忘れ物(ワンライ)最近鳴き始めた夏の蝉時雨がそこら中に降り注ぐ。生徒たちが通う通学路の道路には朝から陽炎が見える事もある。
暑い中通う生徒たちには期末テストが近づいている。
一昔前とは違って教室にクーラーか付いているのが当たり前の現代。それは彼女が主を務める保健室も同様だった。
デスクに向かって書き物をしていると、ガラガラと保健室の戸が開く。
“いつも”の痩せ身の彼が来る合図。
碧色のブラウスと黒いパンツの上に白衣をまとった彼女が、半袖カッターシャツの夏制服の生徒を迎える。
「あらあら、また来たの?」
「今日も休ませてくれるか?」
「お休みではなくおサボりでしょ?」
やんわり指摘すると、彼はばつの悪そうな顔をして『けっ』と短く言葉を吐き出した。
「今日はどんな理由にしておく?」
「熱っぽいって事にしといてくれ」
「はいはい」
会話を切り上げると、彼は早々にベッドが並ぶカーテンの向こうに消えて行った。
彼女は学校へ提出する報告書に、彼が言った仮の体調不良を書いておいた。
彼は授業をサボってよく此処を訪れる。この保健室に居ない時は大概屋上をサボり場としている。最近は炎天下が続くので保健室を利用する頻度が高い。
そんな勉学に怠惰な彼なのに、成績は優秀だと聞く。家に帰ればきちんと勉強しているのだろうか。
そんな彼とは、此処で顔を合わせる内にいつしか軽口を叩き合う仲になり、おサボりの共犯者のようになっていた。
書き物を再開してしばらくが経つと、不意に視線を感じた。振り返ると彼がカーテンを少し指でずらし、こちらを見ていた。彼女が振り返った事に気づくと、はっと慌ててカーテンの奥に引っ込む。
「あら、びっくりした。どうかしたの?」
「い、いや……」
閉じたカーテンの向こうから、訊きづらそうな声がする。
「あ、あのさ」
「なあに?」
「最近、暑いだろ? 先生、髪が長いから……ポニテとかにしねえの?」
「あー、そうね。この長い髪は大好きな私のママと似ているから、切りたくはないと思ってるの。髪をまとめるのは良いアイデアかも知れないわね」
「そうか……」
彼の短い返事には、何処か淡い期待があるようにも聞こえた。その正体は計りかねた。
下校時間になり、彼は帰って行った。『明日はちゃんと教室でお勉強するのよ?』と言っておいたが、たぶん馬耳東風に終わるだろう。
彼の寝ていたベッドを整理しようと、掛け布団を捲ってみる。
「あら?」
そこには一つの忘れ物があった。
彼が最近身に付けているバラのワンポイントチャームのヘアゴム。数日前から彼がブレスレットのように手首にはめている。
それを手に廊下に出て首を左右に動かすが、彼の姿はない。その後一応教室まで行ってみたが、彼は愚か生徒一人すらもう居なかった。
仕方ない、明日も来るだろうからその時に渡そう。
翌日。今日も暑い。
彼はいつも通り保健室へ現れた。
白衣のポケットからあのヘアゴムを取り出す。
「はい、これ。もう忘れ物をしてはいけませんよ?」
すると、彼は照れたように目線を横に反らし、受け取りを拒否するようにポケットへ両手を入れた。
「どうしたの?」
「……んたの、だよ」
「え?」
「あんたのだよ、それ。あんたにあげようと思って、ずっと、持ってたんだ……」
言葉を紡ぐ度に彼の頬が赤くなって行く。
「まあ、私へのプレゼント?」
「うん……」
「もしかして、ポニーテールにしたらって訊いたのも?」
「本当は、その時に渡せたらと思ってた。でも、恥ずかしくなっちまって。だからなにも言わずに置いてった」
彼女の口角が自然と上がり、とても柔和な笑みが出来る。彼は不器用だけど、優しい子だ。
「ありがとう。さっそく付けてみても良いかしら?」
「ああ」
髪を後頭部の上の方でまとめて、ヘアゴムを通す。
「どうかしら?」
彼は見惚れるようにしばし言葉をなくしていた。
あれ? 案外似合ってなかった?
そう思った時、彼が我に返ってより顔を紅潮させる。
「い、良いんじゃねえか? す、涼しそうで」
「ええ、そうね。髪も切らなくて良いし、素敵なものを貰ったわ。どうもありがとう」
心からの慈愛深い微笑みを向けると、彼は何故だかじりじりと後退して『きょ、今日は休まなくて良いや!』とバタバタしながら保健室から出て行った。
「あらあら、今日のワルイージくんは変ね」
不思議に思いながら首を傾ける彼女の束ねた髪の上では、窓から入る夏の日差しを受け、バラのチャームが恋の光を放っていた。
(おわり)