嗚呼、愛しき工房の日々7(上)7.
<よし、それじゃあ行ってくるね>
「みんな〜、お留守番よろしく頼むわよ?」
いつもの武器に加え、ロージャが背負っている大きくいかついケース。
武器や防具を扱う工房が切磋琢磨のため集まるイベント、今後のためにと手伝いで私も参加することになったそれへと展示する最新作が格納されている。
事務所の入り口で私たちを取り囲む一人一人の顔を見回し、彼女は最後ににこりと笑った。
「ご安心くだされ会長殿! ご不在の間、私が必ずや工房を守ってみせまする!」
「ありがとうドンキホーテ。あま〜いお土産買ってくるからね」
ぎゅうと抱きしめられたドンキホーテが窒息する前に、私も最後の準備を済ませたほうが良さそうだ。人だかりを潜り抜け、いつもと変わらずパソコンに向かうムルソーへと近づいた。
<ムルソー>
「はい」
相変わらず、作業中にそのエメラルドが私を見ることはない。
わかってはいるけれど。これから数日会えないというのに、見納めすらしてくれないだなんて。自分だけが抱いているらしい気持ちに一人勝手に心乱された仕返しだと彼の広い背中へ覆い被さるように回した手をひらひらと視界に入れ、そのままアイマスクみたいに塞いでやる。
まぬけな声をあげぴたりと動きを止めたムルソーがどうにも可笑しくて、思わず笑みが溢れた。
<日持ちするご飯置いてきたから、必要だったら食べに寄るんだよ>
「はい」
<残業しすぎて帰るの面倒だったら寝ていってもいいからね>
「はい」
<とにかくきちんと食べてちゃんと眠ること。いいね>
「問題ありません。……道中気をつけて、ダンテ」
手のひらで触れるムルソーの瞼がゆるりと閉じていく。まだお昼までしばらくあるというのに、これ以上はよろしくない。
ぱっと離して、目をしぱしぱさせている彼の背中をぽんとひとつたたく。
<じゃあ、行ってくるね>
「……はい」
聞き慣れた短な返事を見送りの代わりに、そろそろ行くわよと手を振るロージャへと駆け寄って、工房を後にした。
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自らの体調を維持すること。
具体的には、『きちんと食べて』『ちゃんと眠る』こと。
私には、彼の管理人としての仕事を手伝うという約束がある。
一日目。
彼が整えていったからだろうか。今日は全体的に仕事の量が少ない。定時で帰宅し、戻った自分の家で買ってきた『もの』を口へと入れる。
入浴後着替えてから寝衣の洗い替えがないことに気がついた。彼の家に置いたままだから、明日取りに寄る必要があるだろう。
数年使っていたはずの寝具はよく体に馴染んだが、少し前からのどうにも何かが不足しているような感覚が変わらずにあった。そのためだろうか、家で眠る翌日は、起きるべき時間よりも随分前に目が覚める。
二日目。仕事の依頼以外で工房のフィクサーたちがやってきては何かしらの飲食物を置いていく。グレゴールがダンテの真似をして目を覆ってきたが、右のアームの隙間から視界は確保できていたため入力作業の続行に支障はなかった。
昼食はいつの間にやら書類の山の上に置かれていた、差し入れであろうシリアルバーを作業の合間にかじる。一人で簡易ベッドに寝転がっていくらかの仮眠を試みたものの眠気とは裏腹に意識が落ちることはなく、目を瞑って休むのみとなった。
当然午後頭がはっきりとせず、効率のためにエナジードリンクを開け、そこそこの残業で切り上げて彼の家に寄る。
懸念事項を考慮して借りる皿は小さなものとし、少量よそって温めた料理を口に運んだ。
「……………………、何故」
やはり、味はしない。
料理の種類も、彼の手によって作られたことも、全て同じであるはずなのに。
三日目。
早朝から出勤していたのを夜勤明けのグレゴールに見咎められる。
適当に流しているとすぐ携帯が数度短く鳴ったが、表示される彼の名前のメッセージをろくに読まぬまま『試みています』とだけ返した。
エナジードリンクを飲んだ時間が早かったためか昼頃強烈な眠気に襲われたので、昼休憩に入ると同時に仮眠室に倒れこみいくらか眠る。時間直前に目を覚ますも思考にかかるようなもやと頭痛がして、致し方なく二本目へと手を伸ばし、……彼の顔が浮かんで、やめる。
代わりにカフェオレを数回摂取した。
夕方頃の急な呼び出しで予定が狂い深夜の退勤になる。交通機関もなく、昼を摂りそこねたのでせめて夜はと思っていたこともあり彼の家に向かう。
同じ味がしない食べ物でも、義務的に口に入れるならば彼の手により作られたものの方が良い。少しずつ調節し、客観的に見て十分な量ではなかったが、それ以上食べる気力もなくなったところで食事をやめた。
結局寝衣の替えを回収する算段は不要なものだった。彼のコートがかかっていない空っぽのハンガーの横で自分の制服だけが揺れている。
数日前まで共に寝ていた寝具は同じものとは思えないほど馴染まずに、一人分の空白をぽっかりと残し、深い眠りへと引き込んでくれることもなかった。
四日目。
彼のメールを、開けない。
手の中の端末は通信用アプリの連絡先一覧、彼の名の横に新着を示す通知のあるそれを表示し続けている。
所属する工房に無関係無価値であることだけはわかる、何らかの私的な感情が胸を締めつけ、集中力を損なわせていた。
本能が告げている。読んでしまえば最後、今日の私はきっと、使い物にならなくなる。
緊急の要件があれば取りついでもらうよう配置部に伝え、端末の電源を切って、鞄の奥底へとしまいこんだ。
「なあ、お前さん……流石にちょっとやばいんじゃないか?」
「何がですか」
椅子の背もたれに何かが乗って重心が変わる。彼であれば肩を選ぶ。彼ではない。声から察するにグレゴールだ。血の臭いがする。日中の仕事を終え、数個前の作業として作り終わった夜間外勤の資料を取りに来たのか。ということは今はもう夕方なのだろう。
「四日しか経ってないってのに、ダンテさんが来る前よりやつれてるように見えるぞ」
「作業進捗を考えるに、本日予定分に関しては支障はありません。突発的な呼び出しがない限り多少の残業で終わるでしょう」
「そういうことじゃないんだがなぁ」
大した話ではないらしい。あまり意識を割く必要はなさそうだ。途切れた集中を繋ぎ直す必要がある。鈍った脳に残った出力を一本の糸を紡ぐように再度安定させていく。
「…………………………?」
できない。
気がつけばぼんやりと書類の文字を眺めている。上から下まで目を通しても、内容をうまく捉えられない。
「ほらみろ、やっぱりしんどいんだ。帰っちまえよ。俺のができてるあたり、今日やらなきゃマズイってやつはもうないんだろ?」
「しかし。そういう……わけには」
「どうしても仕事サボれないなら、ダンテさんのうちで飯と仮眠だけとってからまた来ればいい。配置の嬢ちゃんには説明しておいてやるからさ。ちゃんと休んだほうが作業効率が良くなるんだ、ってダンテさんも言ってただろ」
確かに。考えこんだ僅かな隙に生身の左腕が器用にマウスでパソコンをスリープさせていた。椅子を引かれたと思った途端鞄が押しつけられる。何かを掴める腕が今は一本しかないというのに器用なものだ。
「ほら、帰れ帰れ。またな」
「…………はい」
背中をぐいぐいと押されるまま、短な帰路につく。
ドアノブを握り、引くのにほんの少し覚悟がいる。
電気のついていない暗い廊下。家主がいないのだから当然だ。鍵だけをかけ振り向いたあたりで力が抜け、膝からすとんと崩れ落ちる。
眠い。
体が動かない。
身を起こすのも、眠る支度も、もう何もかも放りだしてしまおうと思った。
床に触れる頬が冷たい。
黒く呑まれていく意識をスクリーンに、朧げなあの日の記憶が呼び覚まされていく。
同じようにぼんやりとした意識の中で。
唇に触れる柔らかな感触。注ぎ込まれる甘美な水。
優しく外界を閉ざす、心地よく冷えた穏やかな手。
「……ダンテ」
探したって、あの炎はここにないのに。