うだろう。それでも早く治療してあげたいと思うのは、鍾離の我儘だ。
ドアを開け、居間を通り過ぎ奥まった人目につかない所に置いてある寝台へと魈を寝かせた。装具を外し胸元を少し開け、傷口から滲んでいた血を拭き取り楽な体勢にしてやると、魈は苦しそうに小さな呻き声をあげ眉間に皺を寄せた。しかし、金色の瞳を開けることはなかった。
さて、まずは業障から和らげてやらなければと思い、少し離れた作業場へ向かう。椅子に座り、振り返れば魈の姿が確認出来る位置だ。連理鎮心散の材料を集め、調合していく。凡人には作ることが出来ないものではあるが、もし鍾離の方が先にこの世から旅立つことになれば……魈を救い出せるのはあのモンドの飲兵衛詩人だけになってしまう。それだけは自分が辛抱ならなさそうなので、まだまだ先立つ訳にはいかないな。と思い直した。
粉末状にした薬を少量の水に溶かして練り上げる。完成したものを器に入れ、寝台の傍らに置いてある椅子に座った。魈はまだ目覚めないようで、深い眠りに入っている。このような状態を見るのは初めてではないので、肝が冷えたりすることはないが、単純に心配ではある。
寝台の縁に座り、魈を抱き寄せた。後頭部を支え、少しばかり口を開けてやる。練ったばかりの薬を指に取り、魈の舌へ乗せた。その後に自分の口に少量の水を含み、魈が噎せないように、かなりゆっくりと、慎重に時間を掛けて、神気と共に魈の口内へと流し込む。喉が上下したことを確認すれば、再度同じことをする。数回行為を繰り返した後は、また敷布に横たわらせた。魈は忙しなく浅い呼吸を続け、胸元をぎゅっと握り締めている。傷口の深さはそれ程ではないが、精神的疲労が酷いのかもしれない。ならば、連理鎮心散は役に立つはずだ。
魈の意識が戻るまでは、しばらくここを拠点に動くと決めている。目が覚めた時、万が一にでも発狂してしまった場合のことを考えておかなければならない。
凡人として生活してからは、夜に眠り、朝日と共に起きる生活をしていたものだが、久方振りに睡眠を取ることもなく朝を迎えそうだ。
どうか、今日も無事に戻ってきてくれ。
「ぅ……」
ゆっくりと瞼が開く。ぼんやりとする視界は、最後に目を閉じる前に見ていた景色とは違っていた。よく見知った天井だ。頭が重く、まだ起き上がれそうにない。
「はっ……、はっ」
未だに自分の息すら整っていないとは、随分と追い込まれてしまっていたようだ。視線だけを動かして、部屋の様子を伺った。
ここは鍾離の洞天であることはすぐにわかった。視界の端に、見慣れた紋様の衣服が映る。少し休めば降魔に支障はないと慶雲頂の七天神像付近にいたはずなのだが、またもや帝君の手を煩わせてしまったようだ。
「しょ、り……さま」
思っていたより随分とか細い声だった。しかし、鍾離の背中へ向けた言葉はちゃんと届いたようで、彼が振り返り、スッと立ち上がるとゆっくりとこちらに向かって歩いてきてくださった。
「気がついたか」
「も、しわけ……ありませ、ん」
「何を謝る必要がある?」
「また、我は……」
「まだ話せる状態ではないのだろう? ゆっくり休め。俺もしばらくはここにいよう」
鍾離は、魈の腕をするりと撫でた。傷の程度を見ているようだ。
「……すみ、ません」
「いい。俺が好きでやっていることだ。気にするな」
「はい……」
主君の前で身を起こすことができない。頭を垂れ、謝罪することもできない。お手を煩わせてしまった。不甲斐ない。申し訳ない。
「ゔぅっ……、ぁ」
「魈!?」
嗚呼、駄目だ。頭の中が真っ黒になる。鍾離の前で醜態を晒してはいけないと思うのに、どんどん落ちていくのがわかる。もがきたくて首に爪を立てる、ガリガリと掻きむしってしまう。
「魈! しっかりしろ」
「っゔ、うゔ……ン~~ッ!」
咆哮をあげそうになったところで、両手を敷布に縫い付けられ、口を塞がれた。温かいものが唇に触れている。じんわりと身体に流れ込んでくるものが、鍾離の神気だと気付いて身体の力が抜けていく。目に映るもの全てがぼやけた世界の隅で、目尻から雫がポロポロと溢れていった。
「今薬を飲ませた。じきに効いてくるはずだ」
「はっ、はっ……ひゅ、ぅう……」
「何も気にすることはない。落ち着いてゆっくり息をすることだけ考えろ」
言われた通りに乱れた呼吸を整えることに専念した。自分を律することが出来ず、更に迷惑を掛けてしまったことに罪悪感を感じてしまうのは仕方がないことだ。
「しょ……り、さま」
「ああ、大丈夫だ」
目元に手を当てられて、再度口付けられた。大丈夫。その言葉がじんわりと身に染みる。
大丈夫。我はまだ、大丈夫だ。
身体が落ちていく。しかし、その先は暗闇ではなかった。
再度目覚めた時、あれから随分と眠っていたようで身体は楽になっていた。ぴくりと動いた手のひらが、何かに触れていることに気付き、指を動かしてみるときゅっと握り締められた。これはなんだと視線を動かしてみると、よく考えればそうでしかないのだが、鍾離が寝台の傍らにいて、魈の手を握っていた。
「っ!? 鍾離様!?」
驚きのあまりぎゅう、と鍾離の手を握り締めてしまって、慌てて解いた。
「ふ、落ち着いたみたいだな」
鍾離は、何がおかしいのかくつくつと笑っている。
「も、申し訳ありません」
今度はちゃんと起き上がることができた。座して頭を垂れ、謝罪の言葉を述べる。
「いや、いい」
「また帝君にご迷惑を……」
「魈」
「は、はい」
「このやり取りも、もう何回もしている。そろそろ観念したらどうだ」
「観念……?」
観念、とは、どのような意味なのだろうか。不思議に思っていると、鍾離が寝台に乗り、ふんわりと腕を回した。
「ぅあ」
鍾離に引き寄せられて、腕の中に収まってしまった。ふわっと香る鍾離の匂い。じんわりとした温かさを感じる。なぜだかとても安心してしまう。身体の力を抜いて、身を預けそうになる。
「璃月の安寧を守ってくれているのだ。そう謝らずともよい。お前はお前のしたいことをしているように、俺は俺のしたいことをしているだけだ」
「鍾離様の、したいこと……」
「そうだ。俺はもっとお前に触れていたい」
魈の首元に鍾離は顔を埋め、ぎゅう、と更に抱き締められた。どちらかというと、鍾離の方が縋り付いているような体勢だ。
「お前と少しでも長い時間を過ごせるように、俺ができることをしている」
額に唇が触れた。その後、石珀色の瞳がしっかりと魈を捉え、唇にも一つ口付けをされた。力を分け与える為以外に、鍾離が唇に触れたことはない。
魈に触れたい。そんな些細なことが鍾離のしたいことならば、喜んで受け入れようと鍾離の衣服をやんわりと握り締め、瞳を閉じた。