嗚呼、愛しき工房の日々3(下)エアコンの冷気をめぐらせるサーキュレーターの風ではためくカーテン。月明かりが差しこむ寝室の着替えさせ寝かせたベッドの上で、彼のぼんやりとしたエメラルドがリビングで動く私の姿を追っている。
警戒しているときの反応だと知っていた。当たり前ではあるけれど、まだ信用されていないのが何だか悔しい。それとも阻害機を外してしまったから、私だとも思ってもらえてない、とか。
冷凍庫から出したばかりの新しい氷嚢を持って近づき、冷えていない方の手で額に触れる。
まだ、熱い。
一度容体の落ち着いたムルソーを水風呂から出し、四苦八苦して引きずるように寝室まで連れてきたのが昼過ぎのこと。咥えさせた体温計が概ね正常を示したことからとりあえずは様子見として、十数分おきに工房と家を行き来しながら彼と仕事の様子を両方管理する目まぐるしい一日をようやく終えて帰宅したのが数刻前。
倒れたのをきっかけに溜まりに溜まった疲労が爆発したのか、今度は彼自らが発熱してしまったらしい。どこか辛くないかを聞いた時、うわごとのように『頭が痛い』と言う彼の体は再度熱を持ち、今度はちゃんと汗もかいていた。一日中こんなに冷やして、かえって風邪でも引かないだろうかと心配になるほど氷を取り替え続けて今に至る。
触れる手を持った氷嚢で冷えたもう片方に替えてやれば、焦点のあわない目が気持ちよさそうにほんの少し細められた。
「大丈夫だよ」
そのままそっと下にずらして目蓋を閉じてやれば、徐々に呼吸が深くなっていく。
もしかして、少しは安心してくれた?
手から伝わってくる彼の体温で心までじんわり温かくなる。
そのまま触れていたかったけれど温めてしまってはかえって頭痛を酷くするかもしれない、と名残惜しく外そうとした腕は、動かない。
「え……」
「………………」
引き留めるように手の甲へと添えられた、ムルソーの大きく骨ばった指。
表情の見えない彼の言葉のないお願いに心臓が跳ねる。普段からは想像もできないような仕草。
彼にも、私にも。今日は本当に色々なことがあった。大体彼に至っては徹夜明けも加わるのだから、体と一緒に心まで弱ってしまったとしても無理もない。
自覚があったかはともかくとして、無理をしていたのは確実だった。
「うん、わかった。ここにいるね」
乗せられた手の指先を軽く絡め撫でてやれば留めようとしていた力がふっと抜ける。
もう身支度はあらかた終わってしまっているから、休んでも特に問題はない。
ここでこのままうとうとして、ムルソーが寝入った後にそっと離れソファで眠って。いや、夜中に熱が上がったら辛いだろうから、隣の床で眠った方がいいかもしれない。朝ごはんの仕込みはまだだが、いつもより少し早く起きて二人ぶん作ればいいだけだ。
びしょ濡れにしたついでに寝づらいだろうと整髪料を落としておいた黒髪は、想像よりもずっと重く柔らかい。軽く指をとおして、くしゃくしゃ頭を撫でてやる。
「おやすみムルソー」
瞼に乗せたままの右手に馴染む彼の体温。せっかくお互い片手が空いているのだから、握ればもっと安心してくれるだろうか。
重ねた手の指をシーツとの間に差し入れて、昔見た祈りの真似事のように願う。
君の苦痛が、少しでも軽くなってくれますように。
深まった呼吸にあわせて規則正しく上下する胸の膨らみに、きっと大丈夫だと目を閉じた。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
「………………?」
朝、寝具の上で目覚めるのはいつぶりだろうか、と目を覚ましたばかりの男は思う。
鳥のさえずりと共に揺れるカーテンから差しこんでいる陽は淡く、青い。
帰宅した記憶もなければ、この部屋自体も知らない場所だ。意識が途切れる直前の記憶はひどく曖昧で、諦めてもっと前から順繰りに思い出すことにした。
追跡。待機。ドアを破り、排除を終えて、足に当たった死体と画面に表示された管理人の番号。ようやっと休める、という妙な安堵。遠く明るい場所で動く人影と、優しく冷たい心地よさ。
「…………倒れたのか」
帰還間際に意識を失い、どうやらここに運びこまれたらしい。
一つずつ身体の動かせる範囲を確かめていくと右手に何か錘がついているような感覚がする。見ればベッドの中ほどに頭を預けて眠っている男が、それを両の手で握っている。
近辺には先ほど起き上がった際に額から落下したものや首元に添えてあったものと同じ氷嚢がいくつか散らばっていた。
状況から見て彼がここの家主なのだろう。問題は夜通し自分を看病していたらしいこの男の顔に、彼自身全く覚えがないことだった。
男への無用な刺激を避けるために寝たまま周囲を見渡して、この人物の情報を探す。壁際のラックには工房の制服が上下揃って二着かけられている。明らかに大きく、未だ水を含んでいるように見える方は自分のものだとすぐにわかった。昨晩の戦闘で負傷した位置、左袖が切り裂かれていたからだ。つまりはもう一着、会長と同じ丈の長いタイプである制服はこの男のもので、工房の人間である可能性が高い。
倒れたところを通りすがりの物好きに拾われ、工房に状況も伝わらず行方不明扱い、という状況ではないらしいことにムルソーは安堵の息をついた。
ふと、制服の隣、部屋の出口に近い壁に留めてあるウォールポケットのフックにかかっていた腕時計が目に入る。
赤いボディに黒の文字盤、黄色い針。
ゆらゆらと揺れている炎のようなものこそないが。
見覚えが、ある。
『食べなさい』
菓子の袋を開けるのがわざわざ自分に見えるよう、後ろから覆い被さる形で回される両腕。
『ありがとう』
モニターとの間に割りこみ様々な食べ物を唇に押しつけては満足そうに笑う、その声の腕にあったものと、同じだ。
「……………………ダン、テ?」
道理でわからないわけだ。彼に時計以外の顔があることなどムルソーは全く知らなかった。
「ん……」
身じろぎした男の寝ぼけた声に確証を得る。
無意識に肩の力が抜け、張り詰めていた息が抜けていった。
安心、している。
自分に夜通しつきそう身内などはなく、ただの上司に過ぎない男がそうしている不可解極まりない状況である、というのにだ。
寝かされている以上は彼の意思に違いないが、ベッドを占拠し家主を床で寝かせている状況がムルソーには居た堪れなく思えた。このままでは満足に休まらない、休ませなければ、と思うのは、自分が倒れたばかりだからだろうか。
身を起こせば天井がぐるりと回る。反射的に目を閉じ内容物を伴わない強烈な吐き気を抑えこみながらも伸ばした手を脇の下へと差し入れ、ずるりずるりと引き上げていく。
抱き寄せてようやく頭を枕へ戻せば、天井の回転も吐き気も余韻を残し治まった。
思わず額に手をやりながらも横を見れば至近距離で眠る顔。
不思議なことに心理的な抵抗はなかった。気がつけば手を握られ、介抱され、放り込まれていた近さを受け入れてしまっているらしい。
それでもシングルのベッドに二人は狭い。落ちないように抱え直せば、腕の中でぱちりと視線がかちあう。
「………………ムル、ソー?」
「……はい」
間違いない、管理人の声だ。
ぼやけた目を幾度か瞬かせたのちに抱きつかれ、ムルソーはどうにもむず痒くなって身じろぎをする。
「よかった……! 心配したんだからね。具合はどう?」
近い。
「眩暈があり、頭を上げることができません」
「そっか。……元気になるまで当面はお休みだよ、安心してね」
手のひらの添えられた頬が、ただの彼の体温が与えられているだけにしては、熱い。
「ふふ……」
呆然としたまましばらく見つめあっていると、ダンテがまだ見慣れぬ顔でへにゃりと笑う。
何がそんなに嬉しいのかと思いながらもムルソーもまた、目を逸らすことができなかった。
「どうかしたのですか」
「ううん。ただ、君……」
いつも、いつも、何をしても。視線はいつだってパソコンや書類に向いていたから。
「やっと、こっちを見てくれた」
囁かれたのは、待ち望んだ瞬間でいっぱいに満たされた胸から柔らかく押しだされたばかりの心のひとかけら。
カーテンの隙間から差しこんだ暖かみを帯びたばかりの光が、彼の目を太陽のように輝かせていた。