Candy Love Bind工房からは少し離れたK社の巣へと続く検査場の前、いつもよりさらに増してオレンジ色に照らし出されたこの区で最も大きく治安のマシな裏路地。
<わ……やっぱりまだ夜はちょっと涼しいね>
路地を満たす灯りは暖かくとも、吹いた夜風はまだ幾分冷たいものだ。深い意味もなく出た言葉に隣の男が上着を脱ごうとする気配を感じ、ダンテは慌ててそれを制止した。
<そこまでじゃないよ! ありがとう、ムルソー>
インナーにもある程度は丈夫な加工が施されているけれども、やはり重ね着の方が安全だ。この工房の武器は大抵がエンジンを回し火花を散らすものだから、自らの得物からも敵の攻撃からも身を守るものは多い方が良い。
予定された勤務区域まではもうすぐだ。喧騒に近づけば道の両端にたち並ぶ屋台に、浴衣姿で走り回る子供の姿。今見えているのは上澄みといえどこんなところは巣も裏路地もそう変わらないのだな、とダンテの見えない口角が上がる。
検査場付近の店や商店街が協力して行う夏祭りには日頃の自治の延長で近隣のフィクサーたちも参加する。バラとスパナ工房はこのあたりにしては人の多い事務所であったので、比較的広い範囲を二人一組で巡回しスリや強盗を目論むネズミのような輩の『廃棄処理』を行うことになっていた。
とはいえどちらかといえば実力行使よりも姿を見せることによる抑止力としての意味合いが強い。食べ歩きでもしながらと報酬の一環で配られた屋台用金券の綴りをぴらぴらと振り、周囲にある店へ視線をめぐらせる。
今日の夕飯と夜食を兼ねるものだ。栄養バランスに優れ、ムルソーが好みそうでなおかつ片手で食べられるようなものがいい。
<何か食べたいものはある?>
「ふむ…………いえ、今は特に」
<じゃあ、見つけたらすぐに言ってよね>
もとよりあまり自分の食事に頓着しない男だ。好奇心旺盛なところはあるから、歩く中で良い店があれば何かしらの反応は示すだろうと軽く流した。
雰囲気程度は知るものの、遠巻き或いは何かの媒体で見るだけのことが多かったがためにお祭りや屋台の知識はあまり持ち合わせてはいなかったから、今のダンテの目には何もかもが新鮮にうつる。
<あ、あれは? ムルソー、私あれが食べたいな>
「行きましょう」
串刺しにされ焼かれる巨大な肉の目立つその屋台から品を受け取り離れる人の手にあった、肉とたっぷりの野菜を挟みソースをかけたパンのようなもの。
お礼を言い、金券で引き換えてもらった出来立てのそれへ時計頭が嬉しそうにかぶりつく。
今の状態で食べては認識阻害に気付かれるのではないだろうかと思ったものの、ムルソーは頭を軽く振りその考えを掻き消した。天気の良い日に外で昼食をとるときも似たようなものであったし、何より危害を加える輩がいたとて叩き伏せればいいだけだ。
今はこの、舌鼓をうつ可愛らしい恋人を堪能していたい。時計の下の顔がどんなものか、見えずとももう手に取るようにわかる。
それぞれの分でソースを変えてあり、自分の分も剥いて食べさせながら同じように差し出されたものを齧る。
「あっ! ダンテさん、ムルソーさん!」
金の薔薇が施されたワイン色の幕の下からシンクレアが声を上げた。フィクサー以外の非力な人間でも扱える護身用小物を売るスパナ工房の屋台は巡回する者たちの休憩所を兼ね、彼を含む数名がその店番を任されている。
タバコの匂いに奥を見ればグレゴールの姿があり、一件いくらではなく時間単価の仕事に気乗りしないらしい彼はやや気まずそうにひらりと手を振った。
「グレッグ〜! ここにいたんだ」
「お゙ッ!? おう」
サボる最中現れた工房代表の姿に驚き身を強ばらせるも、その腕に数多抱えられた食べ物の山に咎められることはなさそうだと安堵したらしいのが見てとれる。そう、そもそもこの工房が、会長である彼女自体『こう』なのだ。
「このタンフルおいしかったのよ〜! はいどうぞ、あーん」
「……ありがとうよ」
一度タバコを口から離し、差し出された食べかけの葡萄飴をひとつ分だけ噛み砕く。いつもはまだ吸っているからと遠慮するものの、流石に会長兼恋人相手にはそうもいかないらしかった。
邪魔しないよう離れるのを試みるも、呼び止められてあなたたちの分ねと飴を二つ渡される。選ばせるためムルソーの方に向ければ彼は静かに首を振った。こちらを見る眼差しは優しい明け方の海のようで、ダンテは的確にその譲る意図を察して小ぶりないちご飴を取り、残ったオレンジの方を差し出した。
飴に潜らせることで幾らか熱の通った果物は、時間経過で竹串付近の飴を溶かしその汁を滴らせる。
かといって上部は分厚い飴で食べづらく、どうしたものかと考えながらムルソーを見れば彼の飴は無造作にポケットへと突っ込まれたまま、食べる以前の状態にあった。
<食べないの?>
「はい、今は」
<多分帰る頃には溶けちゃってるよ。戦闘になったら潰れて制服を汚すかもしれないし……食べちゃった方がいいと思うけどな>
「そうかもしれませんね」
飴を取り出しくるくると回しながら考えこむムルソーの眉間がちょっと深くなって、確かにネズミは追い払えそうだけれどお祭りの雰囲気にはちょっとそぐわなかった。
何より仕事とはいえせっかく二人で回っているのだ。少しくらい、恋人のデートらしい楽しみ方をしてもバチはあたらないと思いたい。
会長が既にそうする気満々であるのだし。
<あんまりしかめ面してるとお客さんも萎縮しちゃうでしょ。ほら>
「む……」
唇に押しつけた飴は貼りつき、引き離すときに少しばかりの抵抗があった。
小さくのぞいた肉厚の舌が舐めとっていく、ぺたつきうっすら赤く染まった唇。
道の両脇にならぶ屋台の何よりもおいしそうに見えて無意識に喉が鳴る。
<……ねえ、ムルソー。ちょっとこっちに……>
「何でしょう、ッ、……ん……」
呼べば顔を寄せてくれるとわかっているから、そのまま引き寄せ甘く吸いついた。
「…………ダンテ」
<ふふ、恥ずかしい?>
「………………今は、控えた方が」
伏せがちにこちらを見やりまた小さく唇を舐めたムルソーの耳も染まっており、そのことがまた一段と心を高揚させていく。
<触れるところは見えてないし、いつもしてるからいいかなって>
「……あなたに不特定多数の注目が集まるのは好ましくない」
足早に移動しようとするムルソーに腰を抱かれるがまま、触れる制服越しの胸が随分強く鼓動しているような気がした。
しばらく歩いて屋台の並びの裏へと抜ければ一気に周囲は暗くなる。ようやく立ち止まったムルソーはダンテの方へと向き直り、持っていた得物を置いてしっかりとその肩を掴んだ。
「ダンテ。仕事が、終わったら──」
<う、うん>
勤務中の彼らしからぬ奥底から感情の滲むような声に時計頭がカチリと驚いたような音を鳴らす。
「────揶揄った責任を、とってください」
理性の一枚皮を隔て、狩りをせんと息を潜めたしなやかな肉食獣のような吐息。下から炙られ熱を湛えた硝子のようなエメラルドが彼の恋人をとらえ、返答の隙さえ与えずに時計の下の唇を肉厚な舌が貪り塞いだ。