ハグの日了遊※両片想い了遊
※連絡して会ったり余暇を過ごしたりする程度には慣れあっているタイプのふたり
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八月九日──用があると昼前に訪ねてきた藤木遊作は、鴻上邸の玄関に入るなり出迎えた了見の目の前に両手を大きく広げて立った。
「今日はハグの日だそうだ」
「……語呂合わせか」
「ああ」
両手を広げ、じっとこちらを見る。
「……」
「……」
「しないぞ」
「なんでだ。少しくらいいいだろう、別に減るもんじゃなし」
(理性が減る)
了見は心中で呻いて、そんなことよりとその手を取ってリビングへ引っ張った。昼前とはいえ既に日は高い。真夏の日差しの中を歩いてきたからか、つかんだ手はひどく熱かった。
冷房を強めにしたリビングのソファに座らせ、アイスティーを出してやると遊作は一気に飲み干した。真夏の鴻上邸へ至る道は途中、日陰もろくにない海辺と坂道を延々歩く羽目になるのだから致し方ない。テーブルに置かれたグラスの中でからりと氷が涼やかな音をたてる。
ソファの隣に腰を下ろし、ついでにピッチャーから二杯目を注いでやると遊作はもう半分ほどまで一気に飲んだ。そこでようやく落ち着いてきたらしく、遊作はグラスを手にしたまま、ほう、と息を吐いて遅まきながら礼を口にした。
「もしや用というのはそれだったりしないだろうな」
「いや、一応おまえが探しているという本を見つけたのもある」
「一応なのか……」
グラスの温度が心地よいのか手元に目線を落としたまま遊作は頷いたが、その拍子にぱたりと額の汗が手に落ちた。悪いと呟くように言ってグラスを置くと、ボディバックから取り出したハンドタオルでやや乱暴に顔と首周りを拭う。
「ただ、ハグの日の話を聞いた時におまえとはやったことがなかったと思って」
「……普段からやっているのか?」
海外ならばいざ知らず、挨拶や親愛としてのハグが一般的とは言えないこの環境下でどういう状況だろうかと了見は眉をひそめた。お世辞にも愛想がいいとは言えない遊作だが、周囲の面々は高コミュ力かつパーソナルスペースの狭い者が多いことを考えればそういう機会もあるのだろうか。疑問に思いつつ遊作を見れば首を振った。
「普段やらないからこの機会にと思った」
どうだ、と大真面目な顔で両手を広げてみせる。
「直接の接触は親愛を深めるのに良いという話も聞いた」
「……」
それは取りも直さず、『おまえともっと仲良くなりたいからハグさせてくれ』というのと同義だ。
いや元より遊作が自分と距離を縮めたがっているのは承知しているし、不本意ながら無下にもできず譲歩してきた自覚もある。そうでもなければ大した用もないのに家に来ることを許したりはしていない。
だが遊作の要望通りハグしたところで了見の方で深まるのは友愛ではなくあまり大っぴらにできない感情ばかりというのも自明だ。
「そんなことをせずとも今でも十分だろう」
言ってやると遊作は、そのきれいな目をいくらか見開いた。
「何だその顔は」
「俺が感じているように、おまえも本当は俺の事を親しく感じていたんだな」
「……今でも十分、というのはそういう意味ではない」
「ああ、分かっている」
遊作は微笑して頷くが、明らかに『そういうことにしておく』というニュアンスの「分かっている」だ。
「そうだな──つまり俺が今のままでは不十分と感じているから付き合ってくれないか」
ぐぬぬ、と了見は呻いた。まだ熱気が抜けないのか遊作の頬は紅潮していて、まっすぐこちらを見る期待の眼差しと合わせて訴えかけてくる圧が強い。
ふたりはしばし正面から見合って──白旗を上げたのは了見だった。
「……分かった。一度だけだ」
頷けば、遊作はありがとうとまた微笑んだ。
(これは当人が望んでいるのであって決して下心があるわけじゃないから仕方ないわけで不可抗力だ)
何に対してか分からない言い訳を心中で述べつつ、表面上は仕方ないから付き合うという態を崩さず了見は遊作を真似るように両手を広げた。
そこへ遊作が遠慮なく、ぎゅうと抱き着く。
が、
「──!」
何かに気づいたように一瞬硬直すると、了見が抱き返す前にパッと離れてしまった。結果、了見は両手を広げた半端なポーズのまま取り残されたやや間の抜けた格好になった。
「あ、ありがとう。無理を言ってすまなかった」
「それでいいのか」
拍子抜けして問えば、遊作は赤い頬を殊更赤くした。
「わがままを言って悪かった」
「別にそのようには思っていない」
(むしろ、わがままと言う割にはあっさりしすぎではないか?)
あれだけ強行に主張して期待させて──と、了見は眉をひそめた。
(いや別に決して断じて下心などはないし向こうがそれで良いというのならば良いことなのだから想定よりも短時間で肩透かしのように感じたからといってどうこう言うつもりもないのだが、親愛を深めるというのには足りないのではないかという疑念があっての淡白さに対するコメントだ)
引き続き何に対するどういうスタンスなのか自分でもよく分からない言い訳を連ねつつ、どこか気まずそうな顔で目線を逸らす遊作を検分する。
「そうだ。忘れる前に本を渡しておく」
言いながら遊作は傍らのバッグを手にしようとしたが、了見は手を伸ばしてそれを押しとどめた。ちょっと驚いた様子の遊作に構わず、先にされたのをそのまま返すような格好で遊作へ思い切り抱き着いてやる。
「~~っ、了見⁈」
抱いた体はやや細く感じるが想像よりずっとしっかりしていて、ひどく熱かった。背中と腰に手を回して、ついでに肩口に顔を埋めてがっつりホールドしてやる。
遊作は、ひなたと汗の混じった匂いがした。そういえばこうやって匂いを感じるほどに近づいたのは初めてだ。
平素の藤木遊作は物静かで冷静で、生に対する希薄さのようなものすらどこかに感じていた。だがこうして体温を、匂いを直に感じているとそんなものはただの思い込みだったと分かる。
「おい、離せ!」
「自分から言い出しておいて、そんなに嫌がることはないだろう」
もがく遊作を悠々と抑え込み了見はしれっと言う。
「さっきので終わった!」
「親愛を深めるのに必要だと言ったのはお前だ」
「だって一度だけだって! もう大丈夫だから、あんまりくっつかないでくれ……!」
叫んで遊作は渾身の力で了見を押し返す。あまりに嫌がるので了見はしぶしぶ腕を緩めた。
「随分と勝手を言うな」
不機嫌をそのままに口にすれば遊作は一転して小さな声で言った。
「その、さっき気づいたと思うが……、汗くさかっただろ」
「……」
「だから……了見?」
了見は返事をせず、先のように思い切り抱き込んだ。
「おい⁈」
「別に気にならない」
「俺が気になる!」
「そうか」
「そうか、じゃなくて離してくれと言っている!」
「検討はしよう」
「必要ないから離せ、おい、俺の話を聞いていたのか⁈」
「気にならないと言っただろう。お前こそ私の言葉をきちんと聞いておけ」
そんなこんなで変にスイッチの入った了見は遊作が暴れようが宥めすかそうが謝ろうがさっぱり聞かず、遊作が力尽きて無抵抗になっていくらかして、ようやく解放した。
「別に少しくらい良かっただろう。減るものじゃないと言ったのはお前だ」
了見は欠片も悪びれず、いっそ機嫌良さそうに言う。
「……少しじゃなかったし色々減った」
対照的にすっかり憔悴した遊作は恨めしげに了見を睨んでみせると、テーブルですっかりぬるくなったアイスティの残りを一気に飲み干したのだった。